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第十五話

 その言葉を最後に沈黙が降り、その降りた沈黙を彼女の方から崩すことはしなかった。

 だから僕の方から彼女に訊いた。


「でも、さっき、生きていると」


 病院で父親の姿を見かけたのだ、と。だから追いかけて行ったのだと。彼女はそう言っていたはずだ。


「はい、生きています。死んでいません。生きていました」


 未消化な感情をもてあましているかのような、


「死んだと思ったのに、生きていました。生きていてくれました」


 泣いているような笑っているような、表情の浮かべ方の取捨選択をし損ねたような顔で、彼女は答えた。


「だって、首を吊っていたんですよ? 居間の欄間に通した紐に首をひっかけてぶら下がっていたんです。そんなの、死んでいるって思うじゃないですか。なんであれで生きているんですか。人に誤解させたまま、なにのん気に生きちゃってるんですか。ふざけんな馬鹿やろうです。馬鹿。お父さんの馬鹿。代わりに私が、死んじゃったじゃないですかぁっ」


 なじるように言って、言いながら彼女はテーブルにうつ伏せて泣きだした。

 僕はおずおずと手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。彼女は一瞬ぴくっと肩を震わせ、そして僕の手の下で、手放しに、幼い子供のように泣きじゃくった。


「私だって生きていたかったのに。死にたくなかったのに。なのにお父さんだけ生きてて私だけ死んでるなんて、そんなのずるいです。お父さんずるい。なんで私だけなの。なんで。嘘付き」

「ごめんね」

「なんでお兄さんが謝っているんですかっ」

「……なんとなく?」

「……変な人です」

「うん」

「……あは」


 ようやく彼女は顔を上げた。そして紙ナプキンを二枚取り、目にごしごしと強く押し当てた。


「見苦しいところをお目にかけてしまいました。泣いた鴉はもう笑いましょう。お父さんなんかのためにこれ以上泣かされてやるのは悔しいです。涙は有限なのです。泣いた分、水分と塩分を補給しなきゃです」


 彼女はオレンジジュースのストローの先を軽く噛んだ後、中身を一気に飲み干した。そして軽くなった紙コップをテーブルに打ちつけた。トン、トントンとリズミカルに。その仕草は特に意味のない癖のようなものなのかもしれないが、爆発した感情と共に体の外に流し出されたものを、その動作で調整し直しているように見えた。


「さっき、お父さん、ムチウチの人が首に巻いているあれ――なんて言うんですっけ、とにかくあれを巻いていたんです」


 それはおそらく、『カラー』だろう。


「あれはたぶんあの時の怪我なんだと思います。首を吊っていた紐が途中で切れて落っこちるとかしたんでしょうか。だから助かったんでしょうか。間抜けです。しょぼいです。もしあれが、『生意気なことを言って家を飛び出した娘をこらしめよう』と企画された『ドッキリ』だったとしたらとり殺しますよ?」

「うん」

「……もう……」

「うん?」

「いえ……」


 見つめていると、彼女はわずかに唇を尖らせ、拗ねたように横を向いた。頬に薄く朱を散らせながらのその仕草は、懐かしいものに感じられた。一昨日初めて見たというのに、もう懐かしく思うのか。なんだか一昨日から、過去と現在と未来を不連続に渡っているような気がする。


「でも、あの時の私は、もちろんそんなことは知りません。お父さんが死んだと思い込んだ私はパニックになって家を飛び出しました」


 また彼女の過去が再開される。今を生きている僕が彼女の過去と相対する。


「なぜか頭の中をドレミの歌が流れ続けていました。場違いに明るいメロディーがひっきりなしに流れていました。頭の中はしっちゃかめっちゃかで、明日の宿題のことなんかが浮かんでいました。そして気がつくと、――気がついた時には、車が目の前に迫っていました。いつの間にか私はふらふらと道路を横断していたらしいです。それは一瞬のことだったはずなのですが、輪ゴムを繋げて作った輪っかみたいな時間でした。一つ一つの輪ゴムがビヨンと伸びるような感じで、短い時間の連なりがたくさんたくさん引き延ばされていました。その変てこな時間の中で、私は、強く強く思っていました。

 『お父さんなんか知らない』という私の言葉を額面通り受け取って、お父さんは死んだ。だから私は、お父さんのことを忘れなきゃいけない。そうでないと、『知らない』と言う言葉が嘘だったことになる。嘘のためにお父さんは死んだことになる。だから、お父さんのことを本当に知らなくならなきゃ。お父さんに関する一切のことを忘れなきゃ。

 だから忘れました。そうすると、自分のことも忘れました。だって、私のこれまでの一生のほとんどは、お父さんと関わっていたのですから」


 でも、


「でもその『知らない』は、言葉のあやだ」

「ええ」


 彼女は頷いて、「でも」、と続けた。


「でも、うかつに口に出していい言葉ではなかったんです。いいえ、絶対に言ってはいけない言葉だったんです。『どこのどなたかは存じませんが』とおばあちゃんから否定された時の罅割れたお父さんを、私はすでにこの目にしていたのですから。だから思いました。叫ぶように思いました。『私は、私のことなんか知らない。知らなくていいんだ』と。『記憶喪失』の、それが正体です。――車に接触した私の体はきりきり舞いで、跳ね上がった後地面に叩きつけられました。その時、顔の下にマンホールの蓋がありました」

「マンホールの、蓋」

「ええ。私の下には、暗くて狭いだろう穴がありました。『穴があったら入りたい』なんて言葉がありますが、それで本当に入っちゃう人なんて普通いません。いたとしたらかなりの変人です。でもなんと、それが私でした。ほんと、お恥ずかしいかぎりです」


 彼女は「あは」と笑って、頬をかいてみせた。


「原理はよくわかりませんが、その時私の魂と体が別々になったんだと思います。私は自らの意思で穴にずぶずぶと沈んでいきました。――お父さんが死んで、お父さんに縛られ閉じ込められていたことから脱出して広い世界を得られたけれど、この世界は私には広すぎたんです。私がお父さんの支配下から逃れて外に出たい、自由になりたいと思ったためにお父さんは死にました。結局私は深い穴の中に閉じこもった。――もう出られなくていいと思ったんです」


 父親を死に追いやった自分自身を否定して、記憶を失くし、彼女は穴に閉じこもったのか。では、蓋を開けられなかったのは、彼女の罪の意識が『開ける』という行為を自らに禁じていたためなのか。


「でも記憶を失っていたために、自分の意思で穴に閉じこもったのにも関わらず、私は救いを求めてしまいました。助けを求める私の声を、お兄さんに届かせてしまいました」


 そしてそこで繋がるのか。過去と現在が、彼女と僕が。


「聞いていただきたかったことは以上です。以下にはなにもありません。出し惜しみせず全て晒してしまいました。聞き苦しい話でしたのに最後まで御静聴ありがとうございました」

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