剣道の師範
お腹が鳴り続けている俺は、ほぼ手探り状態で台所を目指す。広くて家の構造なんてわからない、少し扉をガラッと開けては閉め、開けては閉めの繰り返し。途中で瑞樹さんの部屋があって、起こしてしまったんじゃないか、と思ったけど、瑞樹さんが起きてくる事はなかった。
うーん、こんなに広い家だと掃除とか大変そうだな、朝ごはんを作って食べた後は掃除の手伝いをしようかな。とにかく、恩返しになりそうな事はなんでもしないと。
約5分後、ようやく台所を見つけた俺は手を洗う。なんで、って聞かれれば答えられないけど、なんとなく洗わなければいけない、って思ってしまった。
台所を見回してみる。この縦に長い箱はなんだろう、幾つかの部屋に分かれていて、それぞれに扉が付いているようだけれど…。恐る恐る開けてみる。
「寒っ! この箱は冬製造機ですか…」
そう思ったけど、中を見ると沢山の食材と飲み物が入っていた。なるほど、これは食材を保存するための箱だったのか。便利な物だ、また1つ賢くなったような気がする。
俺はそんな事を考えながら冬製造機から使えそうな食材を出す。卵、豆腐、生わかめ、味噌、野菜がほしいな、キャベツはどうだろう。
うん、これだけあればいいかな……あれ? 瑞樹さんの家族って全員で何人いるんだろう? 確か昨日自己紹介するって言ってたのに、あぁ…その前に寝ちゃったのか。
どうしよう、今から確かめるにしても起こしてしまったら…、これは困った。
「あらあら、どうしたの心音ちゃん? この卵たちは…」
「ヒッ⁉︎」
突然背後から声が聞こえてきて驚いたが、振り返ってみると、いたのは瑞樹さんの奥様だった。起こしてしまったのだろうか…?
「い、いえこれは泥棒とか食べ物漁りとか、そういうのではなくて…、泊めていただいたお礼に皆さんの朝ごはんを作ろうと思いまして。でも瑞樹さんのご家族の方が何人いるのかわからなくて、それを考えていたところを声かけられて驚いてしまったんです…」
焦っていた所為か少し言い訳っぽくなってしまった。恩返しのはずなのに、これじゃあ恩をあだで返すようなものだ、瑞樹さんの奥様に疑われて…
「そうだったの、ありがとう。心音ちゃんを入れて全員で7人よ」
そう言って瑞樹さんの奥様は優しい笑顔を見せる。
「……疑わないんですか?」
「疑うわけがないわ、だって心音ちゃんは私たちのためにやってくれたのでしょう。むしろ感謝しています。でも、朝ごはんなら私が作るから気にしないで」
優しい…、疑わないのか、と疑った俺はなんてひどい人間なんだ。俺もこんな優しい人になりたい…。
でも、それとこれとは別だ。
「いいえ、ではお手伝いさせてください。少しでも役に立ちたいんです」
「……そう、ならお願いしようかしら。材料を見る限りお味噌汁と卵焼き? キャベツは千切りで、うーん…じゃあお味噌汁を作ってもらおうかしらね」
「はい、お任せください!」
「うまいわね、前にどこかでやってたの?」
「いえ、そんなはずはないです。初めてこの刃物持ちました」
キャベツを切りながら、そう答える。
お味噌汁は豆腐とわかめを切るだけだったからすぐに終わった。だからキャベツを千切りにしていたのだけれど…簡単だなぁ。
「あ、いきなりこんな事を聞くのは失礼なんですが、この家ってすごく広いですよね、お金持ちなんですか?」
よくもまぁぬけぬけとこんな事が聞けるもんだ、自分で自分を責める。それとは裏腹に、奥様はさらっと水を流すように答えてくれる。
「お金持ちではないかしらね。ただ旦那が剣道の家元でね、この家は昔の代が建てたみたいなの。今は旦那が剣道教室を開いてる、その師範ね。この家の半分は道場だから、後で見に行くといいわよ」
「そうさせていただきます。なるほど、だから瑞樹さんは姿勢が良くて剣道が強かったんですね」
キャベツを切るダンッダンッ、という音に混ざり、瑞樹さんの事をもっと知ることができた。ふむ、俺も習ってみたいな。
「さぁ、そろそろみんな起きてくるわよ」
「そうなんですか? じゃあ運びますね、……どこの部屋に運べばいいですか?」
奥様に部屋の場所を教えてもらい、なんとかお味噌汁の入った鍋を運ぶことができた。奥様の言った通り、机の上には何やら木の板が…、この上に置けばいいんですよね。
うーん、雰囲気的に皆さんが起きてきそうな気配はないですね、本当に起きてくるのでしょうか?
そう思った瞬間、心臓が止まりそうになった。
ジリリリリ、と大きな音が聞こえてきたのだ。それほど大きくはなかったのだが、静寂の中にいきなり現れれば十分すぎる音だった。しかも俺は初体験、冷や汗が止まらない。
なるほど、奥様の言っていた「みんな起きてくる」、の意味がわかった。この音の所為なのか、そりゃあこんな奇怪な音が聞こえれば誰だって起きるはずだ。
しばらく…ほどの時間ではなかったが、少しの間をおいて瑞樹さんが起きてきた。
「おはよう。おや、心音、起きてたのか?」
「はい、おかげさまで…。朝ごはんの準備できてますよ」
そう言って俺は瑞樹さんのお茶碗にご飯をよそおうとする。
「あぁ心音、わしのはまだいいよ」
「そうなんですか?」
良かれと思ってやったのだが、何かこだわりでもあるのだろうか。それとも奥様の方が…
「日課の素振りをやらなくては、いつもその後に朝食をいただいておるからのぅ」
なるほど、さすが剣道の家元…もとい師範、教える立場であり、流派を守っていく信念が強く感じられる。
どうしよう、なんだかうずうずしてきた。
「あの!」
どうにも止まらなくなって、俺は大きな声を出してしまった。この声で家族の方を起こしてしまうのではないか、と考えられるほど大きな声で。
「ん、なんじゃ?」
「俺も、俺も一緒にやっていいですか?」




