第三章(1)
首筋に残る傷跡はまだ赤味を帯びていた。だが包帯を巻いて訓練場に行くのは不恰好だと考え、ミシェルは包帯を解いた。タイをきつめに締めれば、少しばかり傷は隠れた。そのことを確認して、ミシェルは訓練場に向かう。
ミシェルがアーサーを護ると告げたのは、一週間前だ。その間、アーサーはどれほどミシェルが問い質しても、犯人はわからない、と答えていた。実際あのアーサーの様子では相手の特徴を掴んでいても教えてはくれないだろう。彼が犯人を庇う理由などミシェルは想像もできなかったが、それ以上彼に詰問することが憚れた。
ミシェルが訓練場の壁にもたれて立っているとエリオットが傍にやって来た。額から零れる汗をタオルで拭いながら彼は口を開いた。
「お前、アーサー様の護衛になったって聞いたけど本当か?」
「本当だよ」
答えながら、ミシェルは壁から背中を離す。そろそろ訓練に戻らなければまたルイスにどやされる。そう考えるミシェルの隣で壁に寄りかかったエリオットが言った。
「お前も色々災難だな」
「何のこと?」
「傷、大丈夫なのかよ?」
そう言ってエリオットがミシェルの首を指差す。ミシェルは傷口の辺りを右手で抑えた。まだ傷は痛むが、激しく動かなければ出血することはない。
「大丈夫だよ」
「俺は何があったのか、詳しいことは知らねぇけど……大変だったな」
「……知らない?」
ミシェルは眉を顰めるとエリオットを見上げる。
「騎士団が動いたって聞いたけど……」
アーサーの話ではミシェルが気を失ってから騎士団が到着したらしい。それならば、副団長のエリオットがその場にいないのはおかしいのではないか。
「実際に現場に向かったのは、シリルとルイスだけだ。ルイスが他の奴は来なくて良いって命じてさ」
「ルイスが……?」
彼がなぜそのようなことをしたのだろう。
ミシェルが疑問に眉を顰めていると背後に人の気配を感じた。殺気にも似たその空気に全身の皮膚が粟立つ。
「お前ら、いい加減にしろ……」
地響きすらしそうな低い声は怒りを抑えているものだと瞬時に判断できた。いつもとは比べものにならないその声にミシェルが身体を硬直させていると彼女の背後から現れたルイスがエリオットの頭を叩く。
「ってー! だから何で俺だけ――」
「良いからお前は訓練に戻ってろ」
文句を零すエリオットをあしらって、ルイスがミシェルに向き直る。その彼の後ろで舌打ちしながらエリオットは遠ざかっていく。
自分も殴られるのだろうか。ミシェルは思わず首を窄めてみたが、ルイスの平手が飛んでくることはなかった。
「レオ」
代わりにいつもの静かな声調で名前を呼ばれた。きょとんとしたミシェルにルイスは大げさなまでの深いため息をついた。
「あとで話がある。訓練後もここに残っていろ」
「……分かった」
なぜ叩かれなかったのか、分からずミシェルは頭を傾げる。思い返せば、いつも怒られた時にルイスに殴られるのはエリオットばかりだ。自分は彼に殴られたことが、一度でもあっただろうか。
(もしかしたら……)
彼は、気付いているのだろうか。
ミシェルが性別を偽っているということに。
訓練が終わると散り散りに騎士たちが訓練場を出て行く中、ミシェルはその場に残っていた。シリルが心配そうな視線を向けたが、彼女はそれに苦笑で答えて彼に外に出るように促した。一人残された訓練場でミシェルは、少し出てくる、と言ったルイスの帰りを待っていた。彼が何のためにミシェルに残るように告げたのか、彼女には未だに分からなかった。だが全く予想できないわけでもない。
ミシェルが賊に攫われた時、騎士団の出動を命じられたルイスはシリルだけを連れてアーサーの後を追った。だが、もしミシェルがルイスだったならば、シリルではなく副団長のエリオットを連れて行くだろう。しかしルイスはシリルを選んだ。その理由を勘ぐれば勘ぐるほど、息が詰まりそうになる。
(気付いていたら、……どうする)
ルイスは騎士団の団長だ。この国の秩序を司る騎士団。その団長である彼の一存で、ミシェルは投獄される可能性だってあるのだ。そうなった時、シリルはどうなるだろう。ミシェルと共に騎士団へやってきたシリルも、同じように捕まってしまうだろうか。
「待たせたな」
ミシェルの思考を遮るようにルイスの声がかけられ、彼女は細めていた目を元に戻す。
ミシェルの目前で足を止めるルイスの顔はどこか険しく、ミシェルの考えを悪い方へと加速させる。
彼はミシェルの声を待たず、言葉を続けた。
「アーサーから聞いた。お前、あいつの護衛をやるそうだな」
「……ああ」
単刀直入な質問にミシェルは詰まりそうになる声で答える。次の彼の言葉は何か、探るような視線を向けるミシェルに気付いているのか、いないのか、彼は深い吐息を一つ落とした。それと同時に崩された表情はどこか呆れを滲ませている。彼は腰に右手を当て、言い難そうに口を開いた。
「他人のことに首を突っ込むのは俺の主義じゃないが、……あまり無理はするなよ」
「……え?」
「女だろう、お前」
彼の気遣わしげな言葉と、続けて告げられた真実にミシェルの脳は困惑する。何から問いかけるべきか、悩む数秒の間に彼女の唇が空気を求めるように開閉を繰り返した。その彼女に苦笑を零したルイスの顔を見て、ミシェルはようやく声を発する。
「いつから知って……」
「出会った頃からだな」
なぜ、と問い掛ける声は咽喉で止まる。そんなミシェルの目を真っ直ぐに見て、ルイスは言った。
「誰にも言っちゃいない。アーサーも自分で気付いたんだろう」
「……どうして黙っていたの?」
「それぞれ事情がある奴ばかりだからな、ここにいるのは」
――事情。
その言葉でミシェルはエリオットに入団した理由を尋ねた時のことを思い出す。
「……ルイスは大切なひとを護るためにここに入ったって、エリオットが言っていた」
思わず呟けば、ルイスが短く息をつく。その吐息はどこか哀しそうで、ミシェルの胸が痛んだ。それはどこか、貴方を護る、とミシェルが告げた朝に見せたアーサーの纏っていた空気に似ていた。
「大切な人、か」
ルイスは何かを吹っ切るように大きな呼吸を一度して、口の端を持ち上げた。それは笑顔というには苦く、どこか慈悲に近い表情だった。
「護りたかった奴は、もう九年も前に死んだよ」
それにミシェルは眉根を寄せる。彼の大切な者が亡くなっている事実と、それから彼が入団した日を逆算して、ミシェルは小首を傾いだ。
彼が騎士団に入団したのは十六歳の時だと聞いている。それは今から八年前のはずだ。その時には既に彼の護りたかった者は亡くなっていることになってしまう。
「でも……」
「俺は護れなかった」
ミシェルの考えを読んだらしいルイスが言う。
「だが、もう護りたい者を護れないのは懲り懲りだ。せめて他の誰かが大切に思っている者くらいは護れるようになりたかった」
それは贖罪に似ている。大切な者を護れず、代わりの何かを成し遂げたい。そう願う気持ちをミシェルも知っている。全てを捧げて悔いた過去のために生きる。そのつらさや痛みの強さも知っているから、ミシェルは何も言葉をかけることができなかった。
そんな彼女にルイスは短く笑った。
「別に恋人じゃないぞ」
「え?」
「妹だ」
「妹……」
「マイリーって言ってな。双子の。よく笑う奴だった」
俯いた視界で、ミシェルは瞼を伏せる。
彼がなぜそこまで話してくれるのか。考えて、もしかしたら彼は自分の事情を全て知っているのかもしれない、とミシェルは思う。同時に今まで遠く感じていた彼が意外と近い場所にいるような気がした。
「なあ、一つだけ訊いていいか」
「……なに?」
「お前はなぜ騎士団に入った?」
彼の瞳を見返す。そこにあった真剣な表情で、ミシェルは彼の問い掛けがどれほど重い意味を持つのかを知る。きっとこの回答で、ミシェルは彼の信用を得ることも失うこともできるのだ。
シリルの顔が頭を過る。彼を危険な目に遭わせたくなかった。今まで散々振り回しておいて、これ以上彼に迷惑など掛けられないのだ。
けれど、とも思う。
ルイスはきっと全てを知りながらミシェルが騎士団にいることを赦してくれていた。その彼の信用をこれ以上裏切ることなどできない。
ミシェルは深い呼吸をすると、静かに唇を開いた。
「家族を、失ったの」
「……」
「私のために死んだ彼女たちのために騎士団に入った。……けど、もう、終ったから」
「……終わった?」
「だから、次は恩を返したい」
ミシェルはアーサーのことを考える。
「私はアーサーに助けてもらった。彼は私を突き落すでも放っておくでもなかった……一緒にいる方がつらいはずなのに。傍にいてくれた彼のために、今度は私が彼に何かしたい」
彼は、自分の生には報復しかないのだと凍り付いていたミシェルの心を溶かしてくれた。他の生き方もあるのだ、と。それも許されるのだと、彼はミシェルを諭してくれた。突き落とす方が、放っておく方が楽だっただろう。そうだというのに彼は手を繋いで引き上げることを選んでくれた。そうして助けてくれた彼を今度は自分が助けたいと思う。それはミシェルの願いでもあり、彼のために彼女ができる唯一のことだった。
「お前はアーサーに助けられたのか。おかしな話だな」
ルイスが笑いを孕む声で告げる。その声がどこか嬉しそうでミシェルは首を傾げた。
「どうして?」
「もうあいつは、女に関わらないものだとばかり思っていた」
それは、どういうことだろう。
だって彼は女好きで有名だと聞いている。その彼が女性と関わらずにいたというのだろうか。
(そういえば)
マルヴィナがそのようなことを話していた。そう、確か。
(――九年)
その間、彼は誰とも噂になっていない、と言っていた。その年数はルイスの妹が死んだ頃と重なっている。
「レオ?」
呼ばれてミシェルは顔を上げる。ルイスはいつもの険しい表情で、続けた。
「なぜ護衛が必要なのか、俺はあいつが話さない限り訊くつもりはない。だから、お前に頼んだ」
「頼んだって?」
なぜ彼にそんなことを言われるのだろう。怪訝に思うミシェルにルイスは言う。
「あいつは、俺の友だ」
「友?」
「ああ」
知らなかったのか、と彼は短く笑う。
「俺の名はルイス・ラウィーニアだろ? 俺の親父はロレンス・ラウィーニア公爵なんだ。だから幼い頃から俺はあいつを知っているんだよ」
ヴァルナーにはコーデリアと同じように爵位がある。騎士団に入っている者の大半は貴族の家系の者が多い。だが王の首ばかりを狙っていたミシェルは彼の家系など気にしたこともなかった。
(公爵)
彼の父が公爵だとすれば、九年前に亡くなったマイリーは公爵家令嬢だ。
(九年前)
公爵家は王家との繋がりも強い。
それならば、アーサーがルイスと知り合いだったようにマイリーもまた、そうであったはずだ。
九年前に亡くなった令嬢。
女と噂の絶えなかった王子の周りから途絶えた噂。
(――私、)
何かに、今、気付いてしまった。
その確信を恐れるように、ミシェルは目を伏せる。




