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第十三話

 病院から歩いて行ける距離にあったハンバーガーショップに腰を落ち着けることにした。

 食欲がないという彼女にはアップルパイとオレンジジュース。自分用にはバーガー一個とコーラとフライドポテトのセット。

 固定してある右手は使わず左手だけでトレイを持っていると、食堂の時と同じように、もう片方の端を彼女が支えてくれた。

 そのまま二階に上がり、二人掛けの席に着き、携帯電話を取り出し、耳に当てる。それと同時に、彼女が口を開く。


「思い出しました」

「思い、出した……」

「はい、思い出しました。私はやはり、死んでいました。あのマンホールの蓋の上で、車に撥ねられて」

「死んで、いる……」

「はい。私は死んで、魂だけがあの穴の中に閉じ込められていたんです」


 魂。比喩表現でなく。


「さっきの男の人は、私の父です。残念ながら、私の姿はお父さんの目には見えなかったようですが。……いくら呼んでも、気付いてもらえませんでした。そしてそのまま車に乗り込み、行ってしまいました。しばらく追いかけましたが、私の足では追いつけませんでした。でも家の場所も思い出しましたので、……大丈夫です」


 彼女はそこで目を伏せ、一呼吸置いてから、言った。


「私の身の上話を聞いていただけますか?」


 頷く。


「長い上に重い話になりますが、それでも?」

「君がそれを望むなら」

「私はそれを望みます」


 言い、彼女はそのか細い両の手を、僕の手に組み合わせるように重ねた。そこに軽く額を押し当てる。祈るように、願うように。


「幸せ、だったんです――。幸せの意味も知らずにいられるほどに」


 *


「もとは仲のよい親子だったんです。お父さんとお母さんとおばあちゃん、そして私の四人家族でした。お父さんは、優しくて。ひたすら優しい人だったんです。でも私が五年生の時に、お母さんが男の人と家を出て行って、それから変わってしまいました。お酒の臭いをぷんぷんさせて、いつも怒ってて、近寄るのが怖くなって。おばあちゃんにも――、おばあちゃんはお父さんのお母さんなんですが――、そのおばあちゃんに対しても乱暴な言い方をするようになって。それでも、おばあちゃんは、腰が悪いのに無理して、頑張って。ご飯を作るのも、洗濯するのも、全部やってくれました。お父さんに怒鳴られても、お父さんのワイシャツに丁寧にアイロンをかけてあげていました。――そして私も、おばあちゃんに甘えて、自分が食べたお皿を流しに持って行くことすらしなかったんです。私、お母さんが出て行った後、初めて自分で家族の分のお米を研いで――。研いでいたら、泣けて来て。今までにしたことがないことをすることで、『もうお母さんはいないんだ』って、思い知らされたような気がして。私が泣いていると、おばあちゃん、『もういいから部屋に行っておいで』って言ってくれて。私、そのまま逃げるように自分の部屋に帰りました。そのまま、夕飯に呼ばれるまで、部屋から一歩も出ませんでした」


 昨日の彼女の姿を思い出す。

 病院から帰った後、僕の部屋の壁に背を押しつけるようにして、何時間も膝を抱えていた。

 部屋から出ないことで。現実を直視しないことで。それまでと同じスタイルを崩さない事で。そんなことで、取り戻せると思ったのだろうか。


「でも、おばあちゃんは、お風呂場でこけて、足の付け根を折って、入院してしまいました。それから私は、家でお父さんと二人になりました。どうしたらいいかわからないでいた私に、お父さんは、――『二人で頑張ろう』と、そう言ってくれました。少しだけ、以前のお父さんに戻ったみたいでした。私たち二人とも、家のことはなんにもできない人間だったので、本当に一からやりました。家庭科の本を参考書にして、図書室から料理の本を借りて帰って、伯母さんに電話で訊きながら、二人で、私たち二人で、頑張りました。お父さんは、お仕事をしながらでもできるかぎりのことをしてくれました。段々お父さんの笑顔が増えて、反対にお酒の量は減っていきました。私は――、『おばあちゃんに任せっきりで悪かった』と反省しながら、でも、私は――、『おばあちゃんには申し訳ないけど、お父さんが元のお父さんに戻ってくれたから、入院してくれてよかった』と、そう心の底で思っていたのです。だから、(ばち)が当たったんです」


 手をつけられないオレンジジュースの容器の底に、結露した水の溜まりができていく。僕はその彼女の前でゆっくりと、時間をかけてフライドポテトを食べていく。――この話は、どこに行きつくのだろう。何をどうすれば、目の前の影のない彼女にたどり着くのだろう。これが、罰が当たった結果だとでも言うのだろうか。僕は今、開けることのできないはずの蓋を、開けようとしているのだろうか。


 彼女の説明が続く。入院していた三か月の間に彼女の祖母は痴呆が出てしまった――ありていに言えば、ボケてしまったらしい。なんの刺激もない病院生活を送っていたせいだろうか。それともそれまでの心労がたたったのだろうか。


「おばあちゃんは、入院した当初は、『自分がいなくては家がめちゃくちゃになってしまう』と、少しでも早く退院しようと焦っていたんです。だから私、『家の事は大丈夫だよ。お父さんともうまくやれてるよ』って、おばあちゃんに言ったんです。『だからおばあちゃんはゆっくり休んで、体を治してね』って。でも、おばあちゃん、それで気が抜けたみたいで。『私はもう必要ないんだねぇ』って、ぽつりともらしてました。『そんなことない。早く元気になって帰って来てほしい』って、私、言おうとして、でも、その時一瞬、詰まってしまったんです。すぐに言うことができなかった。『もしおばあちゃんが帰って来たために、お父さんがあの怖いお父さんに戻ってしまったらどうしよう』って、想像してしまって、ためらった。……それからです。おばあちゃんがぼんやりしていることが多くなったのは」


 その頃のことを思い出しているのだろう。彼女の表情もぼんやりと、遠くにあるものを眺めるようなものになっていた。


 紙コップの中で、ピキッと、氷の割れる音がした。そこで彼女はハッと気づいたように顔つきを戻し、オレンジジュースを一口啜った。ごくりと飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。


「退院してからもしばらくは車椅子の生活が続くということを聞いていたので、入院している間に、家をリフォームしました。お風呂とお手洗いに手すりをつけて、廊下の段差にはスロープをつけました。ポータブルトイレと車椅子を買いました」


 彼女は、そうであることを自分に強いているような事務的な口調で、淡々と説明を続けていった。


「床に直接座ったり寝たりするのはおばあちゃんの体にはきついからと、おばあちゃんの畳の部屋を洋風に変えました。お父さんは、準備万端整えて、おばあちゃんの退院を迎えたんです。『今まで迷惑かけ通しだったから、少しでも親孝行したいんだ』と言っていました。でも、その意気込みが裏目に出ました。おばあちゃんは、『どうせ家族がやってくれる。無理して悪い身体を動かしてまで家事をする必要はないだろう』と、目的を失って、リハビリすることもほとんどなくなりました。病院では自分でトイレを使っていたのに、家に帰ったおばあちゃんは、着替えも何もかもお父さんに任せっきりになって。自分からは動こうとしませんでした。私、『それでいいの?』っておばあちゃんに言いたかったけど、おばあちゃんへの負い目から、言えませんでした。でもお父さんは、――私と正反対に、お父さんは、そのことをどこか喜んでいたようです」


 感情を抑えた声で言葉を紡いできた彼女は、そこで、やり場のない憤りを持て余しているように、唇の端を結んだ。けれどすぐに、そのことを誤魔化すようにストローを口に含んだ。


 怒りだろうか、後悔だろうか。その後も彼女は、彼女の小さな体を満たすなんらかの感情をもてあますようにしながら、言葉を繋げていった。


 彼女の父親は、自分が母親から頼りにされていることに過度に依存するようになったらしい。

 長年連れ添った妻に捨てられたことで、自分自身を価値の無い存在と思うようになっていたのだろうか。彼は『自分がいなければ何もできない母』に必要以上に生き甲斐を見出すようになる。

 それは悪循環だった。介助者に甘えて自分では何もしなくなり、その間に筋肉は萎縮して、体の機能が低下し、どんどん寝たきりに近くなっていった。

 そしてついに仕事を続けながらの介護が無理だというレベルに達した時――、老人ホームに預けることは選択の外に置き、父親は仕事を辞めた。周囲からは止められたが強引に辞めたそうだ。彼女の伯母は、せめてショートステイやデイケアを利用することを勧めたが受け入れられず。ますます痴呆は進行していった。


 次から次へと、彼女の過去が明かされていく。彼女の『設定』が、追加されていく。そして、彼女の話が具体的になればなるほど、反対に僕の中での現実感は薄れていった。


 頭の芯が奇妙に痺れていた。どれだけ微に入り細を穿って語られようと、彼女の『過去』は、僕の表皮を滑って体の芯に届くことなく後方へ流れ去っていく。冬の冷気に晒されていたように、指先の感覚が失せていた。このまま何も感じなくなれば、それは救いとなるのだろうか。


「『自分がいなくては家がめちゃくちゃになってしまう』と、以前のおばあちゃんは言っていました。でもその頃はもう、おばあちゃんがいるために、家がめちゃくちゃになってしまっていました。私、『おまえが私の貯金通帳を盗んで金を勝手に下ろしたんだろう』って、おばあちゃんに頬を叩かれたことがあります。それがひどくショックで、泣きながら『違う』と訴えました。そしたら、『それ見ろ』と、『本当のことを言われたから泣いているんだ』と、『この泥棒』と。ますます、勝ち誇ったように私を責め立てました。そして次には『おまえの通帳を持ってこい』と怖い顔で言うんです。怖くて、私には従う以外の選択肢がなくて、私、お年玉を貯めていた私名義の通帳を持って行きました。おばあちゃんはそれを見て、『この引き出されてるお金はなんだ。何に使ったのか言ってみろ』ってまた怒鳴りました。『これがおまえが私の金を盗った証拠だ』って、お隣にも響くような大声で。――意味がわかりませんでした。なんで私が私の通帳からお金を下ろしていたら泥棒になるんですか? 私は、お父さんには言い出しにくい生活用品とかを、その引き出したお金で買っていました。もうお小遣いなんてもらえないから、預金の残高は減っていく一方でした。私はそのことを説明したのですが、何を言っても通じませんでした。おばあちゃんは、私を責めながら、自分の言葉に興奮して、ぼろぼろ涙を流すんです。『信じていた孫に裏切られた』と言いながら。――裏切られたのは、私の方です。私の方なのに――、なのに、おばあちゃんは泣きながら、じいっと、もの凄い目で私を睨み続けました。あんなに純粋な憎しみのこもった目を家族から向けられるなんて、想像したこともありませんでした。逃げたくても、おばあちゃんの手とは思えないほどのもの凄い力で私の腕をつかまれていて、いつまでも解放してもらえませんでした。その間、私は涙を見せるのが悔しくて、でも止まらなくて、歯を食いしばって、泣きながら、おばあちゃんを睨み返していました。――その後、おばあちゃんは何度もそういう騒ぎを起こすようになりました。財布や貯金通帳を敷布団のシーツの中とか、下着の中とか、部屋中のいろんなところに自分で隠しておいて、その度に自分で隠したこと自体を忘れるんです。私はそのうち、おばあちゃんと会話することを諦めました。言葉は通じないどころか、悪い方にしかとられなくて。何を言っても、何をしても、伝わらない。それに、どうせ――、どうせ、全部忘れるんです。――私には、あのおばあちゃんは受け入れられなかった。どうせ忘れるんだからと、ひどいこともたくさん言ってしまいました。ごめんなさい。私のおばあちゃんなのに。おばあちゃんと思えない。ごめんなさい。もう愛せないです。ごめんなさい」


 何に対して謝っているのだろう。誰に許しを請うているのだろう。

 僕は決して彼女を否定しない。断罪もしない。何を言っても、何をしても、ひたすらに肯定する。その僕に対して謝ることは、彼女にとって何を意味するのだろう。

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