第二話
二十分弱自転車を漕いで。たどり着いた交番の近くに自転車を停め、彼女を下ろす。
「ありがとうございました」
礼を言う彼女に一度頷き、行っておいで、というふうに軽く右手を振ると、
「意外です。お兄さんのことですから、強引にでもついてくるのかと思っていました」
そう言った後、頬にかかる横髪を手で直してから、「もしかして――」と続けた。
「もしかして、やはり私を閉じ込めた犯人はお兄さんだったのですか?」
『僕が犯人』? 『やはり』? 『僕が彼女を閉じ込めた』?
この腕の中に、この視界の中に、閉じ込めていたいとは思っているけれど。それは未来へと続く願望であって、過去の中には無かったはずだ。
だから『なんのことかわからない』、というふうに首を傾げてみせると、彼女は一拍置いてから切り出した。
「これから憶測を申し上げます。礼を失するどころでない、妄想の領域の暴言です。違っていたら止めてください。殴ってでも止めてください」
彼女は、言いながら俯く。せっかく直した横髪が垂れ、彼女の表情を覆う。
「おそらくお兄さんは以前から私に交際を迫っていらしたんですね。でも一方通行な想いに思い余って憎さ百倍で私をさらい、殺意を以て、私をあんなところに閉じ込めたのです。犯人は現場に戻ると言います。あの時お兄さんは、偶然あそこを通りかかったわけではなく、首尾を確かめようとして様子を見に来たのです。でもお兄さんは助けを呼ぶ私の声を聞いて、良心の呵責に耐えかね、救いの手を差し伸べてしまったんです」
淀みなく、一気呵成に彼女は喋る。
「それはお兄さんにとって予定外の事でした。私を閉じ込める時に使用したはずの蓋の開閉のための道具は、用を果たした後処分してしまっていたのでしょう。だからお兄さんは、ベルトを利用することを思いつく前、指の力だけであの重い鉄の蓋に挑んだのです。そのために、そんなふうに、お兄さんは指に怪我をなさっています。……後で、お医者さんに診てもらってくださいね」
忘れていた痛みが、指の先に蘇る。けれど心の方が、痛かった。
「私を助け出した時に、お兄さんは言いましたね。『好きです、結婚してください』と。あの時の私にとっては唐突な申し出でしたが、お兄さんにとっては言い慣れた台詞でした。おそらくこれまでにも私に同じように告げ、その度に拒絶されてきたのでしょう。私はお兄さんのことを忘れてしまっていたために、あの告白を『ただの変な人の妄言』としか受け止めていませんでした。ですが、もし『私を閉じ込めた犯人』である男性からそう言われたのだと理解していたなら、あれは脅迫にしか聞こえなかったでしょう。『好きだ、結婚しろ。さもなくば、今度こそ本当に殺す』、という」
そこで彼女の言葉がふ、と途切れる。
「…………」
「…………」
僕と彼女の間に横たわる沈黙が。『止めないのか』と。『喋り続ける自分を止めてくれないのか』、と。そう僕を責め立てているように感じられた。
でも僕は口を開かない。彼女を止めない。だから諦めた彼女は続きを話す。彼女の中にある疑いを全て言葉に変換して、出し切る。
「……ですが、お兄さんは私の様子がおかしいことに気がつきました。私は犯人であるはずのお兄さんに対して、怯えたりですとか、そういうそれらしい反応を示しません。それどころか初対面であるかのように振る舞います。お兄さんは、発言を控え、しばらく私の様子を観察します。そして、私が記憶を失っていることを察します。はからずもお兄さんは、善意の第三者にして『私の命の恩人』という特権を得たのです。そこにつけこまない手はありません。でも、警察に関われば自分のことを疑われかねないと危惧し、今交番への同行を拒んでいる、と。――そういう次第ではありませんか?」
自転車の荷台で揺られながら、彼女はずっとそんなことを考えていたのだろうか。自分を殺そうとした犯人かもしれない男の後ろから、腰に手を回し、疑心を胸の内に押し隠したまま、ここまで耐えてきたのだろうか。
疑いながら、それでもすでに何もかもを失ってしまっていた彼女が、これ以上何かを失うことを怖れて。
すぐ後ろは交番。駆けこむまでもない、彼女が少し大きな声を上げるだけで、確実に助けを得られる場所。安全なここに至るまで、僕に疑いを悟られないよう最大限の注意を払って。
それはどれほどのストレスだっただろう。穴の底にいる時と、どちらが。
「ごめん」と、僕は謝った。彼女の、息を呑む音。「君の恐怖に気付いてあげられなくて、ごめん」
彼女が、俯いていた顔を上げる。わずかに唇を震わせ、そして、「どっちですか?」と訊いた。
「私の誤解ですか? ただの誤解なのですか? ならば早く否定してください。違うって、言ってください」
「違う」
「……あ……あ、はは。あはは、そりゃそうですよね。違いますよね、当たり前ですよね。なにしろお兄さんは、嘘はつけない人なんですから。すみません、私、あほなことばか――」
「でも、隠し事はしていた」
「……え?」
「君に黙っていたことがある」
地面を指さす。歪な人差し指で、歪な現実を指し示す。
足元から伸びる影法師。
「私の影が……ありません」
僕のはあって、彼女のはない。
「――、なんですかそれぇっ!?」
叫んで、呆然と僕を見上げ、また地面を見下ろし、
「…………っ」
そして、光の当たる場所から逃げ出すように身を翻し、彼女は交番の中に駆けていった。
「すみません、おまわりさん! 私っ、私っ。ちょっと尋ねたいことがありましてっ」
彼女の声だけが聞こえてくる。
「ちょっとおまわりさんっ。なんで無視するんですかっ? こっちを向いてくださいよぅっ。聞こえないふりしないでくださいっ。ちゃんと私が見えますよねっ? あなたに触ってるのわかりますよねっ? やめてくださいっ。わけがわかりませんっ。もしやお兄さんに頼まれて一芝居打ってらっしゃるんですか? 善良な一市民をからかわないでくださいよぅっ」
しばらくし、よろばいながら出てきた彼女は、すぐ脇を通り過ぎようとしていた中年の女性に手を伸ばし、女性が被っている帽子を取ろうとした。だが、『強めの風が吹いた』、その程度の認識なのだろう、女性はわずかに浮いた帽子を飛ばされないよう手で押さえ、深めに被り直し、そのまま歩いて行った。
次に彼女は、少し先を歩いていた中学生くらいの学生服を着た男の子に駆け寄り、その子の右手を掴もうとした。そしてそれは、僕の目には、確かに掴んでいるように見えた。だが、『左手が疲れたから、右手に鞄を持ち替えた』、その程度の感覚なのだろう。そんなふうに自然に、男の子は彼女に掴まれているはずの右手に学生鞄を持ち替えた。
彼女の手は鞄にはじかれ、惑うように宙を舞った。
「…………」
虚ろな視線を男の子の後ろ姿に注ぎ、その姿が消えるまで見届け、それからようやく彼女は僕を見た。
目と目が合い、僕の眼の中に確かに彼女が映っていることをみとめると、彼女はクシャッと笑って言った。
「お兄さん……。私、おまわりさんにセクハラしちゃいました」
「……?」
「キスしたんです。たぶん人生初チューです。でも、気付いてももらえませんでしたぁ。あは……。たとえあのおまわりさんがお兄さんと組んで悪ふざけしてらっしゃるんだとしても、さすがにチュウはまずいと慌ててくださるはずと思いましたのに。なのに何の反応もなしですよ。あっはは、なんですかそれ。私は出会ったその瞬間にお兄さんにぞっこん惚れさせるくらいの器量の持ち主だったんじゃないんですか。……は、あ、はは……」
彼女はそこで、突然、
「キャーーーッ、痴漢です! この人、痴漢です!」
本来であれば周囲の通行人が一斉に彼女を注視するくらいの大声で、あらん限りに叫んだ。
「誰かぁっ。捕まえてくださいっ。そこの大学生くらいの根暗そうな男の人が、私の胸を触りましたぁっ」
でもどれだけ叫ぼうが、こちらに視線を遣る通行人はいなかった。
「……チェッ、です。捨て身の芝居でしたのに、見向きもされませんでした。……まあ、捨てるのは主にお兄さんの世間体とかになるわけですが」
彼女のためになるのであれば、僕は僕の持つ全てのものを捨て去って惜しくはないが。
「お兄さん――」
彼女は、挑むように、怒気すらはらんだ瞳で僕を見上げた。
「私は、何なんですか?」
「君は、僕の君だ」
「この期に及んでふざけないでくださいっ。『ここはどこ、私は誰』ではありません。私は何なのかと訊いているんですっ」
「答えは変わらない。君は僕の君で、ここは君と僕がいるところで、君は僕と出会うためにあそこにいたんだ」
それ以外の答えを、僕は彼女に返す気はない。
通行人が、奇異の目を僕に向ける。でもそれは一瞬で、すぐに彼らは目をそらし、何事もなかったようにそれまでの動作を再開する。
「……あは、お兄さん、一人でぶつぶつ言ってる危ない人に思われてますね。だからお兄さんは、そんなに無口だったんですか? ――別に、いいじゃないですか」
彼女は絞り出すような低い声で言った。
「お喋りしましょうよ。『おかしな人』に見られたって、全然いいじゃないですか。見てもらえるだけいいじゃないですか。奇異の目だってなんだって、向けてもらえるだけいいじゃないですか!」
彼女は傷だらけの小さな手で拳を作り、僕の胸に振り下ろした。
トンッと。叩かれた音と、振動、重み。痛みともいえない、痛み。それらを確かに、僕は感じていた。
「痛いです。手が痛いです。すごく痛いです。痛いのだから、これは夢ではないのですか? それとも痛みを感じる夢ってあるんですか?」
「痛みを感じる夢もある」
痛みを感じない現実もある。
「これが夢かどうかは、僕にはわからない」
そして彼女にもわからないだろう。これが夢のような現実なのか、現実のような夢なのか。
「夢じゃないとしたら……お兄さん。私は人間ではないんですか? 実はもぐらさんの化身とかですか? だから穴の中にいたんでしょうか。もぐらだとしたら、ちょっと可愛いですね。ゴキブリとかよりはずっとましです。あと、もぐらは土の竜と書いて土竜と読むので、字面だけなら格好いいです」
喋ることをやめたら、崩れるのだろう。そう感じさせるほど懸命に彼女は口を動かし続ける。
「それとも生きてすらいないんでしょうか。生きていないのなら、死んでいます。死んでなお動いているのならそれは幽霊です。幽霊……。私はあの穴の中で、すでに死んでいた? マンホールの中には、私の死体があるんでしょうか? お兄さんはその死体を目撃していたんですか? そして私は、記憶を失って、死んでいたことすら忘れているのでしょうか? ならなんでお兄さんにだけは見えるんですか? お兄さんには、霊感があったりするんですか? それとも私を殺した犯人さんだから見えているのですか?」
奔流のように渦巻き溢れる言葉。
彼女の瞳が、渦を巻いているように見えた。ぐるぐると巻いて、シェイクされた彼女の中身が、万華鏡のように乱舞している。
「……僕は犯人じゃない。霊感もない。マンホールの中には、君以外何もいなかった」
何もいなかったし、何もなかった。もぐらの干からびた死骸も、もちろん腐敗した死体も、骨すらも。
「そうですか……」
疲れ切った様子の彼女は、それ以上何も言わなかった。
僕は自転車に手をかけ、瞳で彼女に問うた。彼女は躊躇うことを放棄したみたいに、流れるように荷台に腰を下ろした。
「どこなりと連れて行ってください。私には、いるべき場所がわかりません」
頷いて、再び自転車のペダルに足を置く。
干からびた彼女の重みを宿して、自転車がわずかに沈んだように感じられた。




