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(4)

 それはきっと夢の中ではなかった。夢と現の間で彷徨う意識の中でミシェルは自分に触れるあたたかな体温を感じていた。それは懐かしさに似ていて、どこまでも心地好い。


 ミシェルが幼い頃、具合の悪い時にはいつも姉が面倒を診てくれた。公務に忙しい母や父、兄に代わり、いつもミシェルの傍に寄り添っていてくれたのは姉だった。けれど、この世にはもう姉はいない。ミシェルのためにその命を失ってしまった。それを思い出すと同時に、朦朧としていた意識が一気に浮上した。その勢いに任せて瞼を持ち上げると同時に、それまで呼吸を止めていたようにミシェルは強く深く息を吸い込んだ。



「起きた?」



 そう言って顔を覗き込んできたのはアーサーだった。ミシェルが横たわる寝台の右隣に置かれた椅子に腰かけた彼は首を傾げている。既に辺りは暗く、シャンデリアに灯された明かりが室内を照らしていた。


 汗を掻いた身体はじっとりと湿っており、不快だった。服だけではなくシーツまで身体に張り付いているようだ。それにわずかに顔を顰めたミシェルは自分の右手が動かないことに気付いた。否、正確には動きを制されている。


 視線を向ければ、右手はアーサーの両手に包まれるようにして握られた。咄嗟に引こうとしたが、それは彼の手によって遮られてしまう。決して乱暴な力ではないのに、ミシェルは彼から逃れることができなかった。


 アーサーはミシェルの灰色の瞳をその碧眼で真っ直ぐに見詰めて、告げた。



「君が眠っていたのは、半日。ここは、宮殿内にある貴賓室だ。あの賊はあの後直ぐにかけつけた騎士団によって捕えられた。……他に質問はある?」


「ぁ……っ」



 捲し立てるようにミシェルの頭に渦巻いていた疑問への返答を口にしたアーサーに声をかけようとして、ミシェルは顔を歪めた。


 痛い、と思った。


 いつも身体の内から責め立てるように訪れる痛みばかりに慣れていた所為か、皮膚から与えられる痛覚はやけに鮮明で、不快だった。内から込み上げる痛みは心を殺せば身体を動かすことができるのに、なぜ肉体に叩きこまれた傷はこれほどまでに四肢の自由を奪うのだろう。


 声を発しようとして痛んだ喉へ、ミシェルは自由な左手で触れる。すると、より鮮明で強烈な痛みが走った。



(そうだ……)



 意識を失う直前の状況を思い出したミシェルは目を瞠り、アーサーを見上げた。彼はそんな彼女の様子にただ首を傾げている。その彼から視線を逸らすとミシェルは上体を起こした。それを手伝うように差し出されたアーサーの手によって、寝台の背に背中を預けて座る。感じた痛みを飲み込み、ミシェルは静かに口を開いた。



「なん、で……」


「……なに?」



 ミシェルの声は掠れてしまっていた。まるで喉の奥には硬い塊が詰まっているようだ。その彼女の小さな声を聞き逃さないようにするかのように、アーサーは彼女の唇に耳を寄せる。ミシェルはそんな彼から視線を逸らし、寝台の上に置いた自分の左手を見下ろす。その手が、胸の内の感情をできるだけ押し殺すように、とシーツを強く握り締めた。唇をきゅっと噛み締め、それからミシェルは掠れ、震えた声で言った。



「何で、貴方があの場に来たの?」



 それを聞いたアーサーは首を傾げ、目を細めている。その彼を視界の隅に捉えながら、ミシェルはシーツを握り締める手に力を込める。



「自分の立場を分かっているの? 貴方は、あんな場所に来ていい立場でないでしょう……っ」



 アーサーは、この国の王子だ。国王が亡くなれば、次にこの国を護ることができるのは彼だろう。その彼が、自らの命を危険に晒していいはずがない。それはかつて王室で過ごしていたミシェルには分かる。



「……そうだね」



 アーサーは静かな、どこかやさしい穏やかな声音でそう言って、シーツの上で丸められたままのミシェルの手に触れた。そのあたたかな体温にミシェルが顔を上げる。


 視線が合うと、彼は困ったように苦笑した。


 それはすっかり見慣れた微笑のどれとも違う、初めて見た彼の表情だった。誰も触れることが許されなかった彼の本心を暴き出してしまったようで、ミシェルの胸が痛む。


 彼は自嘲するように口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと瞬きを一つ。それから吐息のような声を落とした。



「君の言う通りだ。僕は王子だからあの場所に行くべきではなかった」



 でも、と言葉を紡いだ彼はミシェルの目を見て。



「気付いたら行ってしまっていたのだから仕様がないだろう?」



 そう言った彼の声も表情も、全てがやさしくてミシェルは反射のように目頭が熱くなった。その熱が何の所為で膨れるのか、ミシェルには分からない。ただ、悔しさとも憎さとも違った。胸に広がるのは、長年住み続けてきた激情が浄化されていくような、安堵で。そんな自分の心が信じられずに、ミシェルは俯き、唇を噛む。



「そんなことよりも、」



 アーサーは再び口を開くと、長い指先をミシェルの頬に添えた。驚き、顔を上げた彼女に彼は微笑んだ。



「なぜ君は泣いているのか、の方が僕には重要だよ」



 そう言われた直後、ミシェルの頬をあたたかさが伝った。それはきっと、頬に添えられた彼の指先も濡らしただろう。



(どうして)



 なぜ、涙が頬を伝うのか。


 ミシェルには分からなかった。だって、落城の夜にも涙は零れなかった。あの日から閉ざし、固めてきた心がなぜ今になって涙を零すのだろう。必死で生きてきた七年だったのに、アーサーと出会ってからの日々の間で、これまで必死に護って来たものが次々に壊されていくようだった。それは心の片隅が死んでいく感覚とは違った。どうしようもないほど不快なのに、胸の洞に響く音は冷たくはない。


 涙は止まらずに次から次へと頬を伝い、顎から雫となってシーツの上へとシミを作っていく。もう止め方も分からなくなって、しゃくり上げた彼女の涙をアーサーは拭うことはしなかった。だが、その細く長い指をした両手で彼女の頬を包むと彼女と視線を合わせた。ミシェルはその手を剥がそうとしたけれど、彼はそれを許してはくれなかった。碧眼に見入られ、ミシェルは彼の片手に自分の手を重ねる。その彼女に彼はやさしく微笑みかけて言った。



「報復は君にとって生きる支えだったのかもしれない。でも、それ以外の生き方を、君がしてくれたら良いと思ってしまうんだ」


「……傲慢だわ」


「うん」


「ひどいことを言うのね……」


「うん」



 頷く彼の声は、素直な子供のようで。甘く耳に纏わりつく。



「でも、君に死んでほしくない」



 告げられた彼の声にミシェルは瞼を下ろす。瞼の裏に張り付いていたはずの、龍の形をした炎。その面影がほんの少し、薄れていたように感じたのは気の所為だろうか。報復を諦めてしまったら、自分には何も残らない。あの日の誓いを果たせなければ、国にも民にも家族にも、誰にも生き残ってしまった罪を赦してもらえない気がしてならなかった。


 自分ではどうしようもない感情の波に声も嗚咽もなく涙を零していると、そんな彼女の顔をアーサーが覗き込んだ。その彼の行動に目を瞠った彼女の耳元で彼は囁く。



「あんまり泣き続けると、キスをしてしまうから」


「え?」


「女性はそうすれば大概泣き止むからね」



 胸が一際大きく脈を打った。そんな彼女の顔を再び覗き込む彼の顔には悪戯な微笑がある。呼吸を奪うほどに強い心拍は、一気にミシェルの体温を上昇させ、頬を上気させた。



「出て行って!」



 ミシェルは叫ぶと同時に彼の肩を押しやる。


 そうだ。忘れていたが、彼は数年前までは幾人もの女性との噂が耐えなかったのだ。エリオットもマルヴィナも言っていたではないか。


 だがアーサーはミシェルの想いとは裏腹に、彼女の両方の手首を掴むと首を左右に振った。



「嫌だ」


「私が嫌だわ!」


「……」


「……アーサー?」



 急に黙り込んだ彼にミシェルは首を傾げる。彼は眉間をきゅっと絞って、どこか哀しそうに目尻を下げていた。何かを思い出したような彼の、長い睫毛がかすかに震えている。



「……今、君を一人にしたら、また消えてしまいそうだ」



 その声はあまりにも小さかった。けれどミシェルはどうにか聞き取ることができた。彼の考えていることが分からずに、けれど触れられた手首から伝わる彼の苦しいまでの感情が彼のあたたかな体温と共にミシェルの身体に流れ込んでくる。自分のことのように胸が軋み、ミシェルが顔を顰めれば、そんな彼女を安心させるかのように彼は微笑んだ。



「ほら、大人しくして。傷口が開くから」



 彼はそう口にして、ミシェルを布団の中へといざなう。頬に残る残りの雫は彼の指先がやさしく拭ってくれた。


 横になったミシェルは寝台に腰掛けるアーサーを見上げる。彼は窓の外に視線を投げていた。彼の瞳は昼間の空よりも少し暗い瞳をしている。その瞳の暗さが、シリルと重なった。


 喧嘩のような別れ方をして以来、ミシェルは彼と会っていない。



「……ねえ」



 静寂の中、そっと呼びかければ振り返ったアーサーはミシェルに微笑んだ。その彼の顔を見上げたまま、ミシェルは問う。



「シリルは?」


「君の従者のこと?」


「ええ」


「彼はひどく反省していて、ここには入って来られないようだった」


「……」



 言われて、扉に目を向ける。あの扉の向こう側で大人しく佇んでいるシリルの姿が驚くほどありありとミシェルの頭に描くことができた。彼を室内に呼ぼうかと考えていると、その考えを読んだかのようにミシェルの視界が暗闇に包まれた。同時に目元にあたたかな熱を感じる。ミシェルの目を覆っているのは、アーサーの掌だった。



「もうおやすみ。君が眠るまでは傍にいるから」



 一人だって眠れる。


 そう言いたかったのに、彼の手は心地好いほどにあたたかくて。逆らえないほどやわらかな眠気が羽毛のようにミシェルの身体をやさしく包み、微睡へと誘う。



(もし……)



 うつらうつらとした意識の中で、ミシェルは思う。



(私が、このまま生きていたら、どうなるのだろう)



 報復を諦め、生きることを望んだらそれは死した彼らへの裏切りになるのだろうか。あの日、ミシェルを逃がしてくれた皆の想いは、一体何を望んでいるのだろう。ミシェルには、それが分からない。分からないまま生き延びた七年だった。人を騙し、必死に生きてきた。


 そうして手に入れたものは、一体何の価値を持っていたのだろう――?

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