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(4)

 迂闊だった。


 そう自分を責めても、何も意味がないことはミシェルにも分かっていた。けれど責めずにはいられない。握り締めた拳。掌に己の爪が重く食い込んでいた。


 シャツに袖を通したミシェルは床に脱ぎ散らかしたドレスを振り返る。ドレスの淡い青の胸元にはアーサーの血が染み込んでいる。その量だけで、彼がどれほど深い傷を負ったのか察しが付く。


 彼はミシェルを庇って、傷を負った。彼の盾となるはずのミシェルを庇った彼は今、自らの寝室で休んでいる。


 ミシェルは部屋を出ると彼の寝室へ向かった。寝室の前にはシリル、そして数人の騎士が立っていた。彼らは見張り役のようだが、なぜ中に入らないのだろう。



「どうして外で見張りを? 中には?」


「いえ。アーサー様が部屋に人がいると休まらないと仰せでしたので」



 それを聞いたミシェルは扉に目を向ける。中にいるだろう彼を思い、目を細めた。彼の痛みを想像して手を握り締める。そうしていると隣に立ったシリルがミシェルに声をかけた。



「貴方は中に」


「え?」


「貴方が来たら中に通すように、とアーサー様に申し付けられました」



 無言のまま立ち尽くしているとシリルに目で促された。ミシェルは戸惑いながら持ち上げた右手で、控えめに扉を叩いた。



『誰だ』



 誰何はかすかな声で、少し掠れていた。ミシェルはその声に痛む胸を抑え込んで、口を開く。



「レオ・マーヴィンです」


『入って』



 やわらいだ声に誘われるままにミシェルはドアノブを掴む。一度だけシリルと視線を合わせると彼がほんの小さく頷いた。ドアノブを捻り、ミシェルは扉を開く。そうして一歩を踏み出しながら、彼の寝室に入るのは初めてだと思った。


 部屋に入ると後ろ手に扉を閉める。カタン、と短い音を鳴らして閉じた扉を背に、ミシェルはアーサーの部屋を見回した。


 家具の殆どない、広い部屋だった。ソファーとテーブル。それからバルコニーへと続く窓の傍に置かれた寝台があった。その上で半身を起こしたアーサーが手元の本からミシェルに視線を移す。



「やっと来た」



 ミシェルに顔を向けたアーサーの表情がおだやかに綻ぶ。その彼があまりにもうれしそうで、ミシェルは戸惑ってしまう。


 ミシェルは思う。彼が傷を負ったのは、自分の所為なのだ。そうだというのに、彼のその表情一つでそれまでの自責の念が薄れそうになる。


 ミシェルは寝台の傍に寄ると、横になろうとしない彼に首を傾げた。



「どうして寝ていないの?」


「傷は背中だからね。眠れないんだ」



 うつ伏せなら眠れるだろう。そう思ったが、ミシェルはあえて口にしなかった。


 彼は痛みを感じている様子など一つもない。だが彼の傷を見たミシェルはそうしていつも通りに話をする彼がどれほどの痛みに襲われているか、知っている。そこまでの傷を負って、どうして彼はミシェルを庇ったのだろう。否、そもそもあの時彼がミシェルを止めさえしなければ、彼は傷を負うことも、刺客を逃がすこともなかったのだ。


 ミシェルはじっとアーサーの顔を見る。その顔には相変わらず完璧なほどの微笑が貼り付けられていて、彼の本心など少しも窺えない。それでもミシェルは問わずにはいられなかった。



「……どうして、私を止めたの?」


「どうしてって?」


「だって、私は貴方の護衛よ。あのまま剣を振り下ろせば、刺客を刺せたわ」


「まあ、……そうだね」


「どうして? そのために私は貴方の傍にいるのに……」


「……」



 アーサーは視線を手許に落とす。広げたままだった本をぱたりと閉じると、彼はふっと吐息のような笑みを零した。



「今日の君は『どうして』が多いね」


「それは……」



 このままではまた話をはぐらかされてしまう。そう気付いたミシェルが口を開く、その前にアーサーの声が滑り込んだ。



「おいで」



 アーサーは本を寝台の隣に設置されたナイトテーブルに置く。そうしながらちらりとミシェルを見て告げた。



「君が添い寝をしてくれなきゃ眠れないよ」


「何言って――」


「あー、傷が痛むなあ」


「……」



 わざとらしく顔を歪めたアーサーにミシェルは目を細める。



「……卑怯者」


「卑怯でも構わない」



 ほら、と差し出された彼の手。ミシェルは戸惑いながら彼の手に触れる。するとやさしい力で彼の傍に引き寄せられた。彼に促されるままに寝台に腰掛け、間近にある彼の顔を見上げる。満足そうなその顔が憎めない、と思って、ミシェルは彼と繋いだ手に力を込めた。



「……私、貴方のこと嫌いだわ」


「うん」


「嫌いなのよ……」


「うん。知っているよ」



 きっと彼にはミシェルの嘘なんて見透かされている。それでも気付かないふりをする、それが彼のやさしさだと気付いてしまった今では、もう、元には戻れないのだとミシェルは思った。


 彼のやさしさの、どこからどこまでが本心なのか、ミシェルには分からない。ミシェルを気遣ってくれる、その言動の理由も分からない。それでも、全てが嘘だと思いたくはなかった。


 ミシェルは繋がれた手に視線を落とす。絡められた指の間から伝わる彼の体温に目を細めた彼女の耳にアーサーのかすかな笑い声が届いた。顔を上げれば困ったように笑った彼と目が合う。


 アーサーは繋いだ指先に少し力を込めて言った。



「君は何かに耐える時、よく下を向くよね」


「え……?」



 そうだっただろうか、と考えるミシェルにアーサーはそっと声をかける。



「つらい時、苦しい時、そうして君は耐えてきたんだね」


「そんなこと……」



 ないわ、と続けようとした声は喉の奥に留まってしまう。


 確かに下を向き、顔を隠すことで耐えた日々はあった。そうして強くなろうと努めるうちに身に付いた癖は無意識のうちに現れるようになったのだろう。


 けれど、とミシェルは思う。


 城下で聞いた噂を思い出し、自分よりも彼がつらい日々を生きてきたことをミシェルは知っている。だから彼女は言った。



「……城下で、貴方の噂を聞いたわ」


「そう」


「アラナ様のことと……それから九年前のこと」


「……」


「ルイスの妹……マイリーは九年前に亡くなったって」



 アーサーと視線が重なる。碧い瞳が、揺れた。それは哀しみと切なさで混沌としていて、そうだというのにやはり彼の瞳の奥深くにある強さは鈍らない。


 ミシェルの瞳を見たアーサーは深く嘆息した。どれほど上手くかわしてもミシェルが引かないことが分かったのだろう。



「あれは、僕の所為だ」



 彼はミシェルから目を離すと、ぽつりと零す。



「母の死を自分の所為にしようとは思わない……思えないほど随分と酷いことをされたからね。――でも、マイリーは、違う」



 金色の睫毛を伏せた、彼を包む儚さが増す。



「彼女が死んだのは、僕の所為だ」


「どういう――」


「僕が、気付けなかった」



 アーサーの瞳が再びミシェルに向く。その瞳にどきりとミシェルの胸が軋んだ。目に見えるものではなかったが、ミシェルには彼の瞳が涙を流しているように見えたのだ。それは慟哭するよりも遥かに傷ましい哀しみだった。



「前に言っただろう? 僕は人殺しだと」



 彼が殺した人物というのは、マイリーのことなのだろう。その所為で彼は傷付いているのだ。その痛みを分かち合うことは、もしかしたらミシェルにはできないかもしれない。そう願うことすら傲慢で、許されないのかもしれない、けれど。



「……でも、」



 ミシェルの手を掴む、彼の力が緩んでいる。その彼の手を、今度はミシェルが握り締めた。彼は驚いたように目を瞠った。彼の瞳を真っ直ぐに見上げて、ミシェルは口を開く。



「ルイスは、貴方のことを友だと言っていたわ」



 あの時のルイスの声も表情も、きっと嘘ではなかった。



「本当に自分の妹を殺した人を、彼が友と言うとは思えない」



 だからきっとアーサーはマイリーを殺してはいないだろう。殺した、と言うその言葉は罪悪感からだ。それほどの哀しみを背負って微笑む彼の痛みを思って、ミシェルは泣き出したくなる。涙を流せない彼の代わりに声を上げて泣いたら、彼の苦痛は少しでも軽くなるだろうか。


 俯いたミシェルの頬にかかる髪を、アーサーはそっと彼女の耳にかける。



「君の勘の鋭さは、時々嫌になるね」


「……」


「確かに、僕は彼女を直接殺したわけじゃない……でも僕が殺した。それは変わらない」



 きっと彼女の死によって齎された痛みは、そう簡単に拭い去れるものではないのだ。ミシェルが、そうであったように。


 顔をあげたミシェルはアーサーの瞳を真っ直ぐに見詰める。



「マイリーの死と、貴方が命を狙われていることに関わりはあるの?」


「……分からない」



 けど、と彼は苦く笑った。



「もし僕が殺される理由がそれなら、僕は抵抗できないな」



 彼と絡めた指がくいっと軽く引かれた。ミシェルは胸に詰まる痛みに睫毛を震わす。その彼女を困ったように笑って、彼は諦めたような声で告げた。



「僕は母に憎まれて育った。父からもそうだ。この宮殿の中で僕の味方はそう多くはなかった。その少ない味方の一人が、マイリーだった。……けれど彼女はもういない」


「だから、すべて、仕方ないの?」


「ああ。でも今は君が傍にいてくれる。それだけで、僕は充分だよ」


「……貴方は、冗談ばかりね」



 自分の震えた声に気付いて唇を閉じる。呼吸を止めて飲み込もうとした。だが遅かった。


 ミシェルの瞳の端から、滑り落ちるものがあった。ゆっくりと頬の輪郭を辿っていく、その冷たさにミシェルは瞼を閉じた。



「ごめん。泣かせちゃったね」



 首を左右に振ってミシェルは目を開ける。滲んだ視界の中ではアーサーの表情が霞んでしまう。涙を止めようと奥歯を噛み締めるミシェルの涙を彼の指先が拭った。



「君は、何も分かっていないね」


「なに、が……」


「僕が、悪いんだよ」



 そう言って視線を落とした彼がなぜかひどく小さく見えて、ミシェルの心が擦り切れるような痛みを放つ。彼をぎゅっと抱き締めてしまいたい衝動を覚え、だがミシェルは彼を抱き締めることができなかった。



「……こんなこと、言うつもりなんてなかったんだけどな」



 自嘲のような乾いた笑い声を漏らし、彼が再び微笑む。それがさらにミシェルの胸を痛めた。


 ミシェルは彼を抱き締められない。それはきっと禁忌だ。いつかは終わりが来る関係だと分かっているなら、なおさら。――けれど。



「どうすればいいの……」


「え?」


「……どうすれば、貴方の心は軽くなるの……」



 ミシェルの中の絶望は彼のおかげで軽くなった。蜘蛛の巣のように張り巡らされていた絶望は彼女の四肢に纏わりつき、呼吸すら奪おうとしていた。だがそれを寸前で救ってくれたのはアーサーだ。


 今でも、胸は痛む。過去はミシェルを縛り付け、生涯解放することはないだろう。それと同じように、それ以上に、彼が苦しんでいるのならば、自分も彼の力になりたいとミシェルは願ってしまう。



「ミシェル」



 名を呼んで、アーサーは微笑む。



「僕は大丈夫だ」



 そう口にした瞳は、強い。けれどその強さが今は弱さにも見えるのは、なぜだろう。涙は止まったが、まだ胸は痛む。その彼女の目前でアーサーは茶化すように小さく笑って、彼女の顔を覗き込んだ。



「だって君が僕を護ってくれるんだろう?」


「……ええ」



 頷いて、ミシェルは彼の手を両手で包み込む。



「傍にいるわ、ずっと」


「うん」



 心強いね、と笑った彼はミシェルの手を握り返した。 

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