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第十四話

「おばあちゃんを恨みました。おばあちゃんをあんなふうにしたお父さんを恨みました。私たちを捨てたお母さんを恨むよりももっと、恨みました。私は、遠くにいる人よりも、近くにいる人たちに、より憎しみを向けたんです。――でも、きっと本当は、誰も悪くないんです。おばあちゃんも、お父さんも、――私も、それに、お母さんも。だって、お母さんの本当の理由は、お母さんにしかわかりません。私、どうしても我慢できない誰かと共に家族として過ごさなきゃならないことがどれだけストレスになるのかを、もう知ってしまいました。お母さんが、私たち以外との時間を選んだのだとしても、だからもう、責められません。――そして、私の家の中で何が起こっていようと、私の心の中で何が起こっていようと、そんなことは一切関係なく、外の時間は流れていきました。私は小学校を卒業し、中学校に上がりました。お父さんは、卒業式にも入学式にも、来てくれませんでした。おばあちゃんにつきっきりだったからってだけでなく、その頃のお父さんは、私に対してまるで無関心でしたから。それでも、中学生になったというそれだけで、何かが変わってくれるんじゃないかと、どこかで期待している自分がいました。初めて入った一年生の教室の黒板には、『入学おめでとう』と飾り立てられた文字が、カラフルなチョークで大きく書かれていました。他にも桜の花とかアニメのキャラクターとか簡単なメッセージとかが、勢いよく、華やかに、黒板一杯に描かれていました。先輩方が新入生を迎えるために準備してくださったんだそうです。それを目にした時、鼻がツンとして、涙がこみ上げて来そうになって、慌ててトイレに駆け込みました。嬉しかったんです。だって、『おめでとう』なんて、誰にも言ってもらえなかった。……ごめんなさい、私の愚痴を垂れ流しているだけで、話が全然進んでいませんね。今更かもしれませんが、できるだけカットしていきますから」


 申し訳なさそうに微笑む彼女に、気にしないで、と首を振る。話の続きを、彼女に促す。彼女は一つ頷いてから、少し青ざめた唇を開いた。


「おばあちゃんの痴呆はどんどん進んで行き、とうとう私たちのこともわからなくなりました。ある日、おばあちゃんの世話をしていたお父さんに対して、『どこのどなたかは存じませんが、ありがとうございます』って、おばあちゃん、そう言ったんです」


 定番ですよね、と彼女は乾いた笑いをもらした。


「痴呆が進行すればいずれそうなるって、そんなの誰だって予想できますよね」


 同意を求めるように小首を傾げる彼女は、けれど僕の答えなど欲していないのだろう。彼女の視線の先に僕はいない。過去を映し出す鏡にのみ彼女の視線は向けられている。


「なのに、『どこのどなたかは存じませんが』って、実際にそう言われた時のお父さんの顔は、罅が入ったように見えました。ポロポロと欠片がこぼれ落ちていくみたいに、お父さんの顔から表情が無くなっていきました。そして、突然、吠えるように叫んだんです。『これだけ尽くしてもっ。これだけ尽くしたのにっ』って。私は最初、お父さんの中で何が起こっているのかわかりませんでした。それからふいに、『ああ、とうとうお父さんも裏切られたんだな』って、そう納得しました。お父さんは、これまでおばあちゃんただ一人のためにかけてきた時間も、そして善意も好意も愛情も、何もかもを全て根本から否定されたんです。とうの本人から、『そんなもの知らない』って言われちゃったんです。――お母さんが、出て行った時みたいに。……私は、私たちは、お母さんのこと好きだったのに、大好きだったのに。なのに」


 いなくなっちゃった、と呟くように言う彼女に、八年前の自分が重なって見えた。ミィが消えた扉の向こうをいつまでも見つめていた、あの時の自分の姿が。


「昔のお父さんは優しい人でした。お母さんに怒鳴ってる姿なんか見たことがありませんでした。自分が仕事で疲れててもお母さんを労われる人でした。でもそんなこと、全然関係しなかった。どれだけ愛情を注いでいても関係ないんです。尽くしたら報われるわけじゃない。……それはどうしようもないことなんだと思います。――お母さんに裏切られて、おばあちゃんにも裏切られて。そんなお父さんを、かわいそうだと思いました。かわいそうな、――なんてかわいそうな、お父さん」


 暗い目で呟きながら、彼女は小さく笑った。そして笑った自分自身に嫌気がさしているように、眉間に皺を寄せた。


「それからしばらくして、お父さんは、伯母さんが勧めてくれていた施設に、おばあちゃんを入所させました。お父さんは、おばあちゃんを諦めて、私たちの生活から切り離したんです。私はその決断に、ほっとしていました。これでやっと解放されるのだと、元の生活が帰ってくるのだと心底ほっとしていました。でも実際は、お父さんは、もっとおかしくなりました。お母さんに逃げられてお酒ばかり飲んでいたあの頃よりも、もっと。おばあちゃんがおばあちゃんでなくなったのと同じくらい、人が、変わったようになりました。お父さんは私の行動全てに監視の目を光らせ、制限するようになりました。度を越して、私に干渉するようになったんです。少しでも意に添わないことがあれば大声で怒鳴り散らしました。ほんの些細なことで家具を蹴ったり叩いたりして大きな音をさせていました。私は学校行事以外での外出を禁じられ、せっかくできた友だちと遊びに行くこともままなりませんでした。お父さんは一日中家にいました。介護から解放されて時間ができたのに再就職先を探すこともせず、家に引きこもっていたんです。そして、朝、家を出て行く私に、ねっとりとした視線を向けるようになりました。私の中学では、担任の先生に毎日提出することになっている『毎日の生活の記録』というものがあるのですが、私、そこに一度だけ本音を書いてしまいました。『家に帰るのが怖い』って。――馬鹿なことを、しました。それを読んだ先生から家に電話があって――」


 彼女の呼吸が浅く短くなり、


「家に帰ったら、お父さんが、仁王様みたいに、小学校のときの修学旅行で見た仁王様みたいに玄関に立っていて、筒を、手に握りしめていて、……その筒……私が卒業式で渡された卒業証書が入ってた筒……、その筒で、私を……思いっきり」


 そこまで言ったところで言葉は途切れた。血の気の引いた顔が強張っていた。小さな唇がわななき、そして唇の震えが体全体に伝わっていったように、肩が、指が細かく振動していた。


「お父さんが、君をマンホールの中に閉じ込めたの?」


 彼女の『身の上話』が始まってから、僕は初めて声を発した。


「いいえ、違います」


 彼女はその僕の問いかけを、言葉で切るようにはっきりと否定した。


「お父さんは、私を殺してなんかいません。私が勝手に死んだだけです」


 言って彼女は目を細め、血の気の引いた唇で、それでも淡く微笑んだ。


「あの時は、私を助けてくださったお兄さんのことを犯人扱いしたりして、すみませんでした」


 目尻を垂らすような、少し悲しげな笑い方だった。その微笑みに、なぜか胸がちくりと痛んだ。


「話を戻しますね。――それ以降」


 彼女は深く息を吸った後、今度は一気に語り終えてしまおうというように、淀みなく話し出した。


「私はお父さんの言いなりでした。お父さんを前にすると体が竦んで、『逆らう』なんて考えの外でした。家にいる間、私には心休まる時がありませんでした。自分の部屋に閉じこもっていたくても、部屋に鍵をかけることもできませんでした。癇癪を起したお父さんから逃げて自分の部屋に鍵をかけてひきこもったことが何度かありましたが、追いかけてきたお父さんに、蝶番がきしむくらいドアを外から強く蹴り飛ばされました。私は部屋の奥の隅で体を丸めて、そのガンガンという扉を叩く音がどんどん大きくなっていくのを聞いていました。開けるまでの時間が長引くほど、お父さんの怒りは増していきます。今開けないと、後でもっとひどい目にあわされることはわかっていました。私は自分自身の恐怖心に負けて、ふらふらと立ち上がり、ドアの鍵を外しに行きました。そんな私にとって、学校にいる時間が、唯一の心休まる時でした。家に帰りたくなかった、学校にいる時間を少しでも長引かせたかった私にとって、『一年生は強制的に部活動に入らされる』という決まりは大げさでなく救いでした。私は卓球部に入部しました。ただ、本当は、体を動かすことが好きだった私は、陸上部に入りたかったんです。最初の仮入部も陸上部でした。でも、私が遅く帰るとお父さんを怒らせるから。だから『運動部の中の文化部』と揶揄される卓球部に入部したんです。卓球部なら朝練は週に二日だけでしたし、あまり遅くなることもありませんでしたから。でも、それでも駄目でした。お父さんの身勝手で何度も早退させられました」


 親戚の不幸を理由にでっちあげ、学校に電話をして娘を早退させる。帰宅してみると、すっかり家事をすることを放棄した父親は、「洗濯物を取り込め」と、それだけのために呼び付けたのだと言う。そういうことが何度かあったそうだ。


「『やる気がないのならやめてしまえ』と先輩からは叱られました。朝、学校に行く時にはいつもひと悶着あり、度々遅刻しました。先生からは指導されるし、朝練にも行けないしで、周りからは幾度も注意され、呆れられる毎日でした」


 彼女はテーブルの上で、手の平を固く握り合わせた。


「『私のせいじゃないのに』が重なっていきました。私のせいじゃないのに、怒られる。私のせいじゃないのに、私がだらしなくて責任感が無い人間のように扱われる。不当に評価される。私のせいじゃないのに。ぐるぐると、常に私の頭の中にはその言葉がまわっていました。固まる前のコンクリートに喉元まで浸かっているような気分でした。重くて、息苦しくて、逃げ場がなくて、希望なんて持てなくて。……そんな中で、私のことを常に気にかけてくれている伯母は、私が唯一頼りにできる親戚でした。伯母は、父の代わりに私の小学校の卒業式に出席してくれたんです。中学校の入学式の方は、伯母の娘――私の従妹ですね――彼女の入学式と重なっていたから、こちらは無理でしたが、それでも、嬉しかったんです。本当に、嬉しかったんです。なのに、その伯母が急病だ、と、またお父さんから学校に電話がかかって来て。私、『どうせまた今回も嘘なんだろう』って思いながら、でも、『もしかしたら』とだんだん不安になって、途中からは走って帰宅しました。でも、その私に、お父さんは悪びれもせず、『このシャツにアイロンをかけろ』って……」


 彼女の肩が震えていた。


「それだけは、許せなかった。私は、『もう無理だ』と思いました。もう無理。もう嫌。これ以上はもう無理。無理。――限界でした。だから、お父さんに向かって、叫びました。『いい加減にしてよ! お父さんのことなんか、もう知らない!』って。叫んで、それから家を、飛び出していきました。そのまま走って走って、走り続けました。息が上がるまで走って、ふと気がつくと、私の目の前に道が広がっていました。それはどこにでもある普通の交差点でした。でもどこにでも行ける道のように思えました。その道が私は、怖かった。足がすくんで立ち往生するほどに。どの道を進むかを選ぶことも、その自分が選んだ道を進むことも、想像するだけで、怖くて怖くてしようがなかったんです。結局私は、とぼとぼと元来た道を戻って行きました。私には、家に帰ることしかできなかったんです。でも、家に帰ると」


 お父さんが死んでいました。



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