上には上がある
「…そんな……いらなくなるって…」
「そう、いらないの」
男はそう言うと開いていた本を閉じる。冷たい視線がカミツレに刺さり、本人は使えない腕を引きずるようにゆっくりと歩みを進め、ノブヒコに近寄る。
「じゃあね、加蜜列。死んだらまた会おうよ」
「そんな…、嫌…嫌です…信飛子さん……お願いです––––」
「いらないって言っただろ。弱い奴は邪魔だし、クールじゃないんだ」
そう言うとノブヒコは、カミツレの足元に黒い渦を出現させ、カミツレの動きを封じ、じわじわとカミツレの足を呑み込んでいく。
必死に足掻くカミツレ、しかし渦は底なし沼のように足掻けば足掻くほどに早く沈む。
「お願いです…助けてください…」
カミツレの叫びに背を向け、ノブヒコはフードを深く被る。私はそれを見ているだけだ。不愉快だが、私には関係のない事なのだ。
私はカミツレが憎い、仲間に裏切られたところでどうでもよく、死んだところで私が手を汚さなくて済む。どんどん沈んでいくカミツレを見て、私はそんな事を考えていた。
しかし、敵とはいえやはり不愉快だ。
もうすぐ上半身もすべて沈むかといった頃、カミツレは涙を浮かべた目で、力を振り絞ってボロボロの手を私に伸ばし、
「霜月…助けて…」
「…!」
刹那、私は反射的に動いた。
頭も完全に沈み、沈んでいないのは既に手だけになっている。私は急いでその手を掴もうとするが、あと一歩のところで間に合わず、かみつれはあ完全に呑み込まれ、私は虚しく空を掴んだ。
「…ふぅ……」
ノブヒコは一息つき、見えているのかわからないほど深く被ったフードの隙間から空を見上げる。私はそんなノブヒコになんとも言えない怒りを抱いた。
「外道…、どうして酷い事を…」
「………」
なぜ私は怒っているのだろう。カミツレは敵だ。モエミとマリ、鬼灯ちゃんを惑わせた張本人で、私の命も奪おうとした。実際、私はカミツレが憎かった。
やはり、不愉快だったのだ。敵だが、黙って見ているのがどうしようもなく不愉快だったのだ。
カミツレはいなくなった。じゃあ次に私のする事は決まっている。
「なんとか言いなさいよ!」
「………んね……」
ボソッとノブヒコが何かを言う。はっきりと聞こえなかった私が疑問に思っていると、フードに隠れたノブヒコの目から雫が1つ落ちた。
すると何かが決壊したようにノブヒコはくるくると回りだし、
「ゴメンね加蜜列…本当にゴメンね…、こうするしかなかったんだ、君には辛い思いをさせるだろうけど、こうするしか君を助ける方法がなかったんだ…。ああそうだ…、自分が君を仲間に誘わなければ、君はあんなに傷を受けることもなかったし、そもそも危険な目に遭うことなんてなかった、すべて自分の所為なんだ…。許してくれ、今は辛いだろう、でもあと腐れなく君と別れるにはこうするしか…新たな世界で君が幸せになれる事を祈っている、愛してるよ加蜜列…」
と、まるで演劇の役者のように動き回り、身振り手振りをつけて消えてしまったカミツレに謝った。
「何なのよこいつ…」
不気味だ。動き回っている間にずれたフードから見える目は、先ほどまでの冷たさはなくなり、子を思う親のような優しい目へと変わっていた。それが何より不気味で恐ろしい。
私は自然とノブヒコから距離を取り、薙刀を構えた。未だ無に許しを請うノブヒコはようやく私に気づき、
「ん…、ああ、ゴメンね。加蜜列のことで頭が一杯だった」
「あっそ。…で、誰よあんた。カミツレの仲間みたいだけど」
「もう仲間じゃない、彼女はもう無関係だ。あんな小さな子には荷が重すぎだ、自分たちのことなんか忘れて平和に生きるほうがいい。もっとも、これまでの彼女の行動もこれからの平和のための礎となるだろう」
「何それ、カルト教団みたいな文句ね」
「確かに自分たちが世界に反感を抱いているは確か…いや、そう感じる事ももうじき終わりだがね」
「なるほど、よく分からないけど、まあいいわ。ともかく、あいつの元仲間ってことだけは分かった。分かったから、黙って見過ごすわけにもいかないのよ」
そう言って私はノブヒコに薙刀の刃を向け、いつでも動けるよう体の力を抜く。ノブヒコは私を見てうんうんと頷き、
「ほうほう、なかなかクールな娘さんだ。…やる気?」
「やる気。今日の私は色々と虫の居所が悪いのよ」
自分でもいつになく真面目に仕事をしていると思った。いつもこの調子ならいいのだが、やはり人に傷を負わせるこの仕事はできる事ならやりたくない。傷をつけず世界や人を守りたいものだ。
ギラギラした殺気を放ちながらも、私はそんな事を考える。意思と体が真逆に動く、カミツレの言う通りかもしれない。
ではその通りに動くとしよう。嫌々だが、この男を倒すため、私は地面を蹴って距離を詰めようとしたその瞬間、
「はぁ…」
ノブヒコは溜息を吐き、その体は瞬時に黒い靄のようなものへと変化を遂げ、その場からいなくなる。
「消えた!?」
「後ろだ」
私がその場で起こった事をそのまま言った直後、背後から男の声がそっと呟くように聞こえた。そしてノブヒコは私の首元にどこからか取り出した刃物を突きつけ、私は動きを封じられた。
動けばやられ、動かなくてもやられる。私の頭はノブヒコが一瞬で背後に現れた事と、命を握られている事で真っ白になってしまう。
私はすんなりと死を覚悟した。
しかし、やや間を置いて、ノブヒコはなぜか私に突きつけた刃物を退け、ゆっくりと私から去っていった。私は力が抜けてしまいぺたりと地面に座り込むと、まるでさっきのカミツレのようだと思った。
極限状態で息も上がっている私の背後で、ノブヒコは強者の余裕を持って話し始める。
「やめとこう。加蜜列のチカラは消え、霜月、お前の魔力は少ない状態に戻った。今のお前に勝ち目はない。自分にとってはこれ以上ないチャンスだけど、やめとく。…ってか、邪魔が入りそうだからね」
私もノブヒコと同じように背を向けたまま、
「邪魔って…やめとくってどういう意味よ…」
「辞書で引こうか?」




