(6)
シリルだって、そんなこと分かっている。
アーサーが立ち去ってもなお、シリルはミシェルの眠る部屋の前から動けずに立ち尽くしていた。じっと閉じられたままの扉を見詰め、その向こう側で眠っているだろう彼女のことを考える。
――報復を糧に生き延びた者にやがて与えられるのは、もっと深く暗い絶望だけだ。
アーサーの声が、言葉が、鼓膜に張り付いて剥がれない。嫌なほど耳の奥深くで繰り返されるそれに、組んだ腕へ爪を立てた。
ミシェルが攫われたと聞かされた時、ルイスに報せた後に馬を走らせたシリルはやがて森の中でアーサーに抱きかかえられた彼女を見付けた。硬く瞼を閉ざした彼女の頬からは血の気が引いていて、その上首から溢れた血液が純白のドレスを汚していた。その彼女を見た途端、シリルの視界には闇が落ち、体内の血液が冷え切り、全身の感覚が遠ざかるのを感じた。
結局、自分は彼女を護ることなどできはしない。彼女に護られてばかりだ。心も、身体も。そうやって、この十年間生きてきた。その彼女自身がどれほど心を殺し生きてきたのか。どうしようもない闇を糧にすることで、その華奢な身体を保ってきたのか。それを知っていたはずだ。それでも止められなかったのは、その闇を振り払った時の彼女を想像することが恐ろしかったからに違いないのだ。――けれど、もし、その考えが、間違いならば。
(……ミシェル様)
扉に触れた指は、かすかに震えていた。その怯えが、どこから訪れるのか考えるまでもない。
九つの時に彼女に拾われてから今までシリルは彼女の生にしがみ付いて生きてきた。一度捨てようとした命は彼女に捧げるのだと口上では誓いながらも、心は彼女に執着することで生き長らえたのだ。あの日失った家族の代わりを求めていたシリルを救ったのは、ミシェルだ。生きる理由さえも用意してくれた。彼女のためなら何だってできると思っていた。だが、救われたのはいつだって自分ばかりだ。それならば、自分を生かしてくれた彼女を救いたいとシリルは思う。そしてその彼女を救うために自分ができることなど、きっと一つしかない。
この七年間、全てを偽って生きてきた。彼女には苦痛ばかりの日々だったろうか。けれど、シリルにとっては時折楽しいと感じることがあった。彼女と、二人で生きている、それだけで本当は充分だったのに。
そっと扉を開ける。部屋の中のシャンデリアは既に灯りを失い、カーテンの隙間から入り込むわずかな月光が室内を照らしていた。静かに、ゆっくりと空気が動いている。それに重なって聞こえる、穏やかな息遣いにシリルは強張っていた肩の力を抜いた。足音を立てぬように寝台の傍に寄ると、そっとミシェルの顔を覗き込む。森の中でアーサーの腕に抱かれていた彼女とは違い、安らかな寝顔がそこにはあった。それに安堵の息をつきながら、寝台の傍らに置かれていた椅子へと腰かける。と、椅子がかすかな音を立てた。はっとシリルが息を飲むが既に遅かった。
長い睫毛を震わせたかと思うと、ミシェルがゆっくりと目を開けた。天蓋をしばらく彷徨っていた彼女の瞳はやがて、椅子から腰を浮かせた中途半端な体制をしたシリルで止まる。
「……シリル」
「……」
声には出されずとも、何をしているの、と不思議がられていることは彼女の目から伝わってくる。シリルは大人しく立ち上がると声をかけようとして、だが何も言うことができずに口を閉じてしまう。
訊きたいことは、たくさんあるのだ。
気分は、悪くないか。喉は渇いていないか。傷は痛むのか。――自分に愛想を尽くしてしまったのではないか、ということを。
ミシェルはただ何の感情も読み取れない瞳でシリルを見上げていた。灰色の瞳は、暗闇の中ではその色さえ曖昧だ。その所為なのか、彼女が何を考えているのか、シリルには分からなかった。
七年前、落ちた城から逃げた夜に森の中で見たミシェルの瞳に浮かぶ感情が何だったのか、今でもシリルは知らない。涙もなければ怒りもなかった。ただどこまでも静かな色を湛えた目をした彼女は決意を口にして生きることを諦めなかった。あの時、もし彼女が泣きじゃくったのなら今とは違う未来があったのだろうか。そんな取り留めもないことを考えるたびに、シリルは自分の存在が嫌になる。
「……シリル?」
ミシェルの呼びかけに、シリルは俯いていた顔を上げた。布団の下に隠されていた手を持ち上げた彼女は、そっとシリルの手に触れた。いつの間にか強く握り締めていた拳を彼女の温もりが解いていく。それに目を細めたシリルの顔を真っ直ぐに見上げて、ミシェルは言う。
「こんなことを言ったら、貴方をまた怒らしてしまうかもしれない……それでも、寝言だとでも思って聞いて」
「……はい」
彼女は昼間のことを言っているのだろう。
あの時、シリルは怒ってなどいなかった。憤りを感じていたとするならばそれは彼女ではなく、自分自身に対してだった。いつだって苛立つのは、ふがいない自分にばかり。想いだけが先走り、いつも大切なものは彼の手から滑り落ちていく。――どうすれば良いのだろう。そう迷うばかりで、結局は護れないものばかりだ。
あたたかさに包まれた手に、ぎゅっと力を込められる。ミシェルは繋いだシリルの手に視線を落としていた。
「……――報復に、意味はあるのかしら」
闇に溶けるような低さで、けれど明瞭に響いた彼女の声に、シリルの呼吸が止まる。暗闇の中に、彼女の声だけが静かに浮かび、消えていく。
彼女の声は独白に近かった。きっと昼間の喧騒の中では聞き取れないほどに、小さい。そんな頼りないか細さで、彼女は言葉を紡いだ。
「この七年間、本当はずっと思っていた……死した人のためにできることは、報復しかないのだと。けれど、そう思えば思うほど、不思議にも思った」
だって、と続ける彼女の声は掠れていた。
「もしあの時死んだのは私で、生き残ったのがお姉さまだとしたら……私は、彼女に人なんて殺してほしくはない」
「……」
「もう、どうしていいか分からなくなってしまった……」
薄い月明かりの下では彼女の表情も曖昧だ。だが、それでも彼女の頬を伝うものがあることを、空気を通してシリルは感じ取る。
七年前のあの日、シリルはミシェルの姉から彼女を託された。ミシェルを護ってほしい、と頼む彼女の手から託された、唯一の逃げ道へ続く鍵。その鍵とミシェルの手を握り締めたシリルは、自らのプライドも命も捨てた彼女の姉を見捨てて牢から逃げた。シリルは彼女の姉を見捨てたのだ。そうだというのに、ミシェルはシリルを罵ることも恨むこともなかった。
そしてこの七年間、シリルはずっとミシェルと二人きりで生きてきた。その間一度も彼女の涙を見たことはなかったが、それを寸前で堪えて生きていることを知っていた。その涙を受け止める決意など、疾うにできていたはずなのに、実際目の前で泣かれてしまうとそれを拭うための指先一つ動かすことなど出来なかった。
彼女がどれほど懊悩し、もがき、自分の決意を実行するために努めてきたか知っている。それを支えることこそ、彼女の心を護る術になるのだとずっと信じていた。だが、その結果が生んだものが今、目前でこうして脆く崩れそうになっている彼女だとすれば、シリルが自分にできることなど限られているのだ。
「……俺は、」
目を細め、彼女の顔を見詰める。暗闇の中では、涙の存在など見えない。だが、薄明かりで彼女の瞳が真っ直ぐに自分を映していることは分かった。
「俺は、貴方の意志を尊重することが全てだと思っています。――ですが、一つだけ、言いたいことがあります」
「……なに?」
言葉を選ぶための、空白が落ちる。
声が震えぬように、と願った。
「人の死によって幸福が与えられることはありません。それが、どのような目的のためでも……」
ミシェルは何も言わなかった。その沈黙が責め立てられているわけではないことを分かっているから。
「……ミシェル様、」
ずっと、考えていた。
一人で考えても答えなど出ないことは分かっていた。
それなのに、それを口にしては彼女の全てを否定するようで、ずっと言えずにいた。一番問い掛けたかった言葉を、いつも喉の奥に押し込んできた。
唇が戦慄く。自分たちのしてきたこと全てを、無にするようだ。だが、それでも彼は震えを押し殺し、ただ彼女のことだけを想って、口を開いた。
「国王を殺したら、貴方は幸せになれますか?」
そのためなら何でもしよう。何だってできる。だが、もし、そうではないとしたら。
小さな、吐息が聞こえた。
ふっと笑うような、その声はどこか穏やかで。だからこそ、シリルの心に不安を煽る。
「……そうね」
全てを諦観するような吐息を零したミシェルは、ただそう呟く。否定とも肯定とも取れない彼女の声音にシリルがきゅっと眉間を絞った。その彼の手を掴む手に、ぐっと、痛いほどの力が加えられた。
「そうね。私、本当にどうしようもないわ……」
それはどういう意味だろう。
尋ねようと口を開いた、だが。
声を発する前に耳に流れ込んできたのは、彼女の嗚咽だった。
「ごめんなさい……――私、きっと……っ」
その続きはもう、聞こえなかった。嗚咽で押し潰された声は、音などないのに悲鳴のようで。シリルは息もできないほどの苦しさを覚えた。かける言葉が見つからず、シリルはただ繋いだ彼女の手にそっと力を込める。
彼女はきっと、ずっと悩んで生きてきたのだ。報復が間違っていると知りながらも、そうすることで生き残った罪悪感から逃れようとしていた。だが、それも報復を目前にして揺らいだのだろう。その揺らぎを見過ごさなかったあの王子によって報復を止められた瞬間、きっと彼女の心は限界まで達していた。
嗚咽し涙する彼女の傍に黙っていることしか、シリルには出来ない。だが、ミシェルはそれを非難することなどなかった。その彼女のやさしさに、きっと甘えている。けれど今これほど弱っている彼女から離れることなどシリルにはできなかった。
一頻り泣くとミシェルは大きな深呼吸を一つした。ゆっくりと体を起こしたミシェルはそれまで握り続けていたシリルの手からそっと手を離し、言う。
「もうここにはいられないわ。どこか、遠くへ行った方が良いでしょう……」
ミシェルの提案は尤もだった。性別だけではない、ミシェルもシリルも身分を偽ってこの国へやって来た。報復を諦めた今、少しでも早くここを離れた方が良い。だが、真っ直ぐにシリルを見上げたミシェルは言った。
「でも、ここを離れる前にやりたいことがあるの」
シリルに向けられたミシェルの瞳がこの時は月明かりの中でもはっきりと見えた。彼女は先程まで泣いていた弱さなど感じさせないほどの、強い決意を宿した双眸にシリルを映していた。
「もう少しだけ、時間を頂戴?」
「……はい」
貴方の仰せのままに、と流れるように続ければ空気が動いた。言葉と共に頭を下げたシリルの頭上で、かすかに笑った声があったのだ。何がおかしかったのか、ちっとも分らなかったのに。――ミシェルが笑っている。それだけの事実に、それまで強張っていたシリルの表情もほんの少し和らいだ。




