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第九話

「うう……。気色悪かったです。拷問でした。トラウマものです。耳のすぐ脇をうどんの麺がじゅるじゅると吸い込まれていって……。思い出すだけで首筋が……、いえもう全身が……、筆舌に尽くしがたい、例えを思いつかないくらいの嫌悪感でいっぱいでした……。そして私自身はもういっぱいっぱいです……」


 食事を終えた後も、ぐったりした彼女は次の教室に向かいながら延々独り言を続けていた。


「がっちり全身でフォールドされて振り返ることすらできないまま結局最後まで離してもらえませんでした……。なのにどれだけ私が嫌がろうが、その嫌がっている態度を『遠慮』だと思い込んで離そうとしなかった変質者が私の隣を歩いています。何食わぬ顔で歩いています。そして『おや、誰のことだろう』という純粋に不思議そうな顔でこっちを見ていやがります」


 ミィが毛を逆立てて全身で威嚇している時のような警戒の仕方だった。

 確かこういう時のミィにうっかり手を出すと、鋭い爪と牙でかなり痛い目にあわされることがあったのだ。ミィのあの反応は、「この痴漢この痴漢この痴漢……。半径三メートル以内に近寄らないでください」と呟いているこの彼女にも適用されるのだろうか? 

 だけど僕は、彼女との約束通りに、彼女の真横を歩かねばならない。だから近寄るなと言う彼女の言いは聞き入れられない。


「……でも『善意からの行動』、なんですよね」


 にわかに彼女の声のトーンが変わったように感じられ、僕は「うん?」と聞き返した。


「『単に私にセクハラしたいだけなんじゃないのかこの男』、と思わないでもないんですが、それでもおそらく、お兄さんの根底にあるのは善意なんですよね。それが不可解です。そして不満です。お兄さんに悪気はないことだけは伝わってくるので、怒るに怒れず、ストレスが余計に溜まっていってるんですよ、私は?」


 眉間に皺を寄せ、彼女は苛立ちと困惑を滲ませたような表情で僕を見上げていた。


「先ほどの一件だけならまだ、『落ち込んでいるであろう私の気を紛らわせようと、わざと道化を演じてみたんだ』と解釈できなくはないんです。でも、お兄さんと出会ってからこれまでの全てを思い返すと――、影の無い私相手に、出会いがしらにプロポーズされたあの時の事からつい先ほどまでの一連の流れを思い出すと――、それだけでは、納得できません」


 機械的に歩を進めながら、彼女の表情の変化を、僕は子細に観察する。

 耳に聞こえるもの、目に見えるもの、彼女の発している情報をひとかけらも取りこぼすまいと全身全霊を傾ける。


「私にはわかりません。私にはお兄さんがわかりません。私は私自身の事を知らずにいますが、お兄さんの事は理解できずにいます」

「……」

「だってお兄さんの反応、普通じゃないです。冗談で済ませられる範疇にはないと思います。無視できるレベルの遥か上です。それは恋のせいですか?」


 彼女は、舐めていた飴玉がいつの間にか梅干しに変わっていたような表情になり、


「『恋』って……、我ながら、『恋』って……。他に言いようはないんでしょうかね」


 そう呟いた後、気を取り直すように軽く首を振ってから、もう一度僕を見上げた。


「お兄さんは、私が好きなんですよね? そしてそれは、恋愛感情としての『好き』なんですよね?」


 彼女の問いに対し、彼女を見つめながら頷くこと以外、僕に何ができただろう。


「……。私にはいまいち恋愛感情というものがわからないのですが、人が人を好きになるって、そこまで大変なことなのですか? 恋は人を狂わせると言いますが、それは人の判断基準を狂わせる、という意味なのでしょうか? それがお兄さんの仰るよう『一目惚れ』ともなると、その人格を破綻させるほどのエネルギーを持っているのでしょうか? もっと普通の恋愛の場合――つまり相手のことを段々と好きになっていった場合はゆっくり変になっていくけれど、一目惚れの場合は一瞬でガーッとマックスまで変になってしまうと、そういうことなのでしょうか? それとも――」

「……」

「それとも私のせい、なんでしょうか?」


 何を問われているかよくわからず、僕はただ黙って彼女を見つめ返した。


「お兄さんが変なのは、私がお兄さんに取り憑いているせいなんでしょうか?」


 戸惑いを深める僕に、彼女は畳みかけるように言った。


「私が幽霊だと仮定しての話なのですが――、私、たぶんですけどお兄さんに取り憑いちゃってます。お兄さんにしか私の姿が見えないのが、その証拠です。そして、そう考えると、いくらか腑に落ちるんです。お兄さんが私に『一目惚れ』してしまったのはお兄さんの意思とは無関係で、取り憑いた私に強制されたものなのだと、そう考えればしっくりくるんです。そうです。穴の中にいた時の『助けてほしい』という私の思いがあまりに強すぎて、お兄さんはそれに、捕まってしまったのです。そして穴の底から助け出された後、私は、『一人で放り出されたらどうしよう。見放されたらどうしよう』という不安から、無意識のうちに、今もなお、お兄さんの心を束縛し続けているんです。きっと、そうです。取り憑かれたお兄さんは、幽霊である私に心を操られた結果、私にべた惚れして、私のことはなんでもかんでも受け入れてしまうようになったのです。心への過干渉を受けて、私に関して、正常な判断力をなくされてしまったんです。だから、お兄さんが変なのは、私が取り憑いているせいなんです」

「……」


 不安、なのだろうか。今この瞬間も、僕に見放される恐怖に怯えているのだろうか。


 確かに『一目惚れ』などという不確かなものでは、その状態がこの先も続いていく保証は得られない。

 彼女の存在を僕が疎ましく感じる日が来るかもしれない。そしてその日が今日でないとも限らない。僕に微笑みかけながら踏み出したその先に、ぽっかりと深い穴が空いているかもしれないのだ。

 僕がどれだけ彼女への思いを言い募ろうと、その不安を完全に払拭することはできないだろう。ならば、まだしも『強制された感情である』と、そう納得した方が彼女は心休まるのだろうか。もし彼女への恋情が強制された結果ならば、彼女が僕を必要としているかぎり、僕が彼女から離れていくことはないのだから。


「……」


 彼女は僕の視線から逃れるように下を見た。そしてその地面に向けられた視線は、地を這う何かを探しているかのように小刻みに動かされていた。


「――だって、そうでも考えなければ、こんな、見る影もない私が、お兄さんにそこまで好かれる理由がわかりません」


 自分の足の爪先に、ちりちりと熱を感じる。彼女に見られているだろうと意識するだけで、サーチライトを浴びせられているようにその部分が熱くなる。


「影が薄い程度じゃなく、影の無い、お世辞にも真っ当な人間だとは言えないこの私が、そんな、黒々とした影を持つお兄さんから、好意をもたれ続ける理由がわかりません」


 息が上がっているように切れ切れに言う彼女に、僕は不意に、彼女が僕を『お兄さん』と呼ぶ理由を思い出した。

 彼女が僕を名前で呼ばない理由。


『お兄さんには名前があるのに私にはないなんてずるい』


 僕にはあって彼女にはないもの。それはたぶんあまりに多すぎる。その一々が、彼女の劣等感を刺激し、自分を卑下させ、――そして渇望させているのだろうか。


 爪先がますます熱を帯びてくる。爪先に蟠る僕の影。彼女の視線が、焼けつくように熱い。


「それに、私だって、自分の性格の悪さくらい自覚しています。とげとげしていて、変に理屈っぽくて、好きになれる要素なんて皆無です。もし私が人間であったとしても、私は『いい人』からは程遠いです。対するに」


 彼女は顎を持ち上げるようにして僕を見つめた。


「対するにお兄さんは、多少アレなところはありますが、基本的に『いい人』だと思うんです」


 真正面から、全身に強い光を浴びせかけられたようだった。


「そりゃ、私に対して匙加減を間違えた優しさを発揮されているのは、私のせいなのかもしれません。先ほど申し上げたように私に取り憑かれて正常な判断が下せなくなっているせいなのかもしれません。でも基本のところは変わってないと思うんです。お兄さんのぽのぽの加減は、『温かい家庭の中で大切に育てられてきたんだろうなぁ』とか感じさせます」


 そこで彼女は言葉を区切り、廊下を進む足を止め、ひときわ強く僕を見つめた。


「だから私は、お兄さんが妬ましい。お兄さんの心を操ってしまったかもしれないことへの罪悪感よりも先に、何よりも先に、――そう感じてしまうんです」


 光が眩しくて、目を細める。彼女の表情が、よく見えなくなる。


 彼女にあわせて急に立ち止まった僕を、廊下を歩く男子学生が訝しそうに見た。

 なんとはなし、僕は彼の顔を見つめ返した。知らない顔だ。いや、どこかで見た顔なのかもしれない。

 この先にある教室の数は限られていて、次の講義はその内の一室で行われるのだから。

 

 視線のやり場を決めかねて彼を見つめ続ける僕から、彼はついと視線を外し、足を速めて離れて行った。彼の姿が吸い込まれて行った先を見届けて納得する。ああ、やっぱり同じ講義を受けていたのか。


 視線をゆっくりと戻すと、先ほどと変わらぬ姿勢で彼女が僕を見つめていた。自分の下顎が、なぜかぴくりと痙攣する。僕は、たとえ一時でも彼女から視線を逸らしていた自分を恥じた。


「お知り合いですか?」


 再び歩き出しつつ、彼女が問うた。


 「……?」と瞳で問い返しかけ、さっきの彼の事だと察した。それから、首を振ろうとして、横に振るべきか縦に振るべきかで悩んだ。結論として、斜めに振った。


「え、なんですか? その珍妙なジェスチャーは」


 やはりわかりにくかったか。


「……。そう言えばですが、私は先ほどからお兄さんの声を全く聞いておりません。私が一方的に喋りすぎていて口を挟めませんでしたか? 通話中を装ってさえくださるなら、かまわないんですよ? それとももしかして、……、『そんな馬鹿な』とも思うのですが、あり得そうなので一応うかがってみます。お兄さんが口を開かないのは、食堂で私が『もう喋るな』と叫んだ、あれが原因だったりしますか?」

「……」


 今度は首を縦に振った。


「馬鹿じゃなかろうかこの人!?」


 目を剥いた彼女が呆然と僕を見上げる。


「失礼本音が出ました。――それはともかく、『もう喋るな』というあれは、お兄さんが後ろから私を羽交い絞めにして、喋るたびに私の首筋に息がかかる近距離で麺をすすってらしたからでしょう? 今はもう状況違うでしょう? 変なところで我を通すくせに、なんでそんなこと律儀に守り通してらっしゃるんですか」

「……ごめんね?」


 彼女は金魚のように口をパクパクさせた後、


「……いや……うん、……切り替えましょう」


 右手で僕を遮るようにして、左手で眉間を押さえながら言った。


「……参考までに質問ですが、お兄さんには彼女がいた経験はおありですか?」

「君以外の彼女はあり得ない」

「いえ、そういうのではなく……」

「これまでもこの先も君だけだ」

「未来については可能性だけなら無限にありますから今の段階で限定しちゃわないでくださいね。うん、ともかく、付き合った経験はないんですね。じゃあ、これまでの彼女さんに対してどう接していらしたのかは聞きようがないですね。お兄さんがもともと惚れた相手にはとことん尽くすタイプだったのかどうかとか伺いたかったのですが」


 残念ながら、経験のない事は答えられない。無理に語ろうとすれば、それはただの妄想か嘘になってしまう。彼女に対して嘘をつくのは嫌だ。


「ん……じゃあ、もう一つ」


 彼女はそう言った後ややためらって、


「付き合うとまではいかなくても、どなたかを好きになった経験はおありですか? 例えばその――、すごく年下の女の子に惹かれた経験などは、おありですか?」


 それでもちゃんと、疑問を口にしてくれた。


 僕はただ首を横に振る。

 判じかねているように、彼女は上目遣いに僕の動作をじっと見つめていた。


「では、過去の事例と比較しようがないですね」


 しばらく経ってから、小さなため息を漏らしつつ彼女はそう言った。

 比較しようがない――僕の行動の異常さが彼女が取り憑いたせいなのかどうかを、確認しようがない。


 一度、二度――、憂いを宿した睫毛が瞬かれる。その動きが、映画のカチンコを連想させた。彼女の瞬きと共に、僕の頭の中の映像が切り替わる。


 二人の女性の顔がぼんやりと映し出される。姉と母。姉の口が開き、複雑な動きを見せる。何かを喋っている。でもこれは無声映画なのだろう、僕には何も聞こえない。伝わらないことに苛立っているように、ますます姉の口は大きく開かれる。その顔の後ろから、もう一つの顔が伏せ加減の目でこちらを窺う。そして結ばれたままだった口が、小さく開かれる。


 母の言葉が届く前に、僕は語り部にシフトをチェンジすることにした。

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