《season2》リアルの破滅への足音
貴子は田中兄弟の働くフィットネスジムに来ていた。来週引っ越すことになり、このジムに通うのは今日が最後になる。
更衣室でシャワーを浴び、シャンプーとリンスが一緒になっているものを仕方なく使う。いつもは持って来るのだが、今日はジムの後に田中兄弟と飲みに行く約束をしていた為、荷物になるものを置いてきたのだった。
着替えを済ませ、髪を乾かして更衣室を出る。
「俺らも今上がった。着替えてくっから、下で待ってて」
「分かったぁー」
浩太郎に言われて貴子はエレベーターを使って下に降りた。いつもは午前中に来ていたが、今日は妹の買い物に付き合ったため来るのが遅くなり、外は真っ暗だ。貴子は思わず身を縮めた。コートを着ていても寒いと感じる。特にシャワーを浴びた後は尚更そう感じる。
貴子はジムのあるビルを出て、近くにある自販機の前に立ち、携帯をいじりながら2人を待った。
「誰か待ってるの?」
聞き覚える男の声が聞こえて貴子は顔を上げる。
「な……、なん、で?」
「久しぶりだね、貴子」
急に貴子の手が震え出し、徐々にその震えは全身へと伝わる。
「え………あ……」
ガードレールに寄りかかりながらも立つのがやっとなほど貴子は震えていた。
男は笑みを浮かべると貴子に近寄り頭に触れる。その時貴子は思わず目を瞑りビクッと体を大きく震わせた。
「……俺に会えて、嬉しくない?」
「………」
「俺は君に会えて凄く嬉しいよ、貴子。昔と全然変わってない」
男は優しく頭を撫でる。
「どうして……ここに」
「転勤。少し前にまたこっちに戻ってきたんだよ。まさか貴子に会えるなんて思ってなかったけど。今も実家に住んでるの?」
「……はい…」
「そっか。俺はこの近くにマンション借りてるんだよね」
「………」
「今彼氏いる?」
「………」
「ん?」
「……居ない、です…」
「そっか。良かった。貴子、俺とまた一緒に暮らさない?」
そう言うと男は貴子を抱きしめた。
「あの時はごめんね。凄く反省したよ」
「………」
「でもあれは貴子を愛してたからだったんだ。もうあんな事しないって誓うから。俺と一緒に暮らそう」
「………」
男は貴子を一度離すと両手で貴子の頭を包み、自分の顔をゆっくりと近づけた。
「何やってんの?」
後ろから声が聞こえて男は動きを止め振り返る。顔がそっくりな2人の男が立っていた。
「は?」
「そいつ、俺らのツレなんだけど?」
男は貴子を見た。
「本当に?」
「おい、人の話聞いてんのか?」
「ねぇ、貴子。この2人と知り合いなの?」
貴子は目を瞑ったまま首を横に振った。
「貴子は君らとは知り合いじゃないって。消えてくれる?」
「は?ふざけんな!おい!ドM!」
「……ご、ごめんなさい…」
「お前ら、俺の貴子を怖がらせんじゃねぇよ」
「あ?お前の?」
「どういう意味だ」
「お前らに関係ねえーだろ」
「…まさか」
浩太郎は不自然に震えている貴子を見た。
(まさか…例のDV男か……)
貴子は明らかに怯えているように見える。
「あーー、面倒くせ。浩太、あいつ放っておいて行こうぜ…っておい!」
浩太郎は男の顔面を思いっきり殴った。
「…っ」
男はその場に倒れる。
「おい、何やってんだよ」
「うるせー。おい、来い!」
男が立ち上がる前に、浩太郎が貴子の腕を無理やり引っ張る。
「え……」
しかし、貴子は足が震えてうまく歩けない。
「ドM何やってんだよ」
「ちっ」
浩太郎は仕方なく貴子を肩に担いで走る。
「なっ…!」
佑太郎は驚きながらも浩太郎の後を追った。
男は上半身を起こし、姿が小さくなる貴子を見ていた。
「くそっ」
顔を手で押さえ、もう片方の手でガードレールを掴み立ち上がる。
「ふっ……まあ、いい」
男はそう呟き、暗い夜道をふらふらと歩いて暗闇の中に消えた。
浩太郎は人気の多い繁華街まで走ると、ようやく貴子を下ろした。
「…っ。さすがに腕が疲れる」
嫌味を言ったつもりだったが貴子は何も言わずただ地面に座り、体を震わせたままだった。
「ったく、どーすんだよ」
「あ?」
「店の前で殴るとか狂ってんのか?客に見つかったらどーする気だよ」
「仕方ねーだろ、あの状況じゃ」
「仕事クビになったらお前のせいだそ」
「…ごちゃごちゃ言うな。とりあえず前のカラオケ行くか」
浩太郎は貴子に肩を貸してカラオケ店まで歩かせた。
「だいぶ落ち着いた?」
個室に入ると貴子の震えてが少し収まったように見えた。
「…ごめん…」
「本当だよ、ったく」
「佑太は黙ってろ」
浩太郎は佑太郎を睨む。その後自分の着ていたジャケットを脱いで貴子の肩にかけてやろうとすると、貴子がビクッと体を震わせた。
「あ…悪い…」
浩太郎はジャケットを戻し、雑にソファに置いた。
「さっきの男、元彼?」
貴子は頷く。
「あ?元彼?」
佑太郎が口を開くと浩太郎はもう一度睨んだ。
「けっ…」
何も言えなくなった佑太郎は仕方なく酒を飲みながら携帯をいじる。
「元彼って、異動したって言ってたよな?」
貴子は頷く。
「さっき居たってことは…こっちに戻ってきた、ってこと?」
貴子はもう一度頷いた。
「はぁーーー」
浩太郎は大きなため息を吐いて天井を見上げた。
(…まぢかよ…)
浩太郎が貴子と2人で飲みに行った後、ネットでDV被害者について調べていた。
それによると、被害者は「自分が悪いから殴られる」という考えを刷り込まれており、無意識に自分を否定してしまう。それに加え、被害者は気づかずに支配者(DV男)に依存していることが多く、知らず知らずのうちに支配者の元に戻る傾向があるとあった。
貴子の態度や反応を見る限り、それほど酷い被害は受けていないように感じていた。そして前に話した時貴子は、元彼は異動してしまいそれ以来会っていないと言っていたため、浩太郎はそこまで心配はしていなかった。
「ごめんね…」
「え?」
「突然だったから…びっくり、しただけ。もう…大丈夫」
「んなわけねーだろ」
「本当に!…大丈夫だから…」
それでも貴子の手は震えたままだった。
浩太郎はどうして良いのか分からずにいた。抱きしめることも、髪に触れること、手を握ることすら彼女の負担になる、そう思えてしまう。
「あのさ……」
「ん?」
「手…」
「え?」
「手…握ってもいい…?」
浩太郎は驚く。
「あ…ああ」
貴子は浩太郎の手を強く握った。浩太郎は、まるで歯医者に来ている子供と手を繋いでいるようだと思い、不謹慎にも思わず笑ってしまった。
それを見た貴子も何故か笑った。
「…ありがとう」
貴子の震えは収まるが2人は手を繋いだまま居る。
「何?俺は邪魔なわけ?」
佑太郎が不満そうに言った。
「ふふ。何か歌ってよ」
「は?何かって何だよ」
「んーー、雪アナ」
「絶対ぇー歌わねぇーし」
浩太郎はいつも通りの貴子を見て少し安心した。そして、これが強がりでなければいいなと願う。
「お前が歌えよ」
「ん、今日は遠慮する」
「つーか、いつも歌ってねーじゃん」
「それはいつもドS兄弟が勝負挑むせいじゃん」
「あ?やるか?」
「んーー。いつか、ね」
「けっ」
(いつか…?)
浩太郎はその言葉に妙な違和感を抱いた。
3人は何をするでもなくただ時間を過ごし、22時前にはカラオケ店を出た。
駅に着くと浩太郎は
「俺、こいつ送っていくからお前は先帰ってろ」
と佑太郎に言った。
「…分かった」
佑太郎は改札を通るといつも乗る路線の電車に乗り、浩太郎は貴子の家に向かう電車に乗る。2人はまだ手を繋いだまま、会話することもなくドアの近くに並んで立っていた。
そして浩太郎は、このまま時間が続けばいいのに、と柄にもないことを思っていた。
浩太郎は今までの恋愛を振り返る。
女と付き合った回数は多いほうだと自負していた。そして、1つの恋愛が長続きしていなかったことも。
高校に入る前から髪を染め、ピアスを付け、ガラの悪い友達と連んだりしていた。そのせいか浩太郎をチャラい男だと誰もが思っていた。そして寄ってくる女はネジの緩んだ女ばかり。いつの間にか付き合った人数よりも体の関係を持った人数の方が多くなっていた。
自分は人を真剣に想うことが出来ない、そう思った、というより、そう思いたかった。
「……降りなきゃ…」
貴子の言葉に浩太郎はハッとして急いで電車から降りる。
「考え事?」
「あぁ。少し」
「そっか」
改札まで来ると貴子が止まった。
「ん?」
「…、ウチまで…送ってくれない、よね?」
「何言ってんの?家まで送るに決まってんだろ」
そう言うと貴子は少し笑った。
「あのさ、」
「何?」
「みんなには、言わないでね」
「…分かってる」
「…良かった」
「その代わり」
「え?」
「何かあったら、絶対俺に言えよ」
「………」
「言わなかったら…みんなにバラすかもよ?」
「え?」
「いいか?この事を知ってんのは俺と佑太だけだ。まあ、あいつは良いとして。少なくとも俺はお前の力になりたいと思ってる」
「浩太郎さん…ごめん、巻き込んで」
「今更言うな。見られたのが俺たちで良かっただろ?」
貴子は確かに、と思った。航平には死んでも知られたくない。
「心配すんな。次あいつが現れたら俺の必殺技で」
「しょーりゅーけん!!って?」
「使えねぇわ、そんなスゴ技」
「えー、残念」
「つかお前オタクすぎ」
「普通だよ」
「いや、普通じゃねーし」
「失敬な。これでも三十路前の独身貴族なんですけど?」
「知ってるし。だから言っただろ?俺と結」
「あ、ウチに着いた」
貴子は少し古そうな建物の前で止まる。
「ああ、そっか」
「送ってくれてありがとう」
「気にすんな」
「うん…」
2人は名残惜しそうに手を離した。
「今日、絶対オンしろよ」
「え?」
「ドリファム」
「…うん」
「じゃあ…また後でな」
「うん、気をつけてね」
「ああ」
浩太郎が来た道を戻るのを見送ると、貴子は建物の中に入っていった。
その様子を、ある人物が見ていたとも知らずに。