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第六話

 受付を済ませ番号札をもらう。『外科十五番』。少し待ってもらうことになりそうだ。


「何か飲む?」

「いえ、けっこうです。お気持ちだけいただいておきます。それよりもお兄さん。先ほども申し上げましたように、あまり私に話しかけない方がいいですよ? 別の科の受診を勧められかねませんので」


 病院内なので、携帯電話は切ってある。

 僕は彼女をじっと見つめて、見つめて、そして彼女が目をそらしてから小さく頷いた。



「二週間後にまた来てください」

「ありがとうございました」


 軽く一礼し、診察室を出る。

 下された診断は軽度の骨折だった。全治二週間。今はバンドで固定してある。

 折れている、というほどの痛みではないのだが、仰々しく覆われた自分の右手はその異常を雄弁に主張していた。

 『この怪我そのものが錯覚なのではないか』とすら思っていたが、どうやらそれは思いすごしだったらしい。実はマンホールの蓋を開けたこと自体が自分の妄想だったのではないか、と。そう疑っていたのだが。


「やっぱり、ちゃんと診ていただいてよかったですね」


 彼女は、ほんの少しだけ嬉しそうにそう言った。


「うん。ありがとう」


 口の中でもごもごと、なるべく他の人には聞こえないくらいの音量を意識して言った。

 彼女にああ言われなければ指のことなど放っておいただろうから、それは確かに彼女のおかげなのだ。


「でも、ちょっと残念です。病院の中なら、私のお友達に会えるのではないかと思っていたのですよ。あ、返事はいりませんから。これは私の独り言です」


 彼女は僕のコメントを前もって遮っておいてから話を続けた。


「誰か、私が見える人、私にしか見えない人がいるんじゃないかな、と思っていたのです。ほら、病院に怪談はつきものでしょう?」


 つとめて明るい口調で、彼女は言う。


「でも、それらしい人はいらっしゃいませんでした。もしかしたら、私が普通の患者さんだと思っていた人たちの中に『実は……』の方がいらっしゃったのかもしれませんが。この程度の光源では」


 彼女は廊下の天井を見上げ、それから足元を見下ろした。


「誰の影もおぼろで、あるようにもないようにも見えました」


 僕の影も、今は廊下に滲んで沈んでいきそうに薄いものだった。そんなぼんやりとした影すらもたない彼女は、やはり自分を死者だと思っているようだ。


 死者。幽霊。亡霊。魂。

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。


「話しかけて来てくれるフレンドリーな方もいらっしゃいませんでしたし、これは、私の方から手当たり次第話しかけてみるべきだったでしょうか?」


 彼女は小首を傾げた後、少し笑った。


「すみません。受付にカルテを渡しに行きましょう」

「あ……――」


 危ない、という僕の呼びかけは、その出だしだけで役割を放棄した。

 前方から歩いて来た患者らしき男性と、前に向き直った彼女の肩が、ぶつかる。小柄な彼女はたたらを踏み、――そして、


「あ、すみません」


 男はそう言いつつ僕に向けて会釈をした。怪訝な顔をするでなく、ごく自然に。それから、肩を押さえて呆然としている彼女を残し、彼はそのまま歩いて行った。


 見てはいけないものを見てしまったような、そんな申し訳なさを感じて僕は彼女から目をそらそうとした。まるで、先ほどかけそびれた注意の声が床の上に落ちていて、そしてそれを探しているかのように、僕の視線が下向きに固定される。

 その視界の端の端で、彼女が屈むのが見えた。

 彼女は履いていた白いサンダルをもぎとるように片方脱ぎ、サンダルを持った右手を勢いよく後ろにひいて、そして遠ざかりつつある男の後ろ姿に向かって、叩きつけるように投げつけた。だが投擲されたサンダルは目的物に届かず、廊下を一、二度バウンドし、止まった。

 男はそのバシンという音に、全く反応を見せなかった。


「私なのに」


 彼女は押し殺した声で絞り出すようにそうもらした後、唇を結び、男の姿が曲がり角の向こうに消えるまで睨み続けていた。


『私なのに』『ぶつかられたのは私なのに』


 悔しさか、哀しさか、改めて現実を突き付けられたことに対するショックか。彼女の小さな体には大きすぎる感情のうねりが渦巻いて、嵐の中で必死で両足を踏みしめて立っているように見えた。


「……」


 僕は彼女に向けて中途半端に挙げた右手を、結局、気付かれぬ内に下ろしていた。そして指先を掌の中に握り込む。彼女の体の表面を静電気が覆っているように見えたから。


 伸ばした手は、きっと弾かれるだろう。そして指先にじんじんとした痺れを残すだろう。その思いは予感と確信の間で揺れていた。


「ごめん」

「なんでお兄さんが謝るんですか。さっきの人の代わりに謝ってくれてるんですか。そんなの余計な気遣いです。余計に苛々させられるだけです」


 本当に、なぜ謝るのだろう。なぜ今も、彼女に対して申し訳ないと思っているのだろう。

 説明に窮した僕は、答えを返さぬまま、投げられたサンダルを取りに行き、彼女の傍に置いた。


「……すみません」


 彼女は思考を切り替えるように軽く頭を振った後、もう一度「すみませんでした」と言った。そして受け取ったサンダルを履き、それから僕の背後に回った。


「他の人にぶつからないよう、お兄さんの後ろを歩かせていただきます。よろしいですか?」


 声だけが後ろから聞こえてくる。


「うん」


 前を見たまま頷く。

 誰もいない場所に向かって頷くのは、なんだか嫌だった。


 彼女の姿が見えないと、僕は途端に不安定になる。ただの廊下がどこか作り物めいて見え、物の輪郭がやたら明瞭になり、各々がその存在を声高に主張し合っているように感じられる。

 息苦しい。


「行きましょう」


 彼女はその後、ぴったりと、それこそ僕の影であるかのように僕の後ろを離れずついて歩いた。僕はひたすらそんな彼女の壁となって歩くのみだった。おそらく僕は彼女からそれ以上のことは求められていない。彼女は慰めも励ましも必要としていない。


 それともそれは僕の思い込みで、本当は、慰められ、励まされたかったのだろうか。わからない。

 わからない。

 彼女はもうその日、僕の前を歩くことはしなかった。



 病院内にある薬局に薬を受け取りに行かなければならなかったことを、病院を出た後に思い出した。けれど僕は、そのことを口には出さなかった。そして引き返すことなくそのままアパートに帰り、そのまま何もせず過ごした。

 彼女は部屋の隅にうずくまり、膝を抱え、カーペットの一点の染みを見つめていた。何も言わず、食事も取らず、内へ内へとこもっていった。


 さなぎのような彼女の周りに、口出しのできない沈黙が積み重なっていく。

 この部屋を覆う簡素な壁は、彼女を外界から隔て、同時に守る壁だった。そして僕自身もまたその壁の一部だった。唯一彼女を認識しうる人間というだけで。かけるべき言葉も持たず、何をすべきかもわからず、ただそこにいる。


 その状態が半日近く続いた後、省エネモードから復帰し起動したパソコンを思わせる動きで、彼女は不意に立ち上がった。


「ご心配とご迷惑をおかけし、すみませんでした」


 彼女はかたい表情のまま僕に頭を下げ、


「もう大丈夫だとは言えませんが、ひきこもり状態は脱したいと思います。この現実を、現実として受け入れたいと思います。協力をお願いできますか?」

「僕にできることなら」


 考える前に即答してから、付け足した。


「ううん、僕にできないことであっても」

「できる範囲でかまいませんよ。そしてそれで十分です」

「僕は何をすればいい?」

「そうですね――。では、明日からは、外では私の真横を歩いていただけますか?」

「君の前ではなく?」

「ええ」

「僕が壁にならなくていいの?」

「ええ。自分一人で歩くことができなくなることの方が怖いですから。自分自身の弱さに負けるのは、嫌です、業腹です。だからお願いします」

「わかった。他には?」

「他には――できれば、日常を続けてください」

「日常?」

「はい、お兄さんの日常です。大学に行って、講義を受けて、レポートを書いて、もしバイトをなさっているのなら休まず出勤して、食べて、寝て、つまりそういうことです」

「君の身元捜しとかは?」

「それは、追々に。合間を縫って、日常に影響を与えない範囲で」

「それでいいの?」

「できれば、そうしていただきたいんです。私は私のためにお兄さんに日常からの逸脱をしてほしくないのです」

「日常」

「日常というのは、当たり前のことの繰り返しです。普通であることの証明です。日常は尊いです。どんな代価を払っても死守すべきことです。一度失ったら、もうたやすくは手の中に戻ってこないのですから。私みたいなものがいるからこそ、よけいに、はみ出してほしくないのです」

「うん、わかった。君がそれを望むなら」

「私はそれを望みます」


 彼女はもう一度僕に対して、深々と頭を下げた。


 両脇から垂れた長い髪が彼女の表情を覆ってしまう。頭を下げるという行為には、己の本心を隠したいという意味合いも含まれているのだろうか。相手の顔も見えず、自分の顔も見せない。見えないのは、嫌だ。


 嫌だった。

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