(3)
城下に下りたミシェルはアーサーと市場を歩いていた。ヴァルナーは城下にも裕福な層が多いらしく、ミシェルとアーサーが身に付けている服に負けないほど高価な服を纏っている者が幾人もいる。あまり城下を訪れたことのなかったミシェルは擦れ違う煌びやかなドレスに何度も目が奪われる。
「ミシェルはドレスが好き?」
「私?」
「そうだよ」
アーサーの問い掛けに戸惑いながらも、ミシェルは頷く。
「好きよ。小さい頃はいろんな色のドレスを着たもの」
「そう」
相槌を打つアーサーの顔には穏やかな微笑がある。その表情を崩さず、彼は傍らに見付けた店に目を向けた。
「砂糖菓子を買おうか。ミシェルは甘い物は好きかな?」
「……ええ」
「うん。それじゃあお茶をする時のために買っておこう」
「……」
彼は先ほどから、ミシェルの好きな物ばかりを尋ねてくる。彼のために宮殿を出たはずなのに、これでは全く逆だ。ミシェルは、いつも自分ばかりが優先されているような気がしてしまう。
(このドレスだって)
きっと自ら女性であることを捨てたミシェルの気持ちを慮ってしてくれたことだろう。シリルがミシェルの部屋に現れたことだって、彼の配慮だったに違いない。ミシェルは先ほど部屋で見たシリルの笑顔を思い出して、胸に押し寄せる苦しさを思う。けれどこの苦しさは幸せに似ていた。
ずっとミシェルはシリルと二人で生きてきた。長く彼以外の誰かに気遣われることに慣れていない所為だろうか。アーサーのやさしさはミシェルの心の隙間を痛いほどにあたたかく埋めていくようだった。
宮殿にいた時から変わらず、ずっとミシェルの右手はアーサーの左手の中にある。その手から彼の顔に視線を上げて、ミシェルは迷いながら口を開いた。
「アーサーは……、」
「なに?」
「……アーサーは甘い物は好き?」
問いかけたミシェルの手が、アーサーに少し強く握られる。
「好きだよ」
彼の手の熱に驚いている間にミシェルの耳にアーサーの声が流れ込んだ。その拍子に甘く締め付けられた胸が早鐘を打つ。
彼の言葉に何一つ深い意味などないと知っているのに。彼の一言で、跳ねあがった体温と心音にミシェルは俯く。唇を噛む、その痛みで全て消し去ろうと努める。けれどその痛みよりも遥かに、右手から流れ込む彼の熱が、その全てを赦してはくれなかった。
(私、)
左手を握り締めて、思う。
(変だわ)
いつから、彼の言葉や仕草の一つ一つに戸惑うようになったのだろう。彼が息をするように囁く甘い台詞に翻弄されるようになったのは、いつからだろう。その理由も、意味も、全て知らないふりができるように、と願ってしまう。気付いたら、きっと、戻れない。
アーサーは店に入ると、砂糖菓子を幾つか買ってくれた。砂糖菓子は固めた果実のピューレに砂糖をまぶした物だった。一つ袋から取り出したアーサーに勧められるままにそれを頬張って、その甘さにミシェルの頬が綻んだ。そんな彼女をアーサーは微笑んで眺めていた。
「そういえば、マルヴィナに土産を頼まれていたんだった」
城下を歩いている途中で、アーサーがぽつりと呟いた。その声でミシェルはマルヴィナがアーサーに土産を頼むと話していたのを思い出す。王女様も城下の物に興味があるのね、なんて思っているミシェルの隣でアーサーは眉間を絞っている。
「お洒落な帽子、なんて言っていたけど……帽子屋はどこにあるのだろう」
「一緒に探すわ」
「いや、大丈夫だよ」
「でも……」
渋るミシェルの足元に視線を向けて、アーサーはやさしく表情を緩めた。
「慣れない靴で歩くのは大変だろう? 直ぐに戻るから、しばらくここで待っていてくれる?」
確かにミシェルが今履いている靴は普段履き慣れない高いヒールのあるものだ。
けれどその台詞にミシェルは不安を思った。
彼は命を狙われている。それは宮殿も城下も関係ないはずだ。彼の傍を離れることで、彼が危険な目に遭ったらどうすれば良いのだろう。そんな不安は表情に出ていたらしい。微笑んだ彼はミシェルの顔を覗き込んで言った。
「大丈夫。君が呼んでくれれば、どれほど離れていても僕はすぐに君の許に駆けつけるから」
「……そんなに耳がよかったかしら?」
「知らないの? 僕はね、君の声ならどこにいても聞こえるんだよ」
彼の言葉の、どこまでが冗談でどこまでが真実なのか、ミシェルには分からない。呆れた表情で吐息を落とすミシェルを小さく笑って、アーサーは彼女から身体を離す。
「すぐに戻るよ」
「……本当にすぐ戻ってくる?」
「うん。待っていて」
アーサーはミシェルから手を離す。ひらひらと軽く手を振った彼が人混みの中に消えていく。その後ろ姿を眺めてから、ミシェルはふと自らの右側へと目を向けた。そこには椅子に座った年老いた絵描きの姿があった。彼の周りを囲うようにして小さく露店が広げられている。その店に飾られた絵画の淡い彩に誘われるように、ミシェルはその店へ近付いた。
誰もいない店先で足を止めたミシェルは絵画を覗き込む。どれも水彩画だった。城下の風景や人々が描かれた幾つもの絵画の中を眺め、やがてミシェルの目は一つの絵画で止まった。
「綺麗なひと……」
赤味のないやわらかな茶髪をした女性の絵だった。切なく細められた双眸は濃紺。背景のないそのキャンパスの中心で、白い花嫁衣装に身を包んだ若い女性の絵だった。
その絵にミシェルがじっと見入っていると絵描きはふっと笑みを零した。
「それはアラナ様の輿入れの時の絵だよ」
「アラナ様?」
「何だい、お嬢ちゃん知らないのか。アラナ様は前王妃様だぞ。もしかして他国のお嬢さんかい?」
「ええ、まあ」
名前くらいは聞いたことがあるが、こうして目にするのは初めてだ。驚く絵描きに曖昧に答えて、ミシェルは首を傾げる。
「アラナ様って……アーサー王子のお母さま?」
「ああ、そうだよ。……難儀な人生を送った、可哀そうな人だよ」
絵画から伝わる透き通る肌の白さは、アーサーと似ている。背負う儚さも重なった。けれど何かが違う、と思う。それに首を傾げているミシェルに絵描きは言葉を繋いだ。
「アラナ様は、心を病んでいたと言うからね」
「心を?」
「ああ。その所為でアーサー様は随分と酷い仕打ちを受けたと聞いている」
以前にマルヴィナもそのようなことを話していた。アーサーは母とも父とも違う容姿をしている、と。確かにアラナもそうであったように、国王も茶髪であったはずだ。だがアーサーの髪色は、違う。
「けどジゼル様はアーサー様を自分の実の子のように可愛がったと聞いているよ」
「ジゼル様……」
「マルヴィナ様の母上。三年前に病死してしまったけれどね」
おやさしい方だったのに、と残念がりながら絵描きは一つため息をついた。
「国王陛下は病で臥せっていると聞く。次期国王陛下はアーサー様だろうか」
「……そうだと思います」
あの宮殿内で王子はアーサー一人だ。必然的に彼が王位を継ぐことになるのだろう。
頷いたミシェルは絵描きの顔が少し曇っていることに気付いた。その表情が気になって、ミシェルは躊躇いながらも尋ねる。
「何か不安なんですか?」
「不安と言うよりも……アーサー様はこの国が嫌いだろうからな」
「どうして……」
「嫡子にも関わらず、宮殿内では虐げられてきたからな」
「……」
確かにアーサーは国王を嫌っているようであった。だがそれが国を嫌うことと同等であるとは、ミシェルには到底思えない。何を考えているのか読み取れない人物ではあるが、国を見捨てるようなことをする人ではないだろう。
それに、と絵描きは膝で頬杖を突いて言った。
「アーサー様は女嫌いなんだとさ。だから万が一アーサー様が即位したとしても跡取りのことがどうしても気にかかっちまう。まあ、俺たちが気にすることじゃないのかもしれないが」
「女嫌い?」
「……アラナ様の所為だと聞いたことがある」
その噂にミシェルは耳を疑う。
「私は全く違う噂を聞きましたけど……」
「それは仮の姿だって聞いたよ」
仮の姿、とミシェルは口の中で繰り返す。けれど彼の姿から、あれがとても仮の姿だとは思えない。それほど優美で、自然と台詞や行動に移せているように見えたのに。
そう思う彼女に声を潜めた絵描きがそっと耳打ちした。
「何せアーサー様は九年前に公爵令嬢を殺しちまったって噂がある。まあその噂も真意のほどは如何なものかねえ」
その台詞で、ミシェルの呼吸が、止まってしまう。
(九年前の公爵令嬢って……)
その公爵令嬢が誰であるか、きっとミシェルは知っている。自らの妹が亡くなったと話すルイスの顔を思い出して、同時に耳の奥で響く声があった。
――僕もあの国王と同じ……――人殺しだからだよ。
かつてそう告げたアーサーの瞳をミシェルは思い返す。いつもは強さを宿す、その彼の瞳が切なく揺れていた。
(……まさか)
アーサーが命を狙われる理由。それはマイリーの死に関わっているのかもしれない。けれど、それなら誰がアーサーを殺そうとしていると言うのだろうか。
「やっと見付けた」
その時、突然背後から掛けられた声にミシェルの肩が震えた。振り返ると、そこには笑顔のアーサーの姿がある。
「どうかした?」
「……何でもないわ」
「そう? お化けでも見たような顔をしているよ」
彼はくすり、と楽しそうに笑ってミシェルの目前にある絵画に視線を落とした。その途端に彼の表情が固まる。その視線の先を追うと、そこにはアラナの絵画がある。それを見たミシェルは無意識のうちにアーサーの腕を掴んでいた。
「そ、そういえば私、行きたいところがあるの!」
「ミシェル?」
「ほら、はやく!」
目を見開くアーサーに構わず、ミシェルは彼の服を引っ張る。そうして歩き出しながらミシェルは絵描きに一度だけ視線を投げた。
「ありがとうございました。また来ますね」
「あ、ああ」
おずおずと頷く絵描きに軽く頭を下げて、ミシェルはアーサーを引っ張って歩き出す。その彼女に大人しく腕を引かれながら、アーサーは小さく笑い声を零した。その声に気付いたミシェルが振り返った先で、アーサーはどこか困ったように、笑っていた。たまらない、とでも言いたげなその表情にミシェルの呼吸がまた止まる。先ほどとは違う、甘い痛みに呼吸が遮られてしまう。
そんな彼女にアーサーは微笑みかけながら、裾を掴まれた手を離させる。だが離れたのは一瞬。直ぐにミシェルの手は彼の長い指に絡み取られた。
「君はやさしいね」
「……何のことか分からないわ」
知らん顔をする、その頬が熱を持つのがミシェルにも分かった。それすら気付かないふりをするミシェルの隣で吐息が落とされる。呆れではない、困ったふうでもない、けれどどちらにも近くてやさしさを帯びたその吐息の意味をミシェルは知らない。
アーサーは零れた苦笑と共に言葉を落とす。
「君といると、調子が狂うな」
「何言ってるの。……狂わされてるのは、私の方だわ」
最後の方は、人々の雑踏で消えてくれることを願った。その願いが叶ったのかは分からないが、アーサーは彼女の台詞を追及するようなことはしなかった。それは、もしかしたら彼のやさしさかもしれないけれど。
アーサーはふっと息をつくように笑うと言った。
「ミシェル、帰ろう」
「え、でも……」
「本当は行きたいところなんてないんだろう?」
「……」
全て彼にはお見通しだったようだ。むくれて黙り込んでしまうミシェルの髪にアーサーの指がそっと触れた。驚いて顔を上げた、その視界に飛び込んだのは彼のやさしい微笑。
「ありがとう」
その声が囁くようにやさしかったから、ミシェルは否定しようとした声を飲み込んだ。その彼女の反応に満足したように笑みを零したアーサーが彼女の手を引く。そうして辿り着いた宮殿で、ミシェルはベールで顔を隠した。
「楽しかったな。また行きたい」
「……私は護衛だって分かってる?」
「もちろん」
首を縦に振ったアーサーの様子から、きっと少しも分かっていないことは明らかだった。だがそれも今さらであることを思って、ミシェルは言い返す気も起らなかった。
ミシェルはそっと彼の横顔を盗み見る。アラナと似ている儚さを持っているというのに、その瞳は彼女と比べ物にならないほどに強い。
(きれい)
ふと、自然にそう思っていた。彼の造形だけではない、きっと、もっと違うところを含めて。ミシェルは彼を美しいと思う。綺麗過ぎて、手を伸ばすことも、憚れてしまうほどに。
この人を護りたい、とミシェルは思うのだ。それは、失いたくない、と同意語かもしれない。彼がミシェルに向ける気持ちは同情かもしれない。それでも彼がくれたものにミシェルはやはり救われたから。
ミシェルは目を伏せる。――その一瞬だった。
「――ミシェル、」
呼ばれると同時に、アーサーに腕を強く引かれた。
「邪魔だよ。下がって」
彼の背後に倒される最中で、ミシェルの背後で剣が重なり合う。その情景はミシェルの目前に広がる影と伝わる音で気付いた。細い影と影が重なり合う、それを見ながらミシェルはその場に膝をつく。
ベールの取れた視界。困惑する思考でミシェルは状況を理解するよりも先に振り返った。そこで剣を振るうアーサーと、もう一人の人物を見た。相手は黒い服に頭の天辺からつま先まで全て隠してしまっていて、顔が分からない。太陽の許で見る刺客の姿にミシェルは目を剥いた。
(っ)
鞄から短剣を取り出す。途端にドレスの重さは忘れた。踏ん張り、立ち上がったミシェルが短剣を振り上げる。あと一歩で、相手の身体を貫く、――その寸前で。
アーサーに腕を引かれた。
(え)
声を上げる暇すらなかった。
再び地面へ戻される、その視界が空を捉えたのは一瞬。次の瞬間には黒い影に、視界が遮られた。同時に感じたのは、相手の香り、と、体温。
抱き締められたのだと悟るよりも早く、耳を掠めたかすかな彼の唸り声。
「アーサー!?」
打ち付けた背中の痛みを味わうより先に、ミシェルは自らの上で伏せているアーサーを揺さ振った。ミシェルが起き上がりながら触れたアーサーの背。その違和感に顔を顰める。
(これ……)
掌の色を見るより先に、鼻を刺す臭いで気付く。ミシェルは未だ目前に立つ刺客に目を向けた。陽を背後に立つ、相手の瞳の色が分からない。
ミシェルがアーサーの剣に手を伸ばす。それを見た刺客がミシェルに背を向けた。
「待て!」
地面を這ったミシェルの指先が硬質な物に触れる。先ほど掌から零れた自分の短剣だった。それを素早く手に取ったミシェルは相手に向かって力の限り放る。だがアーサーを抱えた身体では相手の急所を貫くことはできなかった。軌道を外れた短剣の刃は相手の右手の甲を掠めただけだった。
刺客を追おうか悩んだミシェルの耳を再びアーサーの呻く声が打った。身体を起こしたミシェルは彼の背を見て、眉間を絞る。そこには斜めに入れられた傷があった。彼の服が赤く黒く染められていく。
「アーサー、どうしてっ……」
あの時、ミシェルは少しも危険ではなかった。剣を振らせる間も与えず、刺客の急所を刺せる場所にいた。それなのに、どうして彼がそれを拒んだのだろう。
「しっかりして!」
「……ミシェル、」
ぽつり、と彼は苦しそうに、けれど少し笑って呟いた。
「泣きそうな顔を、してる」
「当たり前でしょう!」
「ミシェル様?」
悲鳴のような声をあげたミシェルの耳に聞き慣れた声が聞こえた。この宮殿内でミシェルをそんなふうに呼ぶ人物など一人しかいない。
顔をあげたミシェルの視線の先、そこにはやはりシリルの姿があった。ミシェルはアーサーを抱くとシリルに向かって叫んだ。
「シリル! お願い! アーサーが……っ」
「……俺が運びます」
シリルはアーサーの怪我の理由を訊かなかった。近付いてきた彼はミシェルの腕の中から軽々とアーサーを肩に担ぎあげる。
「ミシェル様は着替えて来てください」
「でも――」
「もう時期に騒ぎを聞きつけて人が集まります。その恰好を団員に見せるわけにはいきません」
けれど今のアーサーの傍から離れたくなどなかった。そんなミシェルの不安を見抜いたのだろう。アーサーはつらそうに瞼を開いて微笑んだ。
「僕は大丈夫だ……行っておいで、ミシェル……」
その微笑は頼りなげで、ミシェルの不安を掻きたてる。けれどシリルはそんなミシェルを置いて歩き出してしまう。
ミシェルは彼のあとを追うこともできずに、しばらくその場から動くことができなかった。




