リアルの運命の火曜日
関東では記録的な積雪でどの交通機関も運転を見合わせている。電車は当然のように止まり、そのせいで道路は朝から大渋滞の大混雑している。
牧野航平はシワの一切ないシャツに、シンプルなネクタイを付け厚手のジャケットを羽織って家を出る。
駅まで向かう途中、散歩中の犬が呑気に雪の上で戯れているのを見て少しだけ顔が緩んだ。
今日は自分にとっては大事な日だと言い聞かせ、白い息を吐きながら足早に歩く。
会社はどんなに悪天候だろうと休むことは許されない。
牧野は駅に着くと会社の方向に向かうバスへ乗り込んだ。
★☆★☆★
犬塚貴子はあくびをしてからベッドから起き上がる。
先週末に北海道へ行き、月曜日は休暇を取ったせいで、いつもより仕事に行くのが億劫に感じた。
リビングに行くと、テレビでは全線運転を見合わせているというニュースをやっている。
貴子は急いで支度を始め、会社へと向かった。
貴子が会社に着くといつものように更衣室で制服に着替え始める。
「ねぇ、見た?見た?」
「見た!見た!若いよねー」
その隣では同じ部署のパートの女が着替えながら話に夢中になっていた。
「犬塚さんも見た?」
1人の女が興奮気味で貴子に声をかけた。
「何をですか?」
「新しい署長!」
「え?今日来てるんですか?」
「そうなのよ!すごい若くて男前なの!」
と、50代の女が嬉しそうに言った。
(この歳の人の言う'男前'って、私の思う'男前'と少し違うんだよなー)
と思いながらも貴子は「楽しみ〜」と答えた。
出勤時間の15分前には自分のデスクに着く。余裕を持って早めに家を出たこともあり、なんとか遅刻は免れた。
それは他の社員も同じようだった。いつもは時間ギリギリに出社してくる社員が珍しくすでにデスクに着いている。
それから数分後、署長が出社し、ゆっくりと自分のデスクのイスに上着を掛けた。
普段であれば挨拶をしたら誰も彼に気を留めないが、今日は社員もパートもそして貴子も署長に注目している。
署長がデスクの前に立ち、社員やパートをその場に起立させると
「私は今週いっぱいで退職することになった。そして、来週からここの署長になる牧野航平君だ」
そう言って、隣に立つ30代くらいの真面目そうな男を紹介した。
社員の男たちは不満そうな顔をし、パートの女たちは嬉しそうに笑っている。
「初めまして。牧野です。まだ経験不足ですが、宜しくお願いします」
牧野は部屋を見回し、社員とパート全員の顔を一人一人見回すと、視界の中で1人の女が目に止まった。
「今週は牧野君と引き継ぎをやることになる。が、君たちはいつも通り仕事をしてくれ。以上」
署長がそう言い、社員もパートも自分のデスクに向かって座る中、貴子だけが牧野を見つめていた。
「何をやってるんだ!?犬塚君。さっさと仕事に取り掛かりなさい!」
貴子は署長に怒鳴られ我に返る。
「あ、はい!すみません」
慌ててデスクに向かう。社員の笑い声が聞こえたが、そんなことより胸の鼓動を落ち着かせるのに精一杯だった。
(…嘘。これって夢?)
「犬塚さん、もしかして新しい署長に一目惚れ?」
隣に座っているパートの1人が小さな声で話しかけてきた。
「そ、そういうわけじゃ…」
「気持ちわかるわ。私も若くて独身だったら狙っちゃうもの」
「だから…」
今度は逆隣のパートの女が
「でもね、噂ではあの署長、32歳でバツイチらしいわよ」
「え!?バツイチ!?」
「上司の紹介で結婚したけど、奥さんが浮気癖あって、それで離婚したらしいわ」
「へぇー!ただでさえ30代で署長なんてビックリなのに、その上バツイチなんてねぇ」
「驚きよねぇ」
「あの……」
貴子がため息を吐いた。
「私を挟んで会話するの止めてくれませんか…?」
パートの2人は、あははと笑って自分の仕事に戻った。
貴子は未だに収まらない激しい鼓動を押さえつけながら仕事をこなした。
貴子は家に帰って自分の部屋に入るとベッドに倒れこんだ。
「…どうしよう…」
新しい署長の事を思い出して、あーーーと叫びながら頭を掻きむしる。
牧野を見た時、何か胸騒ぎのような、高揚感のような、表現し難いほど自分でも不思議な感覚だった。
そして牧野が挨拶をした時、これは夢なのかと思った。
何故なら彼の声は夢で聞き覚えがあるものだったからだ。
「…どうしよう…本当に」
いつもならブログを更新している時間だが、21時を過ぎても貴子はベッドの上から動けずにいた。
牧野は自分の事に気付いたのか
それともただのキチガイな女だと思ったのか
どちらにしても牧野の表情からは、貴子に対してあまり良い印象を受けていないことが見て取れた。
「貴子ー?お風呂ー!」
貴子は母親に呼ばれてようやくベッドから動き出す。
シャワーを時間をかけて浴びてから、いつものようにドリームファームの世界へ向かった。
貴子が牧場に向かうと、家の前にこーへいが立っていた。
貴子に気づくと
「少し…話せる?」
と言い、貴子は無言のまま首を縦に振った。
貴子は家にこーへいを入れた。何を話したら良いのかを必死に考えるが、何1つ浮かんでこない。
沈黙は数分続いた。
こーへいはようやく口を開く。
「…もう、気付いてるよね?…俺のこと」
貴子は小さく頷いた。
「俺、凄く驚いたよ…。異動した先にわんちゃんが居るんだもん。見た目もほとんど同じだからすぐ気付いたよ」
こーへいは照れ臭そうに笑った。
「私も…驚きました」
「まさか…こんな風に会うなんて、ね?」
「はい…」
「それに…」
「え?」
「狸じじいが渡辺さんのことだったなんて」
こーへいは口元を手で隠し笑っている。
「あああ…///。あのことは署長には内緒にして下さいぃぃ」
「ははは。分かってるよ」
貴子はまた何も言えなくなって口を閉じた。
「ビックリした?」
「?」
「俺、こっちと見た目違うから…」
「…はい…」
「…想像と違う?…よね…」
「はい…」
「だよね…。ゴメンね、がっかりさせて」
「え?いえ。でも声とか…その、雰囲気ですぐに分かりました」
「そっか。前に会いたいって言ってくれた時、正直嬉しかったよ。でも…実物と違うからがっかりされたら嫌だな、なんて思ってて」
「え?」
「ずっと言い出せなかったんだ…。俺も、わんちゃんに会ってみたかった」
「そんな…」
「これからリアルでは上司になるから会社で仲良くは出来ないけど、こっちでは今まで通り、接してくれないかな?」
貴子は下を向く。こーへいの意外な言葉に動揺していた。これは悪い意味ではなく、良い意味で。貴子はむしろ、もう仲良く出来ない、と言われることを覚悟していた。
「そっか…。無理なら良いんだ。上司となんて、仲良く出来ないよね…」
「そういうわけじゃ…」
「良いんだ。ゴメン、お邪魔しました…」
こーへいがマップを開こうとした時、貴子は思わずこーへいの袖を掴んだ。
「嫌じゃ…ないです」
「え?」
「今まで通り…仲良くして下さい…」
こーへいは一瞬驚いてから微笑み、
「ありがとう」
と言ってから牧場に戻った。