(3)
大聖堂まで向かう途中で、アーサーはミシェルの顔を思い出す。耳の奥では思い遣ってくれたミシェルの言葉の数々がやさしく木霊する。その一つ一つが、アーサーの心をあたためてくれた。
アーサーは父にも母にも虐げられ、四面楚歌のような王室で生きることを強いられた自分を惨めだとも可哀想だとも思うことはなかった。それでも人のやさしさに敏感に反応する、自分の心は随分と乾いていたのだと知る。
マイリーは決してやさしいだけの少女ではなかった。アーサーの言葉に惑わされることもなく、彼が間違っていれば相手が王子でも平然と鼻で嘲笑うような少女だった。自分の身体の弱さを誰かの所為にすることもなく、強く笑っていられるような少女だった。その彼女の強さにアーサーは甘えていた。そして強さで覆い隠された彼女の痛みにアーサーは気付いてやることができなかった。耐え続けたマイリーは弱音の一つも吐くことなく、命を落としてしまった。
アーサーは報復を糧に生きていたミシェルを責めることはできない。アーサーだって同じくらい自ら宿した罪悪感を支えにここまで生きてきた。そうする生き方が、失う苦しみよりも罪を背負う方がずっと楽であることを知っていたからだ。
幼い頃から責められることには慣れている。お前の所為ではないのだ、と慰められる方がずっと怖かった。だからアーサーは自ら罪を背負うことで、その恐怖を逸したのだ。
(ミシェル……)
けれど彼女はそんなアーサーを思って泣いていた。自分の痛みを思って涙を流す者がいるなんて、アーサーは思ってもみなかった。
「ルイス?」
大聖堂の前に立つルイスの姿があった。騎士と話していた彼はアーサーに気付くと怪訝そうに眉を顰めた。
「レオはどうした?」
「来ないよ」
「は?」
「僕が閉じ込めたから」
アーサーがそう答えれば、ルイスはさらに険しい顔をする。そんな彼をアーサーは笑顔でかわそうとしたが、それは叶わなかったらしい。さらに扉に近付こうとしたアーサーの耳にルイスのため息が届いた。
「アーサー。お前のそういうところはさすがに良くないと思うぞ」
「ごめんね。でも、これが僕だから」
苦笑して告げたアーサーを見ると、ルイスが騎士たちに少しの間席を外すように命じた。この場所から素早く去った騎士を見届けて、ルイスは言う。
「なあ、アーサー」
「なに?」
「……お前はレオの本名を知っているのか?」
ずっとルイスは気になっていたのだろう。なにせ、アーサーがミシェルの存在に気付くよりも早くから彼は彼女が女性だと勘付いていたのだから。だがアーサーにしてみればルイスがミシェルの本名を知らないこと自体驚きだった。
「訊いてないの?」
「訊けるわけないだろ」
「……そう」
アーサーはルイスの返答にくすり、と笑う。
「知ってるよ」
でも、と続けた顔には悪戯めいた笑顔を浮かべた。
「教えてあげない」
「……お前、今相当悪い顔してるぞ」
「別に良いさ。彼女を独り占めしてるみたいで気分が良いから」
そう口にしながらアーサーはミシェルの姿を思い浮かべる。
きっと彼女は今頃アーサーの部屋で戸惑っていることだろう。鍵はシリルに預けたが、彼が彼女を部屋から出さないと確信しているわけではなかった。アーサーはその判断をシリルに託すと決めていた。
懸命に強くあろうとする一方で、自分の弱さに傷付く彼女を見るたびにアーサーは自らに受ける傷よりも胸を痛めた。他人に関わることを避けて生きていくことが賢明であると、過去の経験から学んだというのに、それでもアーサーはミシェルを見捨てることができなかった。気付けば手を伸ばし、彼女の手を掴んでいた。そうすることを繰り返すうちに、アーサーは思ったのだ。――どうすればミシェルを護れるだろう、と。
護りたいと思うのに、傍に置きたいと願う。甘く胸を軋めるその苦しさが、愛しさ、だとアーサーは気付いている。
「大切で、大切で堪らないんだ」
「……」
「誰にも渡したくない」
呟いた声はアーサーの想像以上に切なく響いた。
本当は箱に入れて大事に仕舞っておきたいけれど、そうすることはできないから。アーサーはせめて今日だけは、と願って彼女をあの部屋に閉じ込めた。
「あいつにはシリルがいるがな」
「シリルは従者だよ。恋人じゃない」
「……そうか」
少し強めに反論すれば、ルイスは呆れた顔をする。そんな彼に微笑みかけて、アーサーは足を踏み出す。
「僕はもう行くよ」
「ああ」
頷くルイスの横を通り過ぎる、その時だった。
「アーサー」
呼びかけられた声に振り向く。数歩後ろに立ったルイスが薄く微笑んでいた。
「誰が何と言おうと、俺はお前が次期国王で良かったと思うよ」
「……ありがとう」
アーサーが睫毛を伏せたのは、一瞬。その瞼の裏に浮かぶ過去がある。罪も罰も、その全てを受け入れて、生きていくと決めた。
「僕はこの国を変えるよ。例え愚王と呼ばれても、僕は戦狂いのヴァルナーを変えてみせる。――もう二度と彼女のような想いをする人が生まれないように」
それは険しい道になるだろう。戦に頼り、それが歴史に深く根付いたこの国を変える、その道は時にアーサー自身に刃を向くこともあるかもしれない。それでも、アーサーは決めたのだ。
「頼りにしているよ、ルイス」
「ああ」
応える声は短い。だがその声の深さからルイスの強い誓いを感じた。
アーサーは彼に背を向けると歩き出す。扉の前で足を止めたその肩には長衣が掛けられる。アーサーは後ろに立つルイスを一瞥すると、その口元に笑みを浮かべた。応えるように、ルイスが一度だけ頷く。それを見届けて、アーサーは押し開けられた扉の中へと足を踏み入れた。
視界に納められないほど広い大聖堂を埋め尽くすような参列者を見回すこともなく、アーサーは歩き出す。祭壇まで真っ直ぐに敷かれた赤い絨毯の上を進む。体中に突き刺さる視線の殆どが敵意であることなど、アーサーは理解している。それほどのことを、前王の代まで行ってきたのだ。
誰もがアーサーの即位を祝福することはないだろう。アーサーを次期国王に、と前王の側近が頭を下げた姿をアーサーは思い出す。この王室で長く虐げられてきた彼はそれを一蹴することもできただろう。だが彼はこの国も民も全てを背負うと決めたのだ。
神官の前に跪いたアーサーは静かにこうべを垂れる。その頭上に降りかかる聖句に耳を澄ませたアーサーの閉じた瞼の裏にこれまでの情景が浮かんだ。自分を虐げた母が自害し、病でマイリーが死に、そしてコーデリアでミシェルに出会った。初めはミシェルを助けたい、その一身で彼女に近付いた。それは贖罪だったのかもしれない。あの日、アーサーをヴァルナーの王子としてではなく一人の人として接し、手を差し伸べてくれた少女に対しての、贖罪だったのかもしれない。けれど、そうだというのに、いつからだろう。自分自身が救われていたのは。
――もう二度と彼女のような想いをする人が生まれないように。
ルイスに告げたその言葉に偽りはない。絶望するだけの日々から抜け出し、自分の手で国を変えるのだと決めた。その決意のために、アーサーはその身を捧げる。
「アーサー・アーリック・ライアンに、新国王の座を命じる」
神官から言葉を受けたアーサーの頭上に王冠が授けられる。その重みに想いを馳せたのは、わずか。目を開いたアーサーは立ち上がると神官に向き合い、差し出された宝剣へ手を伸ばした。その宝剣は長くヴァルナーの王へ受け継がれてきたものだ。それこそがこの国で王冠と並ぶ権威の象徴である。その剣の鞘へと指先が触れた――その時だった。
悲鳴が静寂を裂いた。
流したアーサーの視線の先。大聖堂の重厚な扉があった。開かれていく扉。その隙間から見えた黒い爪先にアーサーは目を細め、王冠を祭壇へと置く。
(来たか)
現れることは予想していた。なにせ、神聖な戴冠式の最中はアーサーの近くに騎士を置くことはできないのだから。
開いた扉。その背後に倒れた騎士を背にして、やはりそこにはエリオットが立っていた。彼の姿に大聖堂内が騒然とする。そして彼の右手に握られた、剥き身の剣がざわめきを悲鳴へと変えた。
四方から上がる悲鳴と逃げまどう人々を落ち着かせようとする騎士団の声が高い天井へと木霊する。その全てを斬り裂くように、エリオットがアーサーに向かって走り出す。
「アーサー!」
剥き出しにした殺意をその身に纏ったエリオットが真っ直ぐにアーサーへ向かう。戸惑う神官を背後に感じながら、アーサーはエリオットを見据えていた。
(――僕は)
いつでも彼に殺されてやる覚悟をしていた。それほどのことをしたのだとマイリーが死んだ日から思い続けて生きてきたのだ。
当然の報いだろう。憎悪を向けられる先が自分であるべきだとすら思っていた。
エリオットの深緑の瞳が、憎しみに歪んでいる。鈍い光を放つ、その右手に握られた剣はアーサーを貫くまで止まることはないだろう。それほどの殺意を身に纏い、エリオットは真紅の絨毯の上を駆けていた。
目前に迫るエリオット。アーサーは神官の手から宝剣を奪い取った。その剣を抜こうとした時だった。
「――……マイリー……」
耳に届いた、かすかな声。それがエリオットのものだと気付くと同時にアーサーの動きが鈍る。その一瞬の躊躇がアーサーよりもエリオットに優位を与えた。
「っ……」
アーサーが剣を抜く。しかしその時には既にエリオットは剣を振り上げていた。アーサーの顔に落ちた剣身の影。命を奪うための刃が振り翳される。
「覚悟――!」
耳を打ったエリオットの声。
「――……」
しかしアーサーへ剣が振り下ろされる直前、彼の前に滑り込んだ影があった。その存在にアーサーが息を止め、目を見開く。目前で揺れた髪。その、二つとして存在しない姿。
金属の鳴る音が響き、目前の影が揺れた。その段に至って、アーサーは気付く。振り下ろされたエリオットの刃を受け止めた、その姿。
「……――ミシェル?」
それは見紛うことない、ここに現れるはずのないミシェルの姿だった。




