救いの影
人間は裏切る生き物で、わたしたちは裏切られた側だ。
自然界に存在するはずのない不気味な黒い渦、それは人気のない場所に忽然と現れ、1人の男をある世界へと運んだ。
彼は世界に着くなりため息を漏らす。
ここはなんと悲しい世界だろう。彼の理想とする世界とは程遠い、ひどく醜い世界だ。人々は飢えに苦しみ、奪い合うために互いを傷つける、今日を生きることさえ難しい世界。いつから世界はこんな風になってしまったのだ。
だがここも氷山の一角に過ぎない。外にはまだまだ醜い世界が存在している、そんな状況だ。男は醜い世界を救いたい、そう願っているのは彼の仲間たちも同じだ。彼の掲げた理想に賛同し、協力してくれる掛け替えのない存在がいた。
その仲間のためにも、男はそんな世界を変えなくてはならない。この世界も例外ではないから、早く救わねばなるまい。
“早く”というのは、先ほど男に起きた出来事が関係している。
彼がこの世界に到着し、人がいそうな場所を目指して歩いていると、前から突然火だるまになった少年が現れ、彼に助けを求めしがみついてきた。
炎の勢いは凄まじく、なんとか消してやる前にその少年は力つき、地に倒れこんだ。倒れてもなお、少年の身体を焼く炎は勢いを増し続ける。
可哀想だと思いながらも、何もしてやることのできない男は焼死体に手を合わせ、人がいそうな場所へと歩くことにした。数十メートル歩いたその時だ、何気なく後ろを振り向いて見たら、さっきまで燃えていた少年が、跡形もなく消えていた。燃え尽きたわけではない、灰なんてどこにも無かった。
不思議に思いながら、男はふと違和感を感じたポケットの中を探る。案の定しまっておいた大切なビンが無くなっている。スリだ。
盗まれたビンの中には大した物は入っていないが、それは一般人にとってで、男にとっては命の次に大事な物を盗まれたことと同義だ。彼はビンの中身を少年に使われる前に、急いで取り戻さなければいけないと思った。
彼は焦らなかった。待っていれば自然と、ビンはこちらに向かって歩いてくるからだ。仕掛けはすでに済んでおり、後は待つだけでいい。
ややあって、ビンは男の元へと歩いて戻ってきた。少年の身体というおまけ付きだ。だが必要なのばビンだけなので、少年にはもう消えてもらうことにする。
男がちょいと指を振ると、ビンを持ってきた少年はドロリと溶け、全て蒸発した。死んだわけではない、というか、少年は少し離れたところで焼け死んでいるだろう。今溶けたのは彼であって彼でない。
無事ビンを取り返した男は移動をやめ、地べたに座り込みつぶやく。
本当に醜い世界だ、と。
幼い頃から悪事に手を染め、それもこのような巧妙なやり方を使っているなんて、できた世界ではない。仁と義を持った人間がいるのか、こんな世界に抗ってやろうと考える人間、このまま進めば出会えるだろうか。
いや、いないだろう。
こんな世界は早く救わねばならない。男の理想とする世界を作るために、この世界を救わねば。この世界が嫌いな人間よ、いたら申し訳ない。安心してくれ、世界は彼が救う。
男は地面に手をつき、救いの言葉を世界に捧げる。
「滅べ…」
彼の言葉を合図に、世界は崩壊を始める。地割れが発生し、それに巻き込まれるように人々は死に絶え、暗くどんよりとした空には禍々しい穴が開く。絵に描いたような滅びだ。あと少しあれば、空の穴はどんどん大きくなり、この世界の全てを飲み込むだろう。
何度目だ、この手で世界を救ったのは。
男は宙に浮き、しばらくその光景を見ていたが、やがて全てが崩壊する頃になると、ニヤリと怪しげな笑みを浮かべ、終わりを見届けることなく、自ら作り出した黒い渦に入り、仲間の待つ世界へと消えていった。
「じゃあよぉ、加蜜列はもう戻ってこないんだな?」
カナンでの出来事を話し終えた信飛子は、彼が仕える男に気だるそうに問われた。信飛子が話したことは、加蜜列を仲間から外したフリをして他の世界に送ったこと、彼女が1人の人間と戦っていたことだ。隠密行動をとるはずだった加蜜列が、どうして戦っていたのか、誰と戦っていたのかを信飛子は知らなかったが、おそらく計画の邪魔をされたからだろう、と考えていた。
加蜜列の危険を感じ、自分の中でシナリオを作り、彼女を助け出したのは、信飛子が加蜜列を仲間に引き込んだ責任だ。傷ついてなお立ち上がり、計画を遂行するという意志の強さに感激しながらも、これ以上彼女を危険な目に合わせたくない気持ちの方が強かった。
半ば裏切るように加蜜列を逃したことを、信飛子はひどく気にしている。
「はい…勝手な行動をお許しください」
「いいんだよ、仕方ねぇ。あいつもまだガキだ、あまり酷な事をさせたくない気持ちもわかる。だけだよ、傷だらけで行かせたってのは、ちとまずかったな。ま、それも仕方ねぇんだろうけどよ」
信飛子の仕える者の1人、紅黄は荒っぽい口調だが、義理の通った男だ。仲間内では怖いと言われる紅黄が、信飛子はそれほど苦手ではない。
雑に頭を掻く紅黄に、信飛子は言う。
「すぐに送った世界に向かって手当てをしたいのですが、そうすると彼女は、また我々のところに戻ると言うでしょう。それはできません。気の毒です」
「大丈夫さ。1人で生きていけるだろ、あいつは強い奴さ。休んでいいぞ、あいつには伝えとく」
と言って紅黄は信飛子に背中を向け、彼が作り出した黒い渦の中に消えていった。信飛子は誰もいなくなった空間でひとり頭を下げ、
「はい…ありがとうございます、失礼しました」
と言い残し、彼自身も渦を作り、その1日を休んで過ごした。




