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(4)

 アーサーの部屋に閉じ込められたミシェルは、バルコニーへと続く窓の傍らで揺れているカーテンに気付いた。部屋の空気を動かす風がやわらかくミシェルの頬を冷やす。



(できる)



 アーサーの寝室は宮殿の三階にある。それを知った上でミシェルは窓へ近付いた。唯一外界へ通じる手段が窓しかないのならば、するべきことは一つだと思った。


 ゆらり立ち上がると、窓へと近付いていく。バルコニーに出て地上を見下ろしたミシェルはその高さに眉を顰めた。きっと着地を間違えれば、命を落としてしまうだろう。寝台のシーツを利用しようと考えて、室内に戻る。



(大丈夫)



 心の中で呟いて、シーツへ手を伸ばす。指先から感じた滑らかさ。掛布団が動くといつもアーサーが纏っている甘い匂いが一層濃く辺りに舞った。



 ――僕は、君に人を傷付けてほしくない。



 その彼の台詞が耳の奥に蘇り、ミシェルは戸惑う。思い返せば、ミシェルはアーサーに護られていた。アーサーだけではない。シリルにもルイスにも、いつも誰かに護られている。強くなったつもりでいたのは、きっと自分だけだったのだ。


 ミシェルは誰かを護りたくて強さを求めたわけではなかった。報復のために得た強さは偽物だったのかもしれない。



(でも)



 このままじっとしているわけにはいかなかった。例え偽物だとしても、ミシェルは諦めないと決めたのだ。もう目の前の現実から目を背けないためにも、諦めるわけにはいかない。


 揺るがない決意を胸に焼き付けたその時、短い硬質な音が耳を打った。驚いて顔を上げる。音のした方向へ目を向けると、開き始めた扉があった。



「……シリル……?」


「……申し訳ございません」



 開いた扉から現れたのは、シリルだった。彼は開いたままの扉を背にして、ミシェルを真っ直ぐに見詰める。



「やはり、俺は貴女を護り切ることができない」



 そう口にして俯いたシリルを前にして、ミシェルの足は動かなかった。


 彼はずっとミシェルのことを護って、ミシェルの傍に寄り添っていてくれた。憎しみだけを糧に生きるミシェルの傍にいることは、きっと彼にとってもつらかったに違いないのだ。それでも離れずに、共にここまでついてきてくれた。


 ミシェルが報復をしないと告げた時すら、彼はミシェルを見捨てずにいてくれた。いつだってミシェルの意志を優先させてくれる、その彼に自らの意思がないわけではないのに。


 シリルは顔を上げると痛むように目尻を歪めた。



「ミシェル様。貴女はアーサーを護りたいのですか?」


「……ええ」



 頷いて、ミシェルは痛む胸を知る。けれどシリルから目を離すことはなかった。



「私だって本当は分かってる。彼の許へ行くことが貴方を傷付けるって。私が怪我をしたらなおさら……それでも、私は彼の許へ行くわ」


「……そうですか」



 彼が逡巡した間は一瞬。ミシェルに近付いた彼はぼそぼそと呟く声で言う。



「この七年間、本当はずっと怖かった。あの日ダリア様を見捨てたことも、貴女に剣を教えてしまったことも、いつ責められるだろう、と」


「そんなことしないわ!」


「はい」



 声を荒げたミシェルに彼はあくまで静かな声調をしていた。



「貴女は変わった。強くなったんだ、と、俺は思います」



 その声に滲む感情があたたかくて、ミシェルは泣き出したくなる。その強さは全て貴方のおかげだと言いたいのに、今口を開いたら声が震えてしまいそうで、ミシェルはただ唇を噛み締めていた。そんな彼女から窓へ視線を投げたシリルが呟く。



「……まさか、窓から飛び降りようとするようになっているとは想像もしていませんでしたが」


「そ、それは……!」


「――ミシェル様」



 慌てるミシェルの耳をシリルの声が撫でた。



「一つだけお願いがあります」


「……」


「危ないことはしないでください」



 ミシェルと重ねた彼の目は真剣だった。その瞳から伝わる切実さを知って、けれどミシェルは首を左右に振る。



「その約束はできないわ。……それから、シリル。一つだけ言わせて」



 ミシェルはシリルの両手を包み込むように握り締める。手袋をした彼の手の温度は分からない。けれどその手に少しでも想いが届くようにと強く、握った。


 驚くシリルの呼吸が止まる。その彼の瞳を覗き込んで、ミシェルは微笑んだ。



「貴方はいつだって、私を支えてくれていたのよ」


「……」


「感謝をすることはあっても、貴方を責めることはないわ。これからも、ずっと」



 シリルの唇が戦慄く。その唇の隙間から零れ落ちる吐息の震えが、何の感情を示すのか、ミシェルには分からない。けれど、それが哀しみではないことをミシェルは願う。



「私は行くわ」



 ミシェルは彼の手から、そっと手を離す。自分の剣を腰に差し、手袋を嵌めた。そして大聖堂へ向けて走り出す。



(早く)



 きっと、もう戴冠式は始まっている。


 いつもより早く走っているはずなのに、少しも前に進めていない気がした。そう思えば思うほど、焦る気持ちが増殖していく。



(早く!)



 誰もない廊下を走り続け、階段を下りる。そうして中庭を横切ろうとした時だった。



「ミシェル!?」



 耳を劈くような大声だったというのに、その声はミシェルの胸にあたたかく広がった。


 聞き覚えのある声。同時に胸に滲んだ切なさは懐かしさだと、気付いた。



「どうして貴女が……!」


「レティシアお姉さま……?」



 思わず足を止めたミシェルが目を向けた先にミシェルとよく似たやわらかな髪色に灰色の双眸をした女性が立っていた。豪奢なドレスを身に纏った彼女はミシェルを見詰めて、駆け寄ってくる。そしてミシェルの存在を確かめるように、両手でミシェルの頬を包み込んだ。



「どうしてこんなところに……それにどうしてその恰好をしているの? ずっと探していたのよっ」



 姉の声は悲愴に歪み、ミシェルの胸を締め付ける。涙を溜めた姉の瞳を見詰め、ミシェルの右腕が自然と動いた。頬を包む姉の体温のあたたかさに涙が滲みそうになる。同じように彼女の頬に触れようとして、けれどその感情を抑え込む。



「……ごめんなさい」



 頬を包む姉の手を解き、ミシェルは告げた。



「私、行かなくちゃ」


「行くって……!」



 姉に背を向ける、その手が強い力に捕まれる。



「ずっと探していたのよ! ダリアは死んだと言うけれど、貴女は生きているかもしれないって、ずっと――」


「お姉さま」



 姉の声を遮る、その胸が鋭く痛む。


 だがミシェルは腕を掴む姉の手に自らの手を添えて続けた。



「私、行かないといけないの」


「どこに……」


「アーサーのところへ」



 その名を聞いた途端、レティシアの顔が怒気で歪んだ。



「あの男は――!」


「分かっているわ」



 けれどミシェルはその怒気すら受け止めるように微笑んだ。



「それでも、私は行くって決めたの」



 話したいことはたくさんあった。伝えたいこともあった。本当は抱き締めたかった。だがミシェルはその想いを全て押し殺して姉に背を向ける。



「ごめんなさい」


「ミシェル!」



 引き留める声を背に、ミシェルは駆け出す。


 身を引き裂かれるようだった。けれど彼を失うよりも、ずっと耐えていける。だからミシェルは振り返ることなく走った。


 大聖堂が見えた。その扉の前に倒れた騎士を見て、ミシェルの胸が跳ねる。開きかけた扉から溢れる悲鳴にミシェルは全てを察した。



「レオ!」



 扉の前に倒れた騎士の様子を見ていたルイスがミシェルに気付いて声を上げた。



「アーサーを……!」


「っ……」



 ルイスの声を受けながらミシェルは扉を開け放つ。その視線の先にアーサーと絨毯の上を駆けていくエリオットの後姿を見付けた。



(アーサー!)



 赤い絨毯を蹴る。剣を抜く、その意味を痛みとして受け止めて、けれどミシェルは迷わなかった。


 エリオットが剣を振り上げる。その彼を見上げたアーサーの動きが鈍る。それをミシェルは見過ごさなかった。


 アーサーの手には宝剣がある。二人の間に入れば、彼に斬られるかもしれない。だがその一瞬の逡巡は意味を持たなかった。ミシェルの身体はアーサーの許へと一心に動き、エリオットの剣が振り下ろされるよりも先にアーサーの前に躍り出ていた。


 構えた剣。その刃でミシェルはエリオットの剣を受け止める。その強さと重さに、ミシェルの腕が痺れ、一歩後ずさる。



「……ミシェル?」



 背後から聞こえたアーサーの声にミシェルは軽く彼に振り返る。そのミシェルの目に、戸惑うアーサーの顔が映った。



「どうして君がここにいるの?」



 戸惑う彼の声が、今までに聞いたことがないくらいにか細い。そんな彼にミシェルは力強く笑って見せる。



「言ったでしょう? 私が、貴方を護るって」


「けど――」


「貴方が死んでしまったら、私、生きていけないと思ったの」



 アーサーの声を遮ったミシェルは当然のことのように告げた。その台詞に言葉を詰まらせた彼にミシェルは微笑む。



「だって、今の私がいるのは貴方がいるからでしょう?」



 アーサーは目を見開き、口を閉ざしたままだ。その彼から目を離し、ミシェルは目前で剣を交えるエリオットを見た。


 エリオットは驚きと戸惑いに目を見開いている。その瞳は殺意と悲愴を痛いほどに滲ませ、昏く濁っていた。



(知ってるわ)



 その瞳を、ミシェルは知っている。アーサーに出会うまで生き抜いた七年間、ミシェルが毎日鏡で眺めていた自分は彼と同じ目をしていた。人を恨み、自分を呪い、それだけを糧に生きている者の目だ。



「エリオット」


「レ、オ……」


「私を、赦さなくていいわ」



 告げたミシェルはエリオットの剣を払う。手放しそうになる柄を握り締めて、エリオットはミシェルを睨んだ。



「どうしてっ……お前だって誰かを恨んで生きていたじゃないか!」


「……でも、私はアーサーに救われたわ」



 だがミシェルはきっと彼を救えない。アーサーがしてくれたようには、きっと、彼を救うことはできないだろう。その悔しさにミシェルは唇を噛み締める。



「自分の罪を軽くするために、大切な人の所為にするのは、もう、やめたの」


「っ……俺は――!」


「私が護れなかった人は、」



 エリオットの声に自らの声を被せて、けれどミシェルはそこで口を閉じる。その一瞬に思ったのは、輝いていたコーデリアの日々だった。その日々の中でミシェルの手を取って笑っていた今は亡き姉の姿が眼球の裏に蘇る。



「……恨んで、呪って、人を討って……そんなことをされて喜ぶような人じゃなかったわ」


「俺、は……」



 ミシェルの声を受けたエリオットが躊躇う気配がした。だが彼は直ぐにそれを振り払うとミシェルの瞳を冷徹に見据える。



「退け、レオ」


「エリオット……」


「俺は、お前とは違うんだ」



 それは、諦観に近かった。



「もう、戻れない」



 吐息のように零された言葉にミシェルが目を瞠る。その彼女に振るわれる剣があった。その剣をミシェルは反射的に己の剣で受け止める。想定しなかったほどの痺れが、その剣から伝わった。いつも受けていたエリオットの剣技よりも断然に、強く、重かった。


 掌が擦り剥けるような痛みにミシェルの指先が緩む。その一瞬の隙を、エリオットは見逃さなかった。


 弾かれたミシェルの剣が宙を舞う。軽くなった己の手に目を見開いたミシェルの前でエリオットが剣を構える。その剣がミシェルを狙い放たれる、その直前に、――後ろから腕を引かれた。



「っ……――」



 ミシェルの視界が暗く覆われる。崩れた足元。身体を包んだ、恋しい香り。その場に座り込みながら、ミシェルはアーサーに抱き締められているのだと気付いた。呼吸を止めたミシェルはアーサーの肩越しに、こちらに剣を振り下ろすエリオットを見る。



「だめ――っ」



 腕の中でもがくとさらに彼の腕の力が強くなる。



「大丈夫」



 耳元で囁く彼の声はいつも通りやさしくて、ミシェルは思わず彼の服を握り締めた。


 それでもどうにか逃れようと彼の胸を押し返す。だが少しも彼の腕の力は緩まない。エリオットの切っ先は目前に迫っていた。その刃がアーサーの身体を斬り裂く、その光景を想像してミシェルは目を閉じてしまう。



(誰か――)



 心で強く願った、その時。


 耳を打った金属音。何かが弾かれる、その音は今では随分と耳に馴染んだ剣がぶつかり合う音だ。



「お前ッ」



 エリオットの驚く声にミシェルは瞼を持ち上げる。そしてミシェルはアーサーの肩越しに、見慣れた背中を見付けた。



「シリ、ル……?」


「……ミシェル様」



 振り返ったシリルはいつもの無表情を少しだけ緩める。



「ご無事ですか?」


「え、ええ……」



 シリルはアーサーの背後で、彼を庇うようにして立っていた。その手には抜き身の剣があり、その彼の向かいには対峙するエリオットの姿がある。



「来てくれたの?」


「貴女を護るのが、俺の役目ですから」



 前方に視線を戻したシリルが剣を構え直す。その彼から目を移して、ミシェルは未だ自分を抱き締めたままのアーサーの顔を覗き見ようとする。



「アーサー、怪我は?」


「ないよ。……まったく」



 ミシェルを抱き締める腕を緩めたアーサーは呆れ顔をしていた。深くため息をついて、彼はミシェルの頬に右手で触れた。



「君は無茶ばかりする」


「アーサー……」



 名を唇の隙間から零すミシェルに、アーサーは微笑む。そして彼女の髪を一度だけ撫でると立ち上がった。


 参列者は既に狼狽えることすらない。壁際に逃げながらも、この行方を眺めていた。


 アーサーはシリルの肩に手を当てて、後ろに下がっているように促す。シリルは黙って頷きながらも剣を鞘に仕舞うことはなかった。なぜなら、アーサーの数歩先に立つエリオットの手には今も剣が握られたままだ。



「エリオット」



 静寂の中に、アーサーの静かな呼びかけが浮かぶ。その声を受けたエリオットは剣の柄を握る手にぐっと力を込めた。だがアーサーは動じずに続ける。



「僕はずっと、お前になら殺されても構わない、と思っていたよ」



 それは嘘ではないだろう。彼は自分の命が狙われていることを知っていながら、誰にもその事実を告げなかった。それが彼の罪の意識の深さだったのだろう。



「でも、もう無理だ」



 アーサーは真っ直ぐにエリオットを見ている。そしてエリオットの痛みも苦しみも全てその身に受けながら、彼は告げた。



「僕はお前のために死ねない」



 エリオットの瞳が冷たく揺れた。その正体が殺意であると気付いたシリルが一歩前へ出ようとする。だがそれを右手で制して、アーサーはエリオットに言う。



「彼女が弱っていることに気付かなかったこと。それを僕の責任じゃないとは言わない。だが、――僕が彼女を殺したわけではない」



 最後の声が少し震えていたことにミシェルは気付く。見上げた彼の背中はミシェルの心を狂おしいほどに軋ませる。



「彼女の死を受け入れろとは言わない。ただ、彼女は最期まで君と一緒になる日を心待ちにしていた。それだけは知っていてほしい」



 その一言にエリオットの瞳が揺れる。先程の殺意や憎悪とは違う、哀しみと切なさが滲んでいた。



「すまない、エリオット。僕はきっと、間違っていた」



 そう口にして、アーサーはその場に頽れる。そして項垂れた彼の前でエリオットが歯を食い縛る。



「俺、は」



 歯の隙間から零れ落ちていく声は震え、エリオットは痛むように目を細める。そのまま目を閉じた彼は瞼の裏で、様々な感情と戦っているのだろう。剣を握り締める手は震え、再び開かれた双眸には涙が滲んで見えた。



「俺は――」


「おい」



 掠れたエリオットの声は彼の背後から投げつけられた声に奪われた。大きく息を吸い込んで振り返ったエリオットは、直後、思いっ切り頬を殴られていた。鈍い音が辺りに響き、衝撃に飛ばされた彼の身体が礼拝席に叩き付けられる。



「つー……」


「……馬鹿野郎」



 ルイスだった。彼はエリオットを殴りつけた右手の拳を震わせている。その顔は誰よりも痛みを耐えているようであった。そのルイスの様子にエリオットは殴られたことよりもずっと傷付いた表情をして凍り付く。



「ルイス……」


「お前は本当に、馬鹿だな」



 視線を落としたルイスの目は足元に転がったエリオットの剣を映す。その剣が誰のために振るわれ、誰のために納められることがなかったのかを、ルイスは知っている。鈍く光を反射する刃は涙に濡れたようだった。


 そしてエリオットを見詰めたルイスは噛み締めるように、言った。



「馬鹿だな、お前は……」



 エリオットの顔がくしゃりと歪んだ。その表情を隠すように右腕で目元を覆ったエリオットはその場に倒れ込む。上向きに倒れた彼の目尻から流れていく雫がある。それを見留めたミシェルの耳に、声を殺そうと歯を食いしばるエリオットのすすり泣く声が届いた。

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