鬼灯となずな
「あはは、それは確かに幸せですね。俺もみんなと一緒にいれて幸せ……」
何の前触れもなく、突如として嫌な気配を察知してしまい言葉が途切れる。辺りの重力をほんの少し弄り、こちら向かい人が走っている事を知った。
「ん? どうしたの?」
「いえ…、ちょっと胡桃さんに用事を思い出して…い、行ってきますね!」
咄嗟に俺は今考えた嘘を言い残し、ずっきーをおいて1人逃げるように立ち去る。もちろん、胡桃さんの部屋に行くつもりはないが、どの部屋に隠れるかを考えながら、とりあえずこの薬箱を片付けるために一度自室に戻る事にした。その後、美良さんにかくまってもらおう。
「…どうしたんだろ」
シオンが逃げるように去った後、わたしは1人廊下に佇んでいた。胡桃さんに用があると言っていたが、嘘つきの能力を持っているわたしからすれば、あんなものは嘘だとすぐに分かる。と、いうのも勘ではあるが。
1人になったわたしはなっちゃんを捜すのを続けるべきなのだろう。だが広い薬屋「草花」、1人で、1人を捜すのは骨が折れる。なっちゃんの能力なら一発だろうが、根気でカバーするしかない。
張り切って捜す、そう決意した瞬間、微かに聞こえたドタドタという足音と誰かを呼ぶ声。わたしが昔からずっと聞いていた声だ。音はこちらに向かってきている。
だんだんハッキリとしてきた声は「シオ〜ン、シオ〜ン」、と言っており、ようやくシオンが逃げた理由がわかった。今の彼女のテンションなら噛み付く可能性もあるだろうから、それは正解だったのかもしれない。
「あっ、ずっきー!」
わたしを見つけたなっちゃんが一度立ち止まって言う。またドタドタと足音を立て、こちらに向かってくるなりわたしに抱きつく。これもいつも通り。
「なっちゃん。探してたんだよ、どこいたの」
「えっとね、さなねえに怒られてた…やっと説教終わったの。でもあの人、いい人だよね。あ、尊敬の意を込めて『さなねえ』って呼ぶ事にしたんだ」
「そ、そうなんだ…」
シオン達に出会って、なっちゃんは積極的になったと思う。昔はわたしの後ろにくっついて、自分のことを人に話すことなどなかった。いや、むしろ人と話すこともなかったはずだ。笑顔も増えた気がする。
この積極性がシオンを遠ざける理由なのだが、肝心のなっちゃんはそれに気づいていない。このあたり、わたしは正直に言えない。
なっちゃんは満面の笑みを浮かべ、
「うん。仲良し仲良し」
「でもあの人厳しいでしょ。廊下走ってよかったの?」
「げっ…そうだった…」
なっちゃんの笑顔が消え、自分が走ってきた廊下を見返す。沙奈–––1つ年上だがなんとなく呼び捨てだ–––は追ってきていない、となっちゃんは安堵の溜息を漏らした。
わたしはそれとは違う意味の溜息を吐き、これから言う事を考えると少し笑えた。
「ねぇなっちゃん」
「ん、どしたの?」
未だにわたしに抱きついているなっちゃんが顔をこちらに向ける。言いたいことがあるのに、恥ずかしさと申し訳なさがぐちゃぐちゃに混ざり、なかなか言い出せない。
「その…ありがと…」
わたしは具体的なことは言わず、感謝の言葉だけを言った。必要最低限、なっちゃんはこれで察してくれるはずだと思ったからだ。
だが意外な事に、わたしの言葉になっちゃんは首を傾げた。
「何が〜?」
「いや、だってあの時…」
わたしはあの時、自分がもう引き返せないと感じ、自我を失った時の僅かな記憶を必死に思い出していた。
白花お姉さんに襲いかかろうとした刹那、何か柔らかいものに叩かれ、大木に叩きつけられたあの時、わたしは毛に覆われた大きな獣を見た気がした。
気のせいではなかった。目を覚ますとわたしはなっちゃんに背負われ、のろのろと医者いらずの森を進んでいた。なっちゃんに訊くと「倒れてるずっきーをうんと遠くで見つけたから、負ぶってここまで連れてきた」、と言っていたが、こんなペースでうんと遠くからここまで来られるはずがない。
おそらく、なっちゃんは“なった”のだ。バレれば昔のようになるかもしれないのに、自分を犠牲にしてわたしを抑えようとしてくれた。そのはずなのだ。
だが、当の本人は未だに首を傾げている。
「わたし何かしたっけ? 何も覚えてないや」
「わたしもほとんど覚えてないよ。でも白花お姉さんが言ってて…もし人に見られたら」
わたしが言うと、なっちゃんはわたしの腰から手を離し、ぴょこぴょこと動く耳を押さえる。
「あーあー聞こえない聞こえない、わたしのかわいいお耳は何も聞こえないよー」
「なっちゃん…」
わたしは情けなくなる。守ってあげなきゃいけなかったこの娘が、こんなに強くなっているのが嬉しくもあり、切なくもあった。
「でも、2度とわたしのいないところではダメだよ。なっちゃんはまだ完璧にコントロール出来ないんだから、戻った時の変化が…」
わたしの不安とは裏腹に、なっちゃんはニコッと笑い、
「大丈夫だよ。爪は切ればいいだけだもん。それに見てよ、この髪。さなねえに椿油つけてもらったの。どう?」
なっちゃんはそう言いながら、わたしより少し長い髪に手を触れて主張する。いつもと違う、独特の光沢があった。
「あ、ほんとツヤツヤだ」
「へへん、どう? 色っぽい?」
「うーん…わたしにはよくわかんないなぁ」
「あははっ、そうかもね」
この娘には敵わない。いつも、わたしに元気をくれたのはこの娘だった。守ってあげなきゃ。性格は明るくなったけど、まだまだこの娘は未熟だ。わたしが強くなって、必ず守る。
「ねえ、なっちゃん」
わたしはその娘の名前を呼ぶ。
「んもぉぉ、いっぺんに言ってよぉ」
「いや、その…」
用件は伝え終わった。だけどもう1つだけ言っておきたいことがある。何も知らないのに言ってしまった言葉の訂正、自分の気持ちだ。
なっちゃんと同じ、人への憧れ。こんなわたしに優しくしてくれた人への憧れ。
「なっちゃんの気持ち、なんとなく分かった気がする。それだけ」
「わたしの気持ち?」
「うん…、その、なんというか…こ、こ––––」
「あっ、あっちからシオンの匂いと声がする! シオ〜ン!!」
わたしの言葉を遮り、沙奈に怒られるかも、と言っていたはずのなっちゃんは、どこかに逃げたであろうシオンに向かって廊下を走り去っていく。わたしはまた1人だ。
「あっ、なっちゃん待って!」




