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(2)

 戴冠式当日。


 ヴァルナーの宮殿には諸国から王族が訪れていた。招き入れられた彼らは戴冠式が行われる大聖堂へと向かう。煌びやかなドレスや宝石を纏った誰もが誇らしげな表情をしている。その満ちた威厳が何よりも彼らが王族である証のようだった。


 警備の配置を確認し終えたミシェルはルイスに許可を得て、約束通りアーサーの部屋へ向かう。彼の部屋へと向かう廊下は外の騒々しさとは打って変わって、静寂に包まれていた。自分の足音が響くたびにおだやかな空気の流れが大きく揺れるようだった。


 ミシェルはマイリーの墓石の前で別れてからエリオットと顔を合わせていない。宿舎にある彼の部屋を訪れたが、荷物もそのままに宿主が帰った気配はなかった。



「シリル?」



 アーサーの寝室の前に人影を見つけてミシェルは首を傾げる。警備の確認をする最中で彼の姿を見掛けないと思ったらこんなところにいたのか。



「そこで何をしているの?」


「アーサーに呼び出されました」


「アーサーに?」



 シリルは相変わらず淡々とした口調で答える。ミシェルはシリルの前に立つと彼の顔を見上げた。この場所では光が直接彼の瞳に当たっている。いつもは黒色が勝っているが、ここでは彼の瞳は濃紺に見えた。淀んでいるようにも見える彼の瞳は光を浴びると星を映した夜空のように輝く。ミシェルはその彼の瞳が好きだった。



「ミシェル様。俺はあの時国王を殺さなくて良かったと思っています」



 唐突に告げられた台詞にミシェルはただシリルの瞳を見つめ返した。訥々と話す彼はミシェルから目を離さない。その告白が彼にとってどれほど勇気がいるものだったのかをミシェルは知っている。だから黙って、彼の声に耳を傾けていた。



「国王は死にました。貴女が手を下さずとも、充分と苦しんで逝ったのでしょう」


「……そうね」



 頷き、瞼を伏せたミシェルが思うのはあの晩のこと。凶器を携えてヴァルナーの国王の寝室へ向かった晩。罪を背負う直前で自分をこちら側に繋ぎ止めたアーサーの姿を思い浮かべて、ミシェルはふっとかすかな笑いを零した。



「アーサーの言ったことは何も間違っていなかったわ。……ねえ、シリル?」


「何ですか」


「国王が死んだ時、私はね、ざまあみろ、とも思わなかったのよ」



 国王の側近が訓練場に伝えた報せにミシェルはただ驚くばかりで、少しも胸は軽くなどならなかった。死した国王を嘲ることも、その訃報に歓喜することもなかった。



「あれほど殺したかった相手だったのに。こんなものなのね、と思ったくらいだったわ。……結局、罪の意識はあの日お姉さまを見捨てて逃げた私自身に向けられていたのね」



 幼かったミシェルは罪の意識を拭うために、自らに義務を科した。罪の意識に暮れるよりも遥かに、そうして与えられた報復の方が自分の心を殺さずに済むと、きっと無意識のうちに判断したのだろう。



「本当は分かっていたの。戦に負けた仕打ちがどのようなものであるか、幼くても分かっていたし、それが妥当であると思っていたわ。だって、お母さまは私に『生きて』とは言ったけれど『ヴァルナーの国王が悪い』のだとは一度も言わなかったわ」



 だから自分の判断は間違っていたのだろう。誰かを殺して得られる幸福はない、と気付き始めている心を殺して生き延びることにはやがて限界が来るとも知っていたはずなのに。


 けれど、あの日。


 前にも後ろにも行き場のなかったミシェルに手を差し伸べてくれる人がいた。暗闇に引きずり落とすでも、共に堕ちるのでもなく。ずっと恐れていた、明るい未来を手に入れてもいいのだ、と静かに諭してくれた彼がいた。



「全てを受け入れることはできないけれど、赦すことはできないけれど、いつの間にかあの事実を受け入れることはできていたことに、ようやく気付いたわ」


「……アーサーのおかげですか?」



 シリルの表情はいつになく真剣だ。その彼の顔を見上げてミシェルは穏やかな微笑で首を傾げる。



「どうかしら……貴方はどう思う?」


「アーサーのおかげだと思いたいです」



 シリルの回答は早かった。そのことにミシェルが目を瞠る。その彼女に吐息を落とすように、自然とシリルは微笑んでみせた。



「だって、今の貴女は昔と同じように笑えているから」



 その言葉でミシェルの呼吸が止まる。自分の唇が震えたことに気付いた。


 ミシェルの目前にはシリルの心底嬉しそうな笑顔があったのだ。そんな彼の笑顔を見るのはいつぶりだろう。



「俺はずっとその顔が見たかったんです。そのために、ここまで来た」



 ここまで。七年もの時を経て、二人でここまで生きて来た。


 伸ばされたシリルの手が、戸惑うようにミシェルの頬へ近付く。ミシェルはその彼の手に自らの手を重ねた。そうして触れさせた自分の頬からシリルの体温を感じる。


 七年前のあの日、ミシェルはシリルに連れられてコーデリアの王城から逃げ出した。シリルに手を引かれるままに、姉を見殺しにすることを選んだ。そのことでミシェルが彼を責めることはなかった。責めたいと考えたこと自体がなかった。けれどミシェルの手を引いた彼はどうだっただろう。あの日の自らの行動に、罪の意識を抱いてはいなかっただろうか。



「ねえ、シリル?」



 ミシェルは自分の頬に触れるシリルの手に重ねた手にそっと力を込める。


 そして笑う。その笑顔が弱々しいことは知っていたけれど、それでもミシェルは笑いたかった。涙が滲む目を細めて微笑んだミシェルは吐息のように言った。



「私は二人で暮らしたあの七年間が無駄だとは思わないわ。だって、私ね、実は貴方と過ごしたあの日々で楽しいと思えた日もあったのよ」


「ミシェル様……」


「貴方といたから、私は今日まで生きてこられた。……貴方もそうであったら嬉しいわ」



 涙が零れる寸前で、シリルから手を離したミシェルはアーサーの部屋に向かう。扉に手を当てて、ミシェルはシリルを一瞥した。



「また後で」


「はい」



 シリルをその場に残して、ミシェルはアーサーの部屋の扉を軽く叩く。中から聞こえた返答を経て、ミシェルは彼の部屋に足を踏み入れた。


 開け放たれたままの窓から入り込んだ風がレースのカーテンを大きく揺らしている。その傍に置かれた寝台に腰掛けたアーサーの姿があった。いつもと違い礼服を纏った彼は窓の外に視線を投げている。その姿はいつか見た絵本に出てくる王子様にそっくりだった。砂糖菓子のような輝く金色の髪に、水晶に空の澄んだ碧さを詰め込んだような瞳。白い肌も細い顎も形の良い唇も、全てが計算されて創り上げられたかのように美しかった。



(きれい)



 その言葉があまりにもすとんと胸に落ちてくるから、ミシェルは慌てることすらできなかった。ただ彼の姿に見惚れてしまう。そうしてミシェルが扉の傍でぼーっと立ち尽くしていると、振り返ったアーサーがかすかな笑顔を浮かべる。



「遅いから約束を忘れられたのかと思っていたよ」


「……忘れないわ」



 答えながらミシェルは足を踏み出す。



「約束したもの」


「……そうだね」


「どうして、私をここに呼んだの?」



 なぜ戴冠式の直前に彼はここにミシェルを呼んだのだろう。何か話があるのならば昨日会った時でも良かっただろうに。


 アーサーは手を組むと、ミシェルを真っ直ぐに見て唇を開いた。



「僕はね、昔君の国に行ったことがあるんだ」


「え?」


「君の生まれた国。コーデリアを訪れたことがある」



 思わず足を止めたミシェルから目を離し、彼は再び窓から空を見上げる。



「穏やかで美しい国だった。僕は初めて他国を滅ぼすのが嫌だと思ったよ。この場所で、真綿に包まれるようにやさしく育つべきだと思った」



 彼は誰かの話をしている。そうミシェルが気付くのと同時。再びミシェルに目を向けたアーサーが告げた。



「君は僕に言ったね。『絵本に出てきた王子様そっくり』だって」


「え?」


「覚えてない? 君が言ったんだよ。コーデリアで僕に。そしてマイリーが亡くなったばかりだった僕に、笑って、とも言ったんだ。色恋沙汰抜きで他人に気遣われたことなんて殆どなかったから驚いたよ」



 ミシェルはその時のことを覚えていない。だがそんな嘘をアーサーがつくはずがない。だから彼の話していることは事実なのだろう。



「ヴァルナーでの出会いが初めてじゃない。僕たちはずっと昔に一度会っている」


「だから、私が女だと気付いて……」


「ああ。宮殿で君を見た時、夢じゃないかと思った。あの火事で死んだと思っていたから」



 そう口にしたアーサーが痛むように目を細める。彼の金の長い睫毛が震えていた。苦痛に耐えるようなその彼の手を握りたいと思うのに、ミシェルの身体は動かない。


 彼の話に傷付いたわけではない。けれど衝撃に身体が動かなかった。そんな彼女を見詰めて、アーサーはやわらかく笑った。



「今度こそ、僕は君を護ろうと思ったよ。だから君が僕の傍にいるようにと何かとこじつけて君に会いに行った。だから君から護衛役を買って出てくれた時、とても嬉しかったんだ」


「どうして……」



 その、どうして、が何を示すのかミシェル自身には分からなかった。そうだというのにアーサーはその意味を汲んだように、やはり笑って、言うのだ。



「これで君とずっと一緒にいられるって思ったから」



 その言葉でミシェルの胸が弾かれたように熱く痛む。つらい痛みではない。けれど泣き出してしまいそうだった。蟀谷に走る疼痛に視線を足元に落とした。そのミシェルの耳に、アーサーが小さく笑う吐息が聞こえた。



「ミシェル、おいで」



 誘う声があまりにもやさしくて、ミシェルの胸は軋んだ。


 アーサーはミシェルに右手を差し出す。その掌を見て、ミシェルは足を踏み出した。彼の指先に右手を伸ばす。その彼女の手を握るよりも先に、アーサーはミシェルの剣を鞘ごと奪うとその場に放った。そして彼女の手袋を取り、彼女の髪を纏めていた紐を解いた。



「何し――」



 ミシェルの声は、アーサーの手に塞がれた。


 右手にアーサーの手が触れた瞬間、ミシェルは彼に強く腕を引かれた。視界が反転し、気付いた時には背中をやわらかな衝撃が打った。寝台に倒されたのだと気付く。



「ア――」


「静かに」



 名を呼ぶ声をアーサーの手で塞がれる。素肌が晒されたままの右手に彼の左手が絡みついた。



「大声を出すと外にいるシリルに聞こえてしまうよ」



 覆い被さるアーサーを睨み上げて、ミシェルは早まる鼓動を抑えようと努める。口元から彼の手が離れるとミシェルはぼそりと告げた。



「……卑怯者」


「何とでも」



 アーサーはおかしそうにクスクスと笑い声を立てている。



「だって泣きそうな顔をしていたから」


「……してないわ」


「そう?」



 首を傾げた彼の髪がさらりと揺れる。ミシェルが間近にある彼の顔から視線を逸らすと繋がれた二人の手が見えた。どうにか解こうとしてみたが、そうすればするほどアーサーの手の力が強くなる。



「……今日は戴冠式なのよ」


「知っているよ」


「……早く戻らないといけないわ」


「ルイスがいるから大丈夫だよ」


「そういう問題じゃ――」


「ミシェル、黙って」



 低い声で囁かれて、ミシェルはその声の近さに呼吸を忘れる。顔を上げると、目前にアーサーの顔があった。睫毛の一本一本の長さまで分かる距離。鼻先に彼の吐息を感じて、ミシェルは反射的に目を閉じた。直後に、額に感じたぬくもり。


 驚いた目を開くと目前で彼と目が合った。その距離の近さで、額に残る熱で、彼に何をされたのかミシェルは悟る。その途端に頬だけでなく首筋まで熱くなった。そんな彼女にアーサーは優美に微笑んで、甘く告げる。



「今はここまで」


「アーサー……?」


「これ以上すると止まらなくなる」



 続きはまた後で、と笑ってアーサーはミシェルから身体を離す。


 立ち上がったアーサーは崩れた自分の服を整えている。そんな彼から目を逸らしたままでミシェルは半身を起こした。床に落とされた剣を拾うために寝台を降りようとする彼女にアーサーの声が降ってくる。



「そうだ。言い忘れていたけど、今日の戴冠式には君のお姉様が来るよ」


「お姉さま?」


「レティシア様だ。ほら、ナディムの国王に嫁いだ」


「あ……」



 ミシェルはコーデリアの第三王女だ。そしてあの日牢で死んだのは第二王女。第一王女であるレティシアはコーデリアが亡国となる三年前に他国に嫁いでいた。



「彼女はコーデリア崩壊後も離縁されていなかったんだよ。風の噂で知っていたかもしれないけど」


「レティシアお姉さまが、来るの?」


「うん。僕のことなんて殺したいほど憎いだろうけどね。陛下が出席されるのだから王妃が欠席するわけにもいかないんだろう」



 彼女はきっと妹は二人とも死んだものだと思っているだろう。全てを終わらせてから会いに行こうと考えていたため、未だコーデリア崩壊後に彼女と顔を合わせていなかった。きっとすごく心配しているに違いない。



「と、いうことで」



 ミシェルの回想を遮るようにアーサーの声が耳を打つ。顔を上げたミシェルにアーサーは微笑んだ。



「君はここでお留守番だよ」


「え?」


「レティシア様は君に会ったら、死にもの狂いで君を取り戻そうとするだろう。そんなの僕は死んでも嫌だ」



 驚きに硬直するミシェルに背を向けると、彼はそそくさと扉へ向かう。



「だから、君はここでお留守番」


「お留守番って――」


「そのままの意味」


「貴方を護るのが私の役目なのに――」


「――僕は、」



 ミシェルの声を遮ったアーサーはノブを掴んでいる。駆け出そうとしたミシェルの足を止めるには充分すぎるほどの鋭く低い声だった。



「僕は、君に人を傷付けてほしくない」



 その言葉でミシェルは一ヶ月前のことを思い出す。エリオットに襲われたアーサーは彼を仕留めそうになったミシェルを止めた。


 ずっと不思議に思っていたのだ。なぜアーサーに止められたのか。彼を護るのがミシェルの役目のはずなのに、なぜ刺客を討つ直前でそれを遮られたのかが。


 その理由を知り、ミシェルは床に下りようとしていた足を止める。その彼女ににっこりと笑い掛けたアーサーの手に光る銀色の鍵があった。



「良い子でね、ミシェル」



 開いた扉。


 出て行くアーサーの背を見て、ミシェルは床を蹴った。



「あ、待って!」



 しかしミシェルが扉に辿り着くよりもわずかに早く扉は閉じられた。彼女がノブを掴むよりも先に鍵がかけられる金属の音が響く。



「アーサー!」



 ノブを回しても、引いても、扉はびくともしない。



「アーサー、出して! お願い、出して!」



 叫ぶ声は扉の向こう側に聞こえているだろう。扉を叩きながら、ミシェルはふと思い出す。扉の向こう側にはシリルがいたはずだ。



「シリル、ここを開けて! そこにいるんでしょう!?」



 エリオットはアーサーの命を狙うだろう。全ての真実が明かされた今ではきっと戴冠式でも構わないに決まっている。そこまでして報復を遂げたいと思う、彼の気持ちもミシェルには分かってしまうから。



「シリル!」


『……ミシェル様』



 扉越しに聞こえたのは、シリルの声だった。やはり彼はいるのだ。そう知るとミシェルは再び扉を叩いた。



「シリル、開けて!」


『できません』



 シリルはミシェルの声を一蹴して、続けた。



『申し訳ございません。俺は何よりも貴女が傷付く姿は見たくない』



 シリルがミシェルの命に反するのは、これで二度目だった。一度目は七年前、姉を残して牢からミシェルを連れ出した、あの時だ。


 シリルは初めからアーサーにこのために呼ばれたのだろう。そのことに気付き、ミシェルは扉の前で頽れた。



「私は、もう、いやなの」



 扉に額を預け、ミシェルは呟く。



「誰かに護られるだけは、いや。自分の護れる者は、自分で護りたい。――あの時みたいに」



 自分の所為で誰かが犠牲になるのは、懲り懲りだった。



「私だけ助かるのは、もう、いやなの……」



 護ることができると思った。あの時とはもう違うのだ。


 やわらかかった指先は剣を握るために硬くなった。幼く弱かったあの時よりも遥かに、ミシェルは護りたい者を護ることができる。もう、自分の無力さで自らの首を絞めたくはなかった。



「シリル、お願い。開けて……ここから出して」



 シリルは答えない。この扉の向こうで、彼が一体どんな表情をしているのか。考えなくても容易に想像できてしまう。彼の苦悩を思って、けれどミシェルは譲れないと思った。護るための努力を惜しみたくなどない。そう決意した時、ミシェルは頬を撫でる風を感じた。



(か、ぜ……)



 ミシェルは振り向いた。その視線の先には開け放たれたままの窓がある。カーテンは風に揺れ、そこが外界と通じていることを知らせる。



「……――アーサー」



 ミシェルはゆらりと立ち上がる。


 できる、と思った。


 彼を護るために、自分にはまだできることがある。

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