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第八話

「わー、大学の学食って本当に低料金なんですね」


 学食の壁に掲げられたメニューを眺めながら感嘆するように彼女が言った。 


「うん。安いのは安いよ」

「懐に優しいのが何よりですからねぇ」

「本当に学食でよかった? この近くでも学外でならもっと美味しい店があるけど」


 味にはあまり期待ができないここで彼女に食事をとらせることには気乗りしなかった。


「いえいえ、学食がいいのです。安かろう美味かろうを要求しては罰が当ってしまいます。それに『味に期待はできない』というフレーズはいかにも学食らしくて私のイメージ通りです。私はかえってそのまずさ加減がいかほどのものか楽しみにしているくらいなのですよ。――あ、学食を作ってくださる方々に対して大変失礼な発言を重ねてしまいました。一部聞かなかったことにしてください」

「そう? ……じゃあ、ここで食べようか。君は何にする?」

「うーむ。迷いますね」


 顎に手を添え、彼女は真剣な面持ちでメニューを見渡した。


「では、きつねうどんにいたします。すみません、ごちそうになります」


 僕に向かってぺこりと一礼し、


「お兄さんは何になさいますか?」

「君と同じものを食べたい」

「……『僕も同じものでいい』と言い直していただけませんか? リピートアフターミーです」

「僕も同じものでいい」


 言葉というものに対して、彼女はどうもこだわりがあるらしい。 


「じゃ、食券を買いに行こう」

「ああ、そうでしたそうでした。食券なんですよね」


 彼女は嬉しそうにそう言ってから、軽やかな足取りで僕の後をついて来た。そして券売機の前に並んだ学生たちを物珍しそうに見、感心したように「大学なんですねぇ」と言った。そしてその後、しみじみと呟くように、


「学食の食券に対して一種のロマンと申しましょうか、ある種のノスタルジーと申しましょうか、漠然とした憧れと申しましょうか、とにかく不思議な感慨を抱いている今の私なのです」


 そして自身に確認するようにもう一度頷いていた。


 どうやら彼女は大学の雰囲気にあてられて、少し浮かれているらしい。とすると、この一連の言動も、『楽しい振り』ではなく本心からのものなのだと受け止めていいのだろうか。トイレでのことを引きずらないよう、無理に明るく振る舞っているのかと思っていたのだが。


「『食堂のおばちゃん』です――。様式美とはこのようなことをさすのでしょうか」


 僕が食券を渡した職員――割烹着を着た女性を熱く見つめる彼女に対し、僕は否とも是とも答えられなかった。


 *


 食券と引き換えにきつねうどんを二杯受け取り、一枚のお盆の上に両方載せた。

 右手はまだバンドで固定されたままなので、左手だけでなんとかお盆を持とうとする。

 すると、右に立っていた彼女が左手を伸ばし、一緒にお盆を支えてくれた。そして彼女は傍に置かれていた箸立てから、右手で箸を二組取って、お盆の上に置いてくれた。


 もし彼女が幻なのなら、この一連の動作はどうやって行われたのだろう。前後関係が逆になっている――つまり僕自身がお盆を持つ前にあらかじめ箸を置いていたのだろうか。

 

 ――いや、やめよう。この疑問にははてがない。そんなことよりも、彼女と共にいられるこの一瞬一瞬を味わうことを優先しよう。



「「いただきます」」


 二人で手を合わせた後、それぞれの手に持った箸を一枚のお盆の上に伸ばす。お盆は不自然でない程度に左に寄せて僕の前に置いていた。左隣には、僕に寄り添うように彼女が座っていた。そしてしばらく無言で食べた後、


「なんでしたら、食事介助をいたしましょうか?」


 見かねた彼女がそう申し出てくれた。右利きの僕には左手での麺類は少々難易度が高かったようだ。


「お箸、お借りしてもよろしいですか? もしこの行為がお嫌でしたら、首を横に振ってくださいね」


 食事時はさすがにカモフラージュとしての携帯を使用できないので、僕の返事は首を小さく横に振るか縦に振るかでなされていた。そして僕はありがたくその提案に乗ることにした。


「わかりました。それでは失礼しますね」


 彼女は僕の口に手ずからうどんを運んでくれた。

 幾度となく食べて来たメニューなのに、そのきつねうどんは、人生で初めて食べる味だった。


「こんなに美味しいものは食べたことがない」


 この七味唐辛子が実は魔法の香辛料だったのだと言われても、僕は疑いを抱かないだろう。


「それはよかったですね……。ですが、できたら心の声に留めておいていただけませんか?」


 ああ、そうだった。『携帯がないのだから話さない』とつい先ほども確認していたはずなのに。感嘆が思わず口をついて出てしまっていた。どうやら僕は完全に舞い上がっているらしい。落ち着かなければ。想像の中で自分の足首に縄で鉄アレイをくくりつけてみる。


「一口ごとに感激しているとのびてしまいますよ? それに、そろそろ混んできましたし。少し急がれませんと」


 確かに。彼女と、彼女が食べさせてくれるうどんとにしか注意がいっていなかったが、見渡せばいつの間にか座席の占有率が四割を超えていた。僕が自分で食べていた方が早く済んでいたかもしれない。これではせっかく食事介助をしてもらった意味がない。彼女の好意を台無しにしてしまったことになる。


「この分だと食べてるうちに席が埋まっちゃいそうですね。失礼して私も自分の食事に戻ります」


 あ、しまった。僕に食べさせていたため、かんじんの彼女はまだほとんど自分の分のうどんを食べていなかったのだ。

 目先の幸福に注意を奪われ、僕はなんて失態を。

 うどんがのびてしまうということだけではない、早めにここに来た一番の理由は、彼女の席を確保することだったというのに。


 しているうちにも、席が埋まっていく。彼女は心細そうにちらちらと周囲に目を遣った後、少し考える素振りをみせてから、腰をずらし、椅子の前方に座りなおした。そして、


「すみませんが、ここに何か荷物を置いていただけますか?」


 後ろの空いたスペースを指先でとんとんと叩きながら言った。


「『友だちのために席を確保しています』風に荷物を置いていただければ、少なくともそれを払いのけてまで座ろうとなさる剛の方はいらっしゃらないでしょう」


 僕は頷き、足元に置いていたスポーツバッグの中から筆箱を取り出し、言われた通りにしようとした。


「――でもその来るはずの『友だち』が最後まで現われなかったら顰蹙(ひんしゅく)ものですね。席を確保できずお盆を持ったままうろうろしていらっしゃる方から、冷たい眼差しを浴びてしまうかもです。だからできるだけ早く食べてしまいますね」


 背をこころもち丸めて、丼に顔を近づけ箸を急かす彼女の姿。――ドコッと、胸を木槌で打たれたような痛みを感じた。


 これだけたくさんの椅子があっても、彼女のための席はない。誰にでも均等に与えられているはずの権利――自分が座っている席に食事の間座り続ける――そんな、僕にすら当たり前に与えられている権利が、彼女にはない。

 もし彼女が僕の幻なのなら――、僕が彼女に、置き所のないその身を強いて置かせているのだ。


「お兄さん?」


 うどんの載ったお盆を彼女の前に移動させた後、僕はおもむろに立ち上がり、そして筆箱を置くべきスペースに自分の体をねじ込ませた。つまり、彼女の後ろ――彼女の背中と椅子の背もたれの間に、強引に身を割り込ませたのだ。


「なっ、何をなさってるんですかっ?」


 驚いて立ち上がろうとした彼女の肩を、僕の左手で椅子に押しつけるように押さえる。

 僕は股を大きく開いて椅子に深く腰掛けていた。椅子に浅く腰かけていた彼女は、その僕の股の間に挟み込まれるようにして座っていることになる。


「こうすれば安心してゆっくり食事ができる」


 他の人には僕一人がこの席に座っているように見えるだろう。これなら人の目を気にすることなく安心してゆっくり食事ができる。


「ひあっ、首の後ろで喋らないでくださいっっ!? 首筋に息がっ、気しょっ、気色、悪っっ」

「僕が座席の荷物代わりになってみた」


 筆箱の代わりに、僕自身が席を確保するための荷物となってみた。


「確かに大変なお荷物ですねっ!?」


 彼女の体に遮られて少しうどんが見えにくかったが、左端に寄せれば問題なく食べられるだろう。うん、これでいい。


 彼女の後ろから手を回してうどんに箸を伸ばす。ん、もう少し顔を近づけなければ食べにくいか。ほとんど彼女の肩に顎を載せるようにして麺をすする。


「ひいっ、嫌っ、ぞわぞわするっ。後ろ見えないからよけいにっ。嫌っ、冗談でなくほんと嫌なんですっ。ここから出してください離してくださいっ。離せえええっ」

「遠慮しないで」

「もう喋るなあああっ」


 頷き、口を閉ざす。彼女の元気が出たようなので、ほっとした。 

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