ろく
膝を立てて座り込んでからどのくらいたったのだろう。
夜明けから随分時間が立っているはずなのに、辺りはまだ薄闇に包まれたまま。
もし、この森に足を踏み入れた者がすべて今の私と同じ状況に陥るのなら、確かに隣国からこの森を通って攻めいるのは無理だろう。
攻め入る以前の問題だ。
アベンティーノに入国出来ても、この森からは出られない。
それが分かっているなら派兵するなど愚の骨頂だ。
軍隊も通れない。商人も通れない。
貿易ルートから外れるわけだ。ここに来たところで何の利にもならないのだから。
このまま私はこの森から出ることのないまま、人生を終わらせてしまうのか。
王太子である私がここで死んでしまえば、後継者争いがおきてしまう。それは何としても避けなければならない。
足元にある白骨が自分のそう遠くない将来を暗示しているようで気分が悪い。こうはなるものか。
しかし、どうすればいいのだ…。
私は途方に暮れた。
「アルー?生きてるー?怪我してないー?」
ついに幻聴が聞こえてきた。
「アル、いるんでしょー。返事くらいしなよー?」
デルフィの声に聞こえる。まさかな。
「おっかしいなー?この辺にいるはずなのに。アルってば」
下生えの草を踏み分けるガサリという音と共に、ひょいとデルフィが顔を覗かせた。
「アルいるんじゃない。いるなら早く返事してくれればいいのにー」
信じられない思いで、口をとがらせたデルフィに抱きついた。細い体から伝わる体温に、幻などではなく確かにデルフィが存在すると感じられて、安堵のあまり足から力が抜けた。へにゃりとその場に崩れ落ちてしまった。
「どうしたの?ホントにどっか怪我してたりするの?」
「……いや、怪我はしてない」
私を覗き込んでいたデルフィは「怪我がなくて良かったよ」と言いながら隣に座り込んだ。
「アルってば、ロルシュがこの森に入ったらいけないって言ったのちゃんと受け取らなかったんでしょ。だからこんなことになるんだよ」
その点については反論の余地はない。すべて私が悪い。
「この森の別名聞いたことなかったの?言い伝えとかさ。知ってたらどんな物好きだってこの森に入りやしないよ」
「別名?」
「神隠しの森って言うの。入った人間が二度と出てこないなんてザラだし。たまーに運良く帰ってきても、すごく年取ってたりちょっとおかしくなっちゃってたりさ。兎に角、ろくなことにはならいの」
「………………」
「だから親切に柵まで作って、森に入らないように言ってるのに聞きやしない」
「…………すまん」
「下手すると大怪我したりするからさ。無事で良かったよ」
デルフィに軽く睨まれる。それでも、デルフィがいてくれて心底嬉しい。隣に誰かいることがこんなにも安心できるなんて初めて知った。
心配した、というデルフィの顔を見て急に冷静さが戻ってきた。
………神隠しの森?
二度と出られない。
「出られないのか?!」
「ちょっと!びっくりするじゃない、いきなり大声出さないでよ」
「入ったら出られない?」
「だいじょーぶだよ。私がいるからね」
どういう意味だ?
……と、その前に。
「おい、今何時だ?!」
「お昼前だよ」
「まずい。まずいぞ。午後に来客がある予定だったろう?客が来る前に戻らなきゃいけない」
「あー、誰か来るらしいね」
ちょっと待ってよ、と言いながらデルフィは周囲を伺った。
そして再び私の隣に腰を落ち着ける。
「なんか今は駄目な感じ。もうしばらくここでじっとしてたら出られるよ」
わけがわからない。
「しばらくとはどのくらいだ」
「一時間くらいかな」
「そんなに待てるか!と言いたいところだが、それが一番ここから早く出られる方法なんだろうな?」
「そうだよ」
こうなってしまっては仕方がない。
「待つ間、教えてくれ。この森は一体何なんだ?」
「私が聞いた話だと、聖典に書かれてる"約束の地"とやらがこの森なんだって。で、昔から精霊とかがたくさんいるらしいよ。精霊は自分たちの住みかを荒らされるのが大嫌いだから、この森で好き勝手する人間も嫌い。人間がこの森に入ったらまず精霊に惑わされて出られない。精霊は火気とか武器の金気とかを帯びてると攻撃してくるから、アルが怪我してなくてホントに良かったよ」
普段は護身用に剣を身につけているのだが、デルフィやロルシュと過ごすのに剣を持ち歩きたくなくて不用心だと思いながら、木製のペーパーナイフのような小刀を数本忍ばせていた。
そのおかげで命拾いしたようだ。
「…確かに。普通にこの森に入ったらまず出られない。そういうことか。でもお前は、お前がいれば出られると言ったな?何故だ」
「何故って言われても。わからないけど、でもね、シュトラーセの直系はこの森で迷わないんだよ。ルールを守りさえすれば、何もおきない」
「ルール?」
「当たり前のことだよ。木を傷つけないとか、そんなの。森に敬意を払う、とかさ。…偉そうなこと言ったけど、私にもよくわかんないや。でもなんとなくわかるんだよね、感覚で。兄上たちが言うには、兄弟の中で私が一番この森と相性がいいらしいよ」
「そうなのか?」
「うん。この森は私には優しい。…ねえアル、喉乾いたんじゃない」
「そうだな。水を持ってこなかったし、散々歩き回ったし。川もないし、この辺りの木には果実もなっていない」
「果実があったとして、採ってたら無事じゃすまなかっただろうね。ちょっと待って」
デルフィが立ち上がり、宙に向かって話しかける。
「喉が乾いたから、お水もらえない?」
次の瞬間、風もないのに周りの木がざわざわと揺れたかと思うと手のひらよりも大きい葉が一枚はらはらと落ちてきた。
何だ?
空中で葉を受け止めたデルフィは、両手のひらに窪ませた葉をそっとのせた。
「はい、どうぞ」
「…………?」
差し出された葉を見ると、葉を皿がわりになみなみと水が入っていた。
「冷たくて美味しいよ」
恐る恐る口をつけると清水は疲れた体に染み渡る。
「うまいな」
「でしょ?私にも精霊の姿は見えないけど、でも確かにいるんだよ。ちゃんと正しく接すれば彼らもちゃんと応えてくれる」
精霊か。
今でも信仰の対象であるし聖句や伝承には事欠かないが、人の世から姿を消して久しくもう伝説の中にしか存在しないと思っていた。
我が国内に、精霊が息づく森がまだ存在していたのだな。…セレンディアに精霊王の加護は残っている証になろうか?
デルフィは袋から瓶を取り出すと、さっきまで水が入っていた葉に瓶から蜂蜜を垂らした。
「お水ありがとう。これはお礼だよ、みんなで分けてね」
葉をそっと地面に置くと輪郭が薄れて消えてしまった。狐につままれた気分だ。
「…家族以外でこんなの見せたのはアルが初めてだよ。お腹も減ってるでしょ、これ食べなよ」
手渡されたのは、薄いパンのようなもの。
「ーーーーー固いな」
でも、今まで食べたパンの中で一番うまかった。美味しいパンは王宮で食べられる。それでも、こんなにパンをうまいと思ったことは今までになかった。
「携帯食なんだからしょうがないでしょー、ほら、これつけたらちょっとはマシになるから」
デルフィは先ほどの蜂蜜の残りを差し出し塗りつけてくれた。
素朴な味のパンに蜂蜜の甘さが染みた。
胸にデルフィの優しさもゆっくりと染みていくようだった。
優しさと同時に固さを実感しながら、もそもそとパンもどきを噛みしめる。若くて良かった。年をとってたら大事な歯を何本か失ってたかもしれない。
「この森もさー、"約束の地"なら、もっとステキでもいいと思うんだよねー」
「確かに"約束の地"なのか疑問を抱く風情ではあるな」
「でしょ?!そもそも伝承が曖昧でわけわかんないんだからさ。こう、わかりやすく竜が出るとか一角獣が住んでるとか天馬がいるとかすれば皆崇め奉ると思うんだよ」
「お前はこの森が崇め奉られれば満足なのか?」
「……そう言われれば違うんだ。聖地みたいになって、人が大挙しても困るし。何て言うか、軍とかを派遣されないようにしたいのはもちろんだけど、この領に住む人以外の人たちが今よりちょこっとだけでいい、畏敬の気持ちをこの森に持ってくれればいいなぁって」
「………それがお前の夢か?」
「夢?」
「そう、夢。お前は将来、どうなりたいと思う?」
「父様とディリグル兄上はあんなんだからね…。リューベック兄上とロルシュと私で、この領民と森を守っていけたら、と思ってる」
それで?と続きを促す。
「…なんて言ってみたけど、もちろん本心だし嘘じゃないけど、私はね、風になりたいなぁ!」
風。
夢が風って。
何と言えばいいのやら。
こいつの頭の中身をみてみたい。
「風ってどこにでも行けるでしょ?この近辺から離れたことがないから、あちこちに行ってみたい。世界には私が見たこともないようなものがたくさんあるんでしょう?たくさん見てみたいなぁ。ふわふわ流れていくのも気持ち良さそうだしー」
デルフィの瞳はキラキラと輝いている。…子供か。
間違いなく子供だな。
「そして、あちこちでたくさん勉強するんだ。医学とか、商売とか何でもいいけど、一生懸命勉強してそしてまたここに戻ってくる。きっとここに暮らす皆の生活を良くするための力になる」
「そうか…」
一緒に来るか?
そう口から出かかった。
私の側付きになれば、公務で各地に行ける。望めば勉強だって心ゆくまで出来る。一流の教師たちにもつけてやることができるだろう。
本人のやる気や能力次第だが、こうみえてデルフィは意外となんでもそつなくこなせるタイプなのだ。どこにいっても馴染めそうでもある。
私の側で出世していけば、いずれ各方面に影響力を持つことができ、結果的にこの地域に益をもたらすことも出来るようになる……かもしれない。
そんな理由をくっつけてみたけれど、とどのつまり、私はデルフィに側にいてもらいたいのだろう。
共に学び、切磋琢磨し、お互いを高めあえる、そんな関係になりたい。
陰謀が渦巻く王宮で、私はいつまで私のままでいられるだろうか。まるで汚れを知らないデルフィが欲にまみれてしまうかもしれない。でもこいつは、いつもどんな場所でも己の本質を変えずに生きていく。そんな確信めいた直感を信じて、私はここでデルフィとの関係を終わらせたくはないと強く思った。
「アルはもう行ってしまうんでしょう?」
「あ、あぁ…。今日の客と一緒に発つことになるだろうな」
「そっか。寂しくなるね」
「…そうだな」
「アルと過ごせて、すっごく楽しかった!私の知らない話とかたくさん聞けたし、いろんな物の見方とか教えてもらったし。なんかアルがすっかりここに馴染んじゃってたから、ずっとここにいてくれるような気持ちになってた」
「デルフィ……」
「アルの話を聞いて、私は今のままじゃいけないって思えたんだ。この狭い与えられた世界で満足するんじゃなくて、自分の足で未知の世界まで歩いて行きたい。そして新しい扉を開くんだ!」
デルフィのキラキラが止まらない。
気のせいかと思っていたが気のせいなどではなく、デルフィの声にあわせて先程まで陰鬱ですらあった森は陽光を集めて乱反射している。木漏れ日が七色の光を放ってダイヤモンドダストのように煌めいた。
精霊の愛し子。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
デルフィの感情に呼応するかのように、周りの空間がざわめいている。今や森はデルフィの瞳と同じ生命を湛える新緑に輝き、風は心地よい息吹を運んでくる。
「……もうお別れだけど、きっとまた会えるってそう思えるから。だからさよならは言わないよ。アルもそう思うでしょう?私たちがお互いを必要とするのなら、風が想いを伝えてくれるから。それに世界中のどこにいたって空は繋がってる。境界なんてない。だから、もしアルに何か困ったことがあれば私を呼んで」
駆けつけるから。
側にいるよ。
そう言って晴れやかに笑うデルフィの言葉は確かに私を勇気づけた。
たった一人でいい。
迷いなく信じられる相手がいるというだけで、私の心の空ろがみるみるうちに満たされていく。なんという充足感。
私はこの先、きっとデルフィのこの言葉と笑顔を忘れることはないだろう。
ふわふわとした気持ちのままで、デルフィに導かれるまま森を抜けシュトラーセ邸に戻って。
身支度を整え、父王と会って。
何故か同席していたシュトラーセ伯に頭を下げた。
「息子さんを私に下さい!!」
父王とシュトラーセ伯が目を丸くしている。
………何か間違えたか?
お読みいただきましてありがとうございました。