第七話
次の日、僕たちは簡単な買い物を済ませてから、連れだって大学に行った。
時刻は午前十一時十五分。学食を食べてから講義を受ける予定だ。昼時には少し早いが、学食が混みあう時間帯を避けてこの時間を選んだのだ。
学食のある棟の廊下で壁に寄りかかり、僕は一人、彼女が帰ってくるのを待っていた。
何をするでもなく、ぼうっと人の流れを見ていた。それから、なんとなく視線を下ろし、バンドで固定された人差し指を見つめた。見つめているうち、霞のような疑問が指の先から立ちのぼってくるのを感じた。
『この指の怪我は本当にマンホールの蓋を開けようとしたためにできたものなのか? たとえば「自転車で転んで怪我をした」、その程度のことで説明がつくようなものなのではないか』
僕はこれまでにも何度か、自分の中で同じような問いを繰り返してきた。かげろうのように薄く希薄な想像が、死骸となって街灯の下に積み重なっていく。
病院で彼女にぶつかった男の反応にしてもそうだ。男は、彼女ではなくこの僕にぶつかったと思い込んでいた。そう、『思い込み』――だがはたして、彼のそれは本当に思い込みだったのか?
彼がぶつかった相手は、実際のところ彼女ではなくこの僕だったのではないか?
あの時の僕は、自分の肩に男の肩がぶつかった衝撃など感じなかった。だが、『当たったという感覚は、僕から切り離されて彼女のものとして処理されていたのだ』と――その可能性は否定できない。
彼女という存在が僕の頭が創り出した幻であると、否定できない。
彼女が記憶喪失である理由も、それならば容易に説明がつく。彼女は僕と出会った瞬間に生まれたのだから、それ以前の過去など初めから存在しない。ならば彼女が自分の身元捜しに消極的なのも納得がいく。無いものは探せないのだから。
もし仮にこの先彼女の記憶が蘇るようなことがあったならば、それは僕が考え後から追加した彼女の設定ということになる。――だがおそらく彼女が思い出すことはないだろう。いたずらに人一人分の過去を設定したならば、いつか破綻をきたすだろうから。
破綻し、辻褄が合わなくなり、整合性を保てなくなり、彼女が彼女自身の存在に納得がいかなくなってしまう。その時彼女は――どうなるのだろう。
指先から視線を外し、僕は人の波の間に彼女の姿を探した。だが、目にする人たちの、その誰の下にも影があった。
見ているうち、濃縮された影が僕の気道を塞いでくるように感じられた。この息苦しさは、この焦燥は、影のない彼女を視界に宿すまで続くのだろうか。
彼女が幻なのなら、僕が見ている間しか彼女は存在しない。僕が見ていない間、彼女はどこにも存在しない。僕が彼女を認識していなければ、彼女は消失する。
彼女がいない現実ならいらない。僕は僕だけでは存在し得ない。
「お待たせしましたー。遅くなってすみません」
「お帰り」
「あのー、お兄さん。私がお手洗いに行くたびに千年待ち続けた松のようになってしまうのはなんとかなりませんか?」
僕は彼女が女子便所から出てくるのをひたすら待ち続けていたのだ。
「お願いですからあまり凝視しないでください、お願いですから……」
彼女は身を引きながら両手を顔の前にかざして僕の視線を遮った。
「うん、ごめんね」
「あまり誠意が感じられない謝罪ですが……。まぁ、いいことにしときましょう。それでは、行きましょうか」
彼女は廊下の端に寄り、歩き出した。
「うん」
僕はその彼女の真横を歩く。
歩を進めながら考える。
彼女が僕の幻なのなら、さきほど考えていたように、女子便所に入っている間は彼女は存在していないことになる。だが、彼女自身は自分がトイレに行って来たつもりになっている。
僕は知らず彼女だけが知っている空白の時間。
捏造された過去ではあるが、彼女にとってはそれが真実であり、実際に体験したことになるのだ。
ならば――、『自分では扉を開けられない』という制約を課されている彼女は、彼女の記憶の中で、はたしてどのようにして用を足したのだろうか。
『男子便所で済ませる?』という僕の提案は『すみませんが遠慮させてください』と丁重に断られたのだが、では女子便所で彼女はどうやって扉を開けたのだろう。
空気中の埃を見据えるように目を凝らし、思い出す。
確か、僕が彼女の帰りを待っている間にも何人かの女生徒がトイレの方に向かっていた。出入り口の扉は僕の位置からは直接は見えなかったが、おそらく彼女はそれらの女生徒のすぐ後ろに立ち、タイミングを合わせて滑り込んだのだろう。あの、下着を穿き替えた時――僕から借りたトランクスから新しく買ってきた女性用下着に穿き替えた時――と同様に、だ。そこまでは問題ないだろう。
だが、個室の使用の方はそうはいくまい。いくら他者と接触しても接触していることそれ自体に気付かれない彼女とはいえ、あの狭い空間に二人の人間が同時に入ったのでは密着を通り越してしまう。
「お兄さん。真剣な顔して何を考えていらっしゃるのですか。内容がある程度想像できて激しくやめてほしいのですが」
「君がどうやって用を足したのかについて考えていた」
どうしても気になる。考えるなと言われても、わからないままでは余計に長くこの疑問を引きずることになるだろう。それは彼女の意思に反する行為だ。ならばここは直接彼女に訊き、疑問に決着をつけるべきだろう。
「いったいどうやったの?」
「…………」
彼女は一度口を開閉し、改めて開け、答えた。
「……自分で開けられない扉なら、最初から閉めなければいいのです。ここの個室のドアは、内側から施錠しないかぎり開きっぱなしになっているタイプでした」
僕は顎に手をあてて、彼女の言った意味をゆっくりと咀嚼するように考えた。
中から鍵をかけないかぎり常に開いているタイプ――思い返してみれば、男子便所の方の個室もそのタイプだった。男女とも同じ造り、という設定なのか。それならば、確かに彼女一人でも個室に入ることは可能だ。そして入る時にそのドアを閉めずにいれば、出る時に開ける必要もまた発生しない。
彼女の姿は誰にも見えない。誰にも気づかれない。彼女が何をしていても気づかれない。
――つまり彼女は、トイレのドアを開けたまま用を足したと、そういうことなのか?
目を見開く僕に、彼女は何かの境地に至った瞳で頷いた。
「『羞恥心』という、人間にとってこの上なく大切なはずの感情――、それを一時的に停止させれば、自ずと可能性は広がります。何かを捨てる事は、何かを得ることに繋がるんです。――そうとでも思わなければ、やっていられません」
「だけど……、水を流す音は? 巻き上げられるトイレットペーパーは……?」
「私が何をしても、他の人には気付かれないのです。誰もいないはずの個室でトイレットペーパーが巻き取られていても、流水音が聞こえても、ひとりでに水が流れていても、気にされないのです。――最悪の場合、私が使用中の個室に、私がいることに気付かず入って来ようとなさる方がいらしたかもしれませんでしたね? 私、用を足しながら、いつ御新規様がいらっしゃるかと戦々恐々でしたよ」
彼女はふ、と笑い、それから睫毛に重りが宿ったように視線を下げ、サンダルのつま先辺りを見つめた。
「お願いですからもう――これ以上、答えさせないでください」
「ごめん」
不覚にも涙が滲みそうになって、僕は慌てて眉間に力を入れた。
もし彼女が僕の幻であり僕が創り上げた存在なのなら――、その設定は――、開けられないというその制約は、この僕自身が彼女に課したものだということになる。
うっすらと鉄錆の味を感じるほどに唇を噛み締めた。この口中に広がる色は――、僕の血は、いったい何色だ。なぜそんな業を彼女に負わせた。僕はそこまでして自らの手で彼女のトイレの開け閉めをしたかったのか。
――もちろん、自分自身の所業にどれだけ憤ってみたところで、それはあくまで可能性でしかない。そうであったかもしれないという可能性。だが、『可能性がある』というその一事だけで、僕は自分を罰したい。
罰を与えるものの存在を、痛切に、僕は欲してやまなかったのだ。




