第一章(1)
息を詰めると共に、ミシェルは勢いよく目を開いた。乱れた呼吸。心臓から熱い血液が全身に回っていくのを感じる。耳の奥に打ち付ける強い心音に合わせて視界が揺れていた。
「……」
苦悶に耐えるように、ミシェルは瞼を強く閉じる。
夢の名残が彼女の腹中で熱を持った蛇のように蜷局を巻く。吐き気を覚えたが乾いた吐息が喉の奥から込み上げてくるばかりだった。
じっとりと湿ったシャツ。下着まで汗を吸い込み、身体は倦怠感をたっぷりと背負っている。その彼女の視界を遮るミルクティブラウンの長髪。その陰で灰色の瞳を苦痛に細めたミシェルは深い吐息を落とした。
(厭な、夢を見た)
過去の残像は今でも彼女の脳と心を蝕んでいる。あれから既に七年経ったと言うのに、彼女の胸に巣食う激情は冷めることを知らない。
カーテンから透けた朝日が室内を仄かに照らしている。頬に感じた熱に目を向ければ、カーテンの隙間から白く細い光が差し込んでいた。その眩しさに目を細めて窓の外を眺める。
眼球の奥が痛むほどの晴天を、屍骸を求める鳶が横切っていく。
ヴァルナー王国は、豊かな国だった。花の匂いに溢れ、戦とは無縁のように民は笑顔を零す。資金に余裕があればそれはまた人の心にも余裕を齎すものだとミシェルは知っている。この国では戦がどれほど行われていたとしても、民の生活にとっては無縁に近い話だった。戦が行われれば、国王は国内に攻め込まれる前に敵国へ騎士団を送り込む。精鋭部隊であるヴァルナーの騎士団は恐ろしい速度で敵国を侵略し、属国とすることすらなく征服する。そうして侵略と征服を続けたヴァルナーは、今では世界有数の大国と化していた。
騎士団の制服を身に纏ったミシェルの腰まである長い髪は頭の高い位置で一つに纏めてある。現在の彼女の姿は男に見えるだろう。平たく潰した胸部に、目尻に力を込め鋭く保った双眸。低く声帯を震わす声は男性の中で高い方だと解釈される程度だろう。その彼女の厳しい視線の先には手合せをする二人の騎士の姿がある。その様子を静観していたミシェルは静かに近付くと、片方の騎士の腰に指先で触れた。
「腰を引くな。肩の力は抜いて」
「は、はい!」
ミシェルの低く発した声に騎士が頷く。それを確認し、ミシェルは再び訓練場の隅へと戻った。壁に背を預け、腕を組んだミシェルは訓練場を眺めている。昨日まで彼女もあの集団に交ざっていたが、今日からは立場が違うのだ。
ミシェルが騎士団に入って二年が過ぎていた。
コーデリア王国が亡国と化して、七年が経過した。落城した日、ミシェルはヴァルナーの国王への報復を胸に刻んだ。国王に近付くには、王室直属である騎士団に入る必要があった。だが、騎士団には男しか入ることを許されていない。そのため、ミシェルはまず性別を偽った。性別を偽れば、名前も偽る必要がある。名をレオ・マーヴィンと名乗り、ミシェルは従者であるシリルと共にヴァルナーに潜入したのだった。護られることしか知らなかった身体を鍛え、剣術を覚え、落城から三年後にまずは護衛を求めていた東方の領主の護衛役に納まった。ヴァルナーで由緒正しいとされる騎士団に入るには貴族の出か、貴族や領主の推薦を必要とするからだ。それから二年後、ミシェルはシリルと共に領主の推薦を受け、騎士団に入団した。
ここまで全てが順調に進んでいる。国王の首まで、あと一歩だ。
「レオ」
不意に呼ばれ、ミシェルは声のした方へと顔を向ける。そこには一人の青年の姿がある。
ミシェルに笑顔で話しかけてきたのは、騎士団で副団長を務めているエリオット・ネイサンだった。彼とは七つほど年が離れているが、騎士団の中でも最もミシェルが仲の良い人物かもしれない。人懐こい笑顔をした彼は手袋を外しながら近付いてくる。その彼の顔を見上げ、ミシェルは首を傾げた。
「エリオット。どうした?」
「いや、真面目に指導してると思ってさ。俺とは大違い」
「まあ、エリオットと比べれば」
「お前なぁ……」
ミシェルの一言に苦笑してから、エリオットは続ける。
「今日からだろう?」
「……ああ」
目を細めたミシェルが緊張でもしていると思ったのだろう。エリオットは勢いよく彼女の背中を叩いた。
「痛っ……」
「まさかお前が【円卓の騎士】に選抜されるとはな」
驚くミシェルにエリオットは笑顔でそう告げた。
騎士団の中でも精鋭とされる者が【円卓の騎士】と呼ばれる十二人に選ばれる。円卓の騎士は定期的に国王と会議を行うこととなっている。そこで国内外の情勢を聞き、話し合うのだ。
そう、ミシェルはずっとこの日を待っていた。
円卓の騎士に選ばれれば、国王の首は直ぐ目前。報復を遂げることができる。
そのためにミシェルは騎士団に入ったのだ。そしてこの日、ミシェルが円卓の騎士として会議に参加することとなっていた。
「まあ、喋るのは大体古株や団長のルイスだから心配するなって――」
エリオットがそこまで言った時、彼の頭が弾かれたように前へ折れた。同時に聞こえた小気味の良い音。
「うお!?」
エリオットは殴られたらしい後頭部を右手で抑えると後ろに立っている人物へ振り返る。
「喋ってばかりいないで、お前らもそろそろ訓練しろ」
そう言って呆れたようにため息を落としたのはルイス・ラウィーニアだった。やわらかそうな赤茶色の髪とは反対に髪と同色の瞳は鋭さを極めている。その眼光の鋭さはさすが騎士団を纏める団長を務めるだけあるとミシェルは思う。
憮然とした表情でルイスは頭を押さえているエリオットをあしらっている。二人が同じ年だとはとても思えないな、と考えているミシェルにふとルイスは振り返ると、それまでの表情を緩め、彼はあたたかさえ感じる微笑を浮かべた。
「おめでとう、レオ」
「ありがとう」
「お前には後で第二部隊を任せることになっている。詳しくは後で話すから、とりあえずお前らは大人しく訓練してろよ」
ルイスはそれだけ告げると、訓練場の中央へと移動していく。その途中にも彼は騎士に指導をしていた。
「あいつ、本当にケチだよな」
「……そんなこと言ってるとまた殴られるぞ」
エリオットがルイスに軽口を叩けるのは彼がルイスと幼馴染だからだ。幼い頃から仲の良かった二人は八年前に二人揃って騎士団に入団したのだとミシェルは以前エリオットに聞いた。ミシェルに注意されたエリオットは曖昧に相槌を打つとひらひらと手を振って訓練場の中心へと歩き出す。その背をミシェルが見送っていると静かに彼女の隣に立った人物がいた。
「今日で全てが終わるわ」
「……はい」
ミシェルの小声に仰々しく頷いたのは、黒髪の青年だった。凛々しい面立ちをしている彼はミシェルがコーデリアから連れてきたただ一人の従者だった。
小声で話す二人の声は周りには聞き取れないだろう。それでも近くに人がいないことを確認し、ミシェルは言う。
「逃げても良いのよ」
「いえ、そのようなことは」
「国王の首を奪えば、どうなるのか。貴方にだって分かるでしょう」
「……」
ミシェルは今日の円卓の間で国王の首を奪うつもりだ。たった一つ。その誓いを果たすために、この七年間毎日必死で生きてきたのだ。
コーデリアにいた時からミシェルの従者として付いて来たシリルが自分の決意をどのように思っているのか、ミシェルには分からない。口答えなど一切せず、ミシェルに生きる術を教えてくれたのはシリルだ。彼が望むのならば、彼を逃がしても構わないとさえミシェルは思う。本来ならば亡国のため、命をかけるのは王族であった自分一人の役目だろう。しかし、シリルはミシェルの傍を離れようとしなかった。それにはミシェルが彼を自分の従者にした経緯が絡んでいるのかもしれない。もしそうならば彼女は彼を突き放すことなどできなかった。
ミシェルはそっと彼を見上げる。青を帯びた黒い瞳は真っ直ぐに前方に向けられていた。その瞳でミシェルを捉えた彼は告げる。
「俺はどこまでも貴女について行きます。それが、地獄の果てであろうと」
「……馬鹿ね、貴方は」
ミシェルは眉根を寄せて苦笑するとシリルから離れ、訓練場の騎士たちに交ざっていく。




