(5)
小さな寝息が聞こえ、アーサーはそっとミシェルの目元に当てていた手を離した。髪と同色のミルクティブラウンの長い睫毛が伏せられている。目を閉じていれば、いつもは大人びしているが年相応に見える顔立ちをしていた。その彼女のやわらかそうな頬に触れようと指先を伸ばしたが、ここで起こしてしまったら寝かしつけた意味がないと思い、アーサーは手を引っ込めた。
寝返りを打った彼女は、アーサーとは反対側を向く。背を向けられたアーサーの視界には、やわらかな彼女の髪が広がっている。波打つ髪は美しい。一方で視界の隅に映った彼女の腕には小さな傷痕が幾つも見えた。
コーデリアは七年も前に滅びた王国だ。性別を偽り、名を偽り、身分を偽り、かつての敵国に潜入した彼女がどのような生活をしてきたのか、想像に難くない。それ以前の、幸福な日々を知っていればなお、その七年は地獄のようだったに違いないのだ。
――報復は君にとって生きる支えだったのかもしれない。でも、それ以外の生き方を、君がしてくれたら良いと思ってしまうんだ。
何と身勝手なことを言ったものだろう、とアーサーは自嘲する。かすかな笑いは空気を揺らすばかりで、殆ど声にはならなかった。自分自身に呆れ果てて、笑い声すら音にならない。自分の想いばかりをぶつけて、彼女が救われるはずもないのに。
アーサーの脳裏には過去の様子が流れ過ぎていく。陽だまりの中で無邪気に笑っていた少女は、もうどこにもいないのだろうか。
(生きていてよかった)
眠るミシェルの毛先に、そっと起こさないように触れる。彼女の髪は掬い上げても、さらさらと指の隙間から滑り抜けてしまう。
「ミシェル」
響くことすらない小さな声で呼びかけると、彼女はかすかに睫毛を震わせる。
「……良い夢を」
アーサーは振動を与えないようにそっと寝台から降りると音を立てないように扉を開け、部屋を後にした。
その部屋を出たところで、アーサーは壁に寄りかかるようにして立っている人物を見付けた。確か、彼は部屋に入る前にもそこに立っていたとアーサーは記憶している。半日近くもずっとそこに立っていたのかと思うと呆れて、ため息が零れた。
「まだいたのか」
「……」
シリルはアーサーを一瞥しただけで、直ぐに視線を外してしまう。そんなところに突っ立っているくらいならば中に入ればいいのに、とアーサーは思うのだが従順な従者であればあるほど、きっと今の状況ではそれが憚れるのだろう。
「ミシェルは君のことを心配していたよ」
「……ミシェル様が?」
「ああ」
アーサーの一言で生気を失ったかのようだったシリルの瞳が少しばかり輝いた。全く単純な男だ、とアーサーは思う。だからこそ、彼女が傍にいることを許すのかもしれないけれど。
「……シリル、と言ったね」
呼びかければ、シリルの目がアーサーに向いた。窓から入る月光だけが唯一の明かりであるこの場所では、彼の瞳は闇よりも深い色をしているように見えた。その彼の瞳を真っ直ぐに眺め、アーサーは問い掛ける。
「君は、ミシェルが報復を諦めると言ったらどうする?」
「…………俺は、」
シリルは返答に迷うように少しばかりの沈黙を挟み、言った。
「ミシェル様が思うように動けば良い。……彼女の意志が俺の意志だ」
「……そうか」
「……貴方は、なぜミシェル様を助けた?」
「……」
唐突な質問にアーサーは口を噤んだ。その彼の頭の中で、蘇る光景がある。もう、随分も前の話だ。けれど、確かにアーサーは覚えている。覚えているからこそ、ミシェルを一目見て気付いてしまった。幻覚を見ているのではないかと、錯覚してしまうほどに。
アーサーは扉に軽く背を預けて立った。腕を組み、視線は己の爪先に落とす。
「僕は昔、一度だけヴァルナーを出たことがある」
「……は?」
「後に国王になるお前はこれから滅びる国を見ておくべきだと言われた……八年も前の話だ」
質問とは関係ないような話を語り出したアーサーをシリルは訝しげに見詰めている。その目を見返して、アーサーは続ける。
「僕が十七の時だった。対談という形で国王は相手の国を訪れた。それに僕も同行していた。その国はとても穏やかでね、やさしさとあたたかさに包まれている国だった。……とても、一年後に滅びる姿など想像できないほどに」
あの父はその当時気落ちしていたアーサーを励まそうとしたわけではないだろう。もしかしたら自分の死期を悟っていたのか。暗い気持ちを抱えたままのアーサーは父に連れられてその国を訪れていた。
「国王同士が対談している最中その王城の庭に出た僕は、そこで小さな女の子を見た。少年とにこにこと笑い合って、とても幸せそうだった」
「それは……」
「きっと彼女は覚えていない。ただ、当時暗闇の中にいた僕に笑い掛けてくれた。庭に咲いていた花で作ったという冠をくれた」
目を閉じれば、克明に思い出すことができる。
太陽の光を浴びて、彼女の髪はきらきらと輝いていた。ベージュでも茶色でもでもない、その珍しい髪をした少女は澄んだ灰色の瞳でアーサーを見上げていた。真綿に包まれて育てられた、人を疑うことを知らない瞳をしていた。アーサーの腰と同じほどの身長の彼女はこれから自分を襲う未来など微塵も想像など出来なかっただろう。目前に立っている男が、後に己の国を殺す男の息子であることも知らなかったに違いない。だが、暗い表情をしたアーサーに彼女は笑って、花で作った冠をくれた。絵本に出てきた王子様にそっくりだと、笑って。
――どうして、そんな顔をしているの?
彼女は首を傾げ、やはり無邪気に笑ったのだ。
――笑って? 笑えば自然と良いことがあるってお姉さまが言っていたの!
彼女は自分よりも十近くも年上の青年を励ました。その言葉はどれほどアーサーの心に響いたことだろう。自分の存在を忌むばかりだった彼の心に彼女の笑顔と言葉はやさしくあたたかく溶けて染み渡った。
「……それから一年後にその国は滅びた。殺したのは僕の父親だ。……口には出せなかったが、僕は彼女に生きていてほしいと祈っていた」
願う資格すら、きっとなかったけれど。
アーサーが誰かの生を願ったのは、それで三度目だった。二度も願いは届かなかったのだから、きっと叶わないだろう、と。半ば諦めていた。――だが。
「どういうわけか、王女の処刑の前日に王城は火事になった。原因は不明だが……彼女が生き逃れているところを見ると、第三王女と共に嫁に出されていなかったという第二王女が火を放ったのだろう。当時の見張り番もその火事に巻き込まれて死んでいる。見張り番はマッチの一つくらい持っていただろうし、牢の外には燭台もあっただろう。死ぬ気になれば、女性でも男に勝つ可能性はある」
「なぜ火なんて放って……」
「見張り番を殺しても直ぐに逃走に気付かれる。それを避けるには全て消すことが必要だったんだろう」
「……」
「……燃やせば、身体は消える。大人の骨が二人分残る。幼い子供の骨ならなくとも、火力の強さで炭と化したと考えてくれるかもしれない。……そんなところだろう」
それはあくまでアーサーの想像だ。ただ、燃え上がった王城の跡からは二人分の骨しか出ては来なかった。女性と男性の骨がそれぞれ重なり合うようにして見付かった。男性の頭蓋骨には皹が入っていたと言うが、それがどういった経緯でつけられたものか、未だに不明のままだ。
アーサーが口を閉じれば、辺りには沈黙が落ちた。重さの伴うその静寂に、アーサーは窓の外へと視線を投げた。
丸い月が空には浮かんでいる。金色の光を帯びたその月の美しさが残酷に思えたのはなぜだろう。
「……君は、記憶を失いたいと思うほどの絶望を味わったことがあるか?」
口から零れたその言葉は、無意識だった。独白に近いその声は夜の闇にそのまま呑まれて朽ちるものだと思っていた。しかし。
「……――ああ」
拾い上げるようにして、シリルが答える。空から彼に視線を流せば、足元に視線を落とした彼が続けた。
「そんな俺が死のうとしているところを救ってくださったのが、ミシェル様だ」
「……そうか」
「……礼を言う」
「……」
「……俺は、何もできなかった」
シリルは思いつめた様子で、わずかだがアーサーに向かって頭を下げた。その彼の姿からふっと視線を外し、アーサーは吐息を零し、言う。
「別に一度できないくらいでそれほど落ち込む必要はないだろう。……君は、この七年間、彼女を支えてきたのだから」
七年間、とは何と長いのだろう、とアーサーは思う。彼女はそれだけの日々を報復のためにと捧げ、全てを偽り生きてきたのだろう。それほどまでに彼女の絶望は深かったからに違いない。――けれど。
「……君には悪いけど、」
扉から背を離し、アーサーは告げた。
「僕は彼女に報復なんてさせたくない。無邪気に笑っていた彼女に戻れば良い、とは言わない。だが……報復を糧に生き延びた者にやがて与えられるのは、もっと深く暗い絶望だけだ」
それは、本当に彼女のことだけを考えて口にした言葉だろうか。
心の中で己を嘲笑う声が聞こえる。それに重なるようにして、腰に差した剣が硬い音を立てた。
(僕は……――)
彼女は絶望の中で、それでも生きようともがいている。それならば。
自分は、この暗闇の中で一体何をしていると言うのだろう。




