陛下の願望が現実になりました? 〈後編〉
顔のニヤケが隠せない。
表情筋を引き締めようとするが、すぐに緩んでしまう。
仮にも国王たる者、こんなやに下がった顔をしていては、周囲に示しがつかない。
それはわかっている。
わかってはいるのだが。
「あーん」
彼女が剥いた林檎を一切れ差し出してきた。
素直に口を開けると、彼女はその林檎を私の口に運ぶ。
しばし室内には、しょりしょりと林檎を咀嚼する音だけが響いた。
味?
そんなものわかるわけがないだろうが。
横にしどけなく座るデルフィは私が林檎を食べる様子をニコニコと見ている。
彼女が。
私を。
微笑みながら。
寝台で身を起こした彼女から抱擁を求められ、理性の限界を試されそうになった私だったが、幸いにも限界が訪れる前に彼女が「果物が食べたい」と訴えたため、ひとまず彼女から離れた。
惜しすぎて自分から抱擁を解くなんてできるわけがない。
寝台に座った彼女に促され、寝台の縁に座る。
彼女は果物を侍女から受けとると、手ずから皮を剥いて、まず一切れ自分で食べた。
そして次の一切れを指で摘まむと「あーん」と差し出してきたのだ。
まさかデルフィティアが自分からこんなことをしてくるなんて、思いもよらなかった。
これではまるで、そこらへんにいくらでもいる普通のこ、こ、恋人のようではないか?!
自分で言っておいて、ちょっと感激してしまった。
ちょっと待て。
余韻を楽しみたい。
「ねぇ今度はレヒトの番だよ?」
彼女は葡萄の乗った皿をずいと突きだしてきた。
意図が掴めず困惑していると、「レヒトが私に食べさせて」ときたもんだ。
彼女はすでに口を開けて待っている。
葡萄を一粒摘まみ、彼女の口元に運ぶ。
指先に彼女の唇が触れて、そのぷるんとした柔らかな弾力を伝えてくる。
その瑞々しい口唇を、欲望に任せて蹂躙することができたのなら。
そんなことを考えていたら、彼女が不意に私の腕を掴んだ。
そのまま、ぐいと引いて、私の指先をちらりと舐めた。
指についていた果汁を舐め取ったと気づいたのは、数拍おいてから。
思考も身体も停止していた。
彼女の口唇からのぞく淡桃色の小さな舌先が、ちろりちろりと濡れた温かなビロードのような感触を私の人差し指に伝えてくる。
最後に、ちゅ、と軽い音をたてて離れる彼女の口唇を名残惜しげに見てしまったのは仕方あるまい。
視線を感じたのか、デルフィティアが私を見た。
ぱちり、と視線が合う。
じっと見つめられて面映ゆくなってしまった。
私が彼女をついつい見てしまうのはよくあることなのだが、彼女が関心を持ってこんなにも私を見るのはそうないことなので。
社交の場でご令嬢たちは私の身分や容姿に興味津々のようで、苛立つほどに愁波を送ってくる。その視線といえば、まるで草原で肉食獣が獲物を狙うそれである。
それに比べてデルフィといえば見事に無関心。
元々権力に興味が無さそうなのは知ってはいたが、私の容姿にも無関心。
美形と名高い両親から、余すことなく美形成分を引き継いだ私だったが、残念なことにデルフィの気は引けなかった。
他の誰でもない、デルフィの気こそ引きたかったのに。
彼女の好みの容姿は触れれば切れそうな冷利な美貌だったようだ。
「レヒト」
握ったままだった手をぐっと引かれて、顔と顔が近づく。
その距離は、お互いの吐息を感じとれるほど。
「どうしたの?顔が赤いよ」
そなたに見られていると思っただけで赤面した、とは言えない。
そう思えば思うほど、ますます顔が熱くなってくるのがわかる。
この距離がいかんのだ。
鼻と鼻が紙一重で触れない至近距離で、新緑と濃紺の視線が絡んだ。ふ、と、彼女の視線が伏せられたかと思うと、一気に距離がつまった。
次の瞬間、コツンと軽くぶつかる二人の額。
ドキリと心臓が強く跳ねた。
そのまま心臓はばくばくといつもの倍の速さで脈うっている。
かぁ、とさらに顔に血が上っていくのが自分でもわかるほどだ。
「………熱い」
確かに熱い。
これだけ赤面しているのだから当然か。
脈も異様に速い。
頭に血が上りすぎてくらくらしてきた。
彼女に触れたことがないわけではない。
でもいつも、軽い抱擁や、軽い接吻だけ。
その程度なら彼女も身を固くしつつ受け入れてくれている。
それ以上の事に及んでも、彼女は受け入れてくれるかどうか、正直不安だ。
デルフィに心から受け入れてもらえるまで手は出さないと、彼女の父親からも誓わされてしまっているのだ。
それが今、彼女の方から近づいてきている。
これはセーフだろう。
「レヒト、具合わるいの?大丈夫??」
ある意味、大丈夫ではない。
まだ彼女の額と触れあったまま。
互いの温もりを伝えあって。
私の熱が彼女に伝わるように、私の気持ちもそのまま彼女に伝わればいい。
彼女の腕に引かれるまま、横たわった。
心配そうな顔をした彼女が上から覗きこんでくる。
あの森の色をそのまま写し取ったかのような緑が、私の夜空の紺と交差しあう。
「顔赤いし、おでこ熱いよ?」
「大丈夫ではない……と言ったら?」
「どうしたら具合良くなる?私、何でもするから言って」
デルフィに不安そうな顔をさせるつもりはなかったのだが。
でも彼女が偽りなく心配してくれるのが嬉しくて。
今、彼女の心を占めているのは、間違いなく私だけ。
彼女の感情を動かす存在が私だけならいいのに。彼女の目に映るのは私だけでいいのに。
「何でもしてくれるのか?」
「私がしてあげられることなら何でも」
私に、そなたから、キスして欲しい。
その言葉はなんとか飲み込んだ。
きっと彼女にはハードルが高すぎるだろうから。
「イヤッ」と拒否られた時のダメージも半端ないだろうし。主に私の精神面で。
だから代わりに別の言葉を口に出した。
「…これでいいの?」
彼女は少し落ち着かなさそうに、もじもじとしている。
当初の希望とは違うが、これはこれで満足だ。
華奢にみえる彼女も年頃の少女らしい柔らかい肢体をしていて、その柔らかさにいつまでも溺れていたい欲望に囚われそうになる。
私の頭を預けているデルフィの太ももは、あくまでも私をしなやかに受け止めて、それはさながら彼女自身のようで。
さわ、と私の髪をすくその指先の感触に、背筋から甘い痺れが広がる。それは緩やかに私を浸食して私が私自身ではなくなっていく錯覚を覚える。
彼女の太ももから伝わる熱が、まだ私の熱を冷ましてくれない。
このまま時が永久に止まってしまえばいい。
そんな埒もないことを夢想する。
静寂を破ったのは彼女だった。
髪をすく手が止まったので、残念になり、閉じていた目をうっすらと開けた。
「……ねぇレヒト。私は、ずっと、ここにいるから」
彼女の言葉に息を飲んだ。
「二人でいれば、楽しいことは二倍になる。悲しいことは半分こにできる。レヒトの立場もあるから、全部を私に話して欲しいとは言わない」
真摯な彼女の瞳の煌めきは、さながら緑柱石のよう。
どんな宝石よりも、この輝きに勝るものはない。
私の心を捕らえて離さないのはきっと彼女だけだ。
「レヒトの重荷は私が半分持つから。そのために私はここにいるんだよ。ずっと隣で貴方を支えるから」
強い決意を込めて、そう言い切ってくれた彼女の気持ちが嬉しい。
私を支えてくれるという彼女の支えに私もなりたい。
こんな風に互いを想い、慈しんで、共に優しい時間を重ねて過ごしていけるのなら。
柔らかく微笑んで私を見つめる彼女の瞳には、彼女と同じように柔らかく微笑む私が映っている。
その彼女の瞳がゆっりと伏せられ、しなやかな指先が私の頬を包む。
彼女の口唇が私の口唇に降ってくるのを、心臓の鼓動の高鳴りと共に待つ。
口に出せなかった願いが図らずも叶いそうな予感に高揚する。
ふわふわとした髪が紗幕のように下りてきて、下界と私たちを遮断する。
もう何の音も聞こえない静寂に包まれる。
今、私の世界は、私と彼女の二人だけ。
お読みいただきまして、ありがとうございました。