第十二話
「疾走感と躍動感を耳で聞いて味わうために、これから本文の音読テープを流します。それを聞きつつ、各自セリヌンティウス視点で物語を想像して書きなさい」
もちろん、流れる音声が伝えてくるメロスは馬などではなく人間の男だった。彼女の顔が徐々に赤らんでいくのを、僕はただ黙って見ているほかなかった。
そして講義終了後。
「最っ低の男ですね」
そう言われても仕方がない。彼女の勘違いを利用してからかっていたのだとしか思えない状況だったのだから。
「本当に最低な男ですね、メロスは」
「うん……。え?」
「自己中の塊のような男ですね。やってることもう無茶苦茶ですよ。頼まれてもいないのに勝手に憤ってそのまま暴虐の王様を殺しに行くとか、どれだけ短絡的ですか。何の計画もなしに刃物持って王城に乗り込めば、そりゃあっさり捕まるでしょう、どう考えても。なんですか、あの人自殺志願者なんですか? そのくせ王様から死刑を言い渡されれば、『死ぬ覚悟はできてます。でも僕妹の結婚式に出席したいからいったん帰らせてください。あ、必ず三日以内に戻ってくるから信じて待っていてください。僕の幼なじみを人質として置いていきます。期限内に僕が帰らなかったら彼のこと殺していいです。彼の意見は聞いてないけど、大丈夫、親友だからわかってくれるさ』ですよ? そしてその後の自己陶酔の嵐! もし戻るのが間に合わなくってセリヌンティウスさんが殺されちゃってたとしても、あのメロスは友のためにじゃなくて自分のために泣くんですよ。自分のためにしか泣けない人なんですよ、あの男は。……すみません、語ってしまいました。でも罪悪感に自己陶酔する人を、私は許せないのです」
「……そう……」
「あんな身勝手に黙ってつき合ってあげるセリヌンティウスさんはよっぽどできた人なんでしょうが、私でしたら絶対無理です。『セリヌンティウスの視点で物語を再構成しろ』とのことでしたが、無理です、胸中を推し量る過程で殺意すら抱きます」
「……そう……」
「それに、メロスに困らされていたのって竹馬の友のセリヌンティウスさんだけじゃありませんよ、絶対。その中でもメロスの妹さんはかなりの被害者なはずです。きっと小さい頃から兄のあの暴走に巻き込まれて『やめてよお兄ちゃん、もうやめてよ』って半泣きになってたはずです。『ごめんなさい、うちのお兄ちゃん、周りが見えない人なんです』って兄の尻拭いをさせられてぺこぺこ頭を下げてまわってたはずです。ええ、我が事のようにわかります、我が事のように」
「……そう……」
「でも……、悪い人じゃないんですよ、メロスって。だから、憎めないんです。どれだけ迷惑かけられても、本気で突き放すことができないんです。セリヌンティウスさんも妹さんも、『しょうがねーなあ』とか苦笑いしながら、うんざりしつつも最終的には受け入れていたんです。きっとあのお二人が会話していたなら、色々愚痴った後、でも最後に『メロスだから』『お兄ちゃんだから』と同時に漏らしたりして、それでお互いに顔を見合わせてくすっと笑い合ったりしてるんですよ。ええもう目に浮かぶようです」
「……そう……」
「ああすみません、また語ってしまいました」
「ううん」
怒って、いないのだろうか? 訊きたいけれど、訊かない方がいいのだろうか? 話を蒸し返すべきではない?
僕がためらっていると、
「……あのですね」
彼女は改まった口調でそう切り出した。
「うん?」
「ごめんなさい。私実は、『走れメロス』のあらすじくらいは知っていたんです」
「え?」
「メロスが人間だって、ちゃんと知っていたんです。知っているのに知らないふりをしていたのです。だからもともと嘘を吐いていたのは私の方で、だからお兄さんが私に対して申し訳なく思う必要などなかったのですよ」
「……?」
彼女がそんなことをした理由がよくわからず、僕は首を傾げた。
「ちょっとした冗談だったのですよ。私がぼけてみせて、それでお兄さんからの突っ込み待ち状態だったわけです。『そうそうメロスは馬で――、って、なんでやねん!』的なノリを期待していたわけです。そうしたらお兄さんが思いもかけぬ方向からののり方をしてくださいまして……。私は最初それがお兄さん流のユーモアなのかどうか判断がつかず、様子見していたのですが……、そのうち段々面白くなってきてしまいまして。話がどこまで行くのか聞き届けてしまいました……。決してからかおうとしたわけでは……いえ、まあ、食堂のうどんちゅるちゅるの一件が根深く尾を引いていて『恨みはらさでおくべきか』の部分が顔を出した事実は否めませんが……それとこれとは別ですね。実に、まことに、すみませんでした」
「いや……、僕こそごめん。突っ込めなくて」
「いえ、そこに対する謝罪は一切要求していないです」
彼女は顔の前で『ないない』と手を振ってみせた。
「そして私の姿は他の人には見えませんので、お兄さんは『電話の向こうの相手に対して頭を下げる丁寧な人』に周りから思われてると思います。……さ、お互いに頭を下げ合ったところで、この話題はここまでにしましょうか。次の教室に移動しましょう」
『でも』、と立ち上がりながら僕は考える。でも、彼女は顔を赤くしながら音読テープを聞いていた。あの反応はどう解釈すればいい? やはり彼女は『からかわれた』と思い怒っていた、もしくは恥ずかしく思っていたのではないか?
だとするなら、本当の『嘘』は別のところにある。彼女は本当に『走れメロス』を馬の物語だと思い込んでいて、僕の作り話も信じ込んでいた。だが僕が気に病んでいるのを察し、僕のために『本当は知っていた』などと嘘をついた。それが真相なのではないか?
「早く行きましょう、お兄さん」
横顔を見つめていると、振り向いた彼女が微笑んでそう言った。
わからなくてもいいのだ、と不意に思った。
わかりたいと望むけれども、わからなくてもいいのかとも思う。このあやふやな感覚が心地よく、そして許されているのだと感じられた。
何に許されているのかもわからないままに、そう思った。
*
大学を出た後、僕たちは薬を受け取るために、昨日出された処方箋を持って病院内の薬局に行った。本当は、昨日の診察後すぐに受け取りに行くはずだったのだが、あの時は言いだせなかったのだ。彼女が病院の廊下で男性と肩をぶつけたあの件で、彼女の心はひどく追い詰められていると感じたから。
講義が全て終わってやっとそのことを彼女に伝えられた時、
『あ……。薬、まだだったんですね』
彼女は少し顔を曇らせ、
『困ります。ちゃんと言ってくださらなければ』
軽く非難しながら大きな目で僕をじっと見上げた。
『優先すべきものを間違えないでください。お兄さんの体は、お兄さんにしか守れないのですよ? 私の気が落ち着くまで待ってくれたりしなくていいです』
そう言われて、思い出す。昨日の朝、病院に診察してもらいに行くことを渋っていた僕に、彼女はこう言ったのだった。「体は、大切にしてあげてください。せっかく生きてるんですから。これからも、生きていくんですから」と。そして僕は、その彼女に約束したのだ。「うん、大事にする」と。
ちゃんと約束をしたのに。
『……ごめんね』
『……いえ、私こそ。……あの時はご心配をおかけし、すみませんでした』
『そのことは気にしないで』と首を振る僕を、彼女はなおもじっと見つめていた。そして、
『あのですね』
『うん?』
『私が頼れる人は、お兄さんだけなんです。そのお兄さんに何かあったら、私はどうなると思いますか?』
『……困ると思う』
『そうですね、大変困ります。では、お兄さんが自分自身を守ることは、私を守ることに繋がると思いませんか?』
『……繋がると思う』
僕の返答を確認した彼女は、
『ではそういうことですので、くれぐれもよろしくお願いします』
顔をツンと上向けながらそう言った。
『……』
『……』
微笑が、自分の口元を掠めるのを感じた。見ると、向かい合う彼女もいたずらめいた微笑を浮かべていた。
こそばゆく、くすぐったかった。笑い声を上げるでもなく、ただ口の端をかすかに持ち上がるだけの、目尻が緩むだけの、言ってみればただの筋肉の動き。ただそれだけのことが、なぜこんなにも心を揺さぶるのだろう。
けれどそれは、何故だろう、胸を締め付けられるような切なさをも内包していた。
*
薬局では僕たち以外にも十人近くが順番待ちをしていた。受付で処方箋を渡し、長椅子に座る。
本や備え付けの雑誌を読む人のページをくる音、顔見知り同士で会話する人たちのさざめきのような小声、子供のぐずる声、なだめる声、足音、呼び出しの声。
この音の中で、僕だけにしか聞こえていない音が、もしかしたら他にもあるのだろうか? あるいは、他の皆には当たり前に聞こえている音が、僕の耳には届いていないということもあるのだろうか?
皆同じなのではないだろうか、とその時ふと思った。
誰しも自分にしか見えないものがあり、自分にしか聞こえない音がある。気が付いていないだけで、もしくは気がつかないふりをしているだけで、それはあるのだ。そうでなければ寂しすぎる。
――寂しい? それはなぜだろう。
僕は左隣に座る彼女の横顔に目を遣った。彼女が気付いて、微笑んでくれる。それから、『どうかしましたか?』というふうに、少し首を傾ける。その傾きが水飲みのレバーにでもなっていたかのように、じんわりと流れてくるものがあった。流れて、たどり着いて、僕の中にしみる。
僕は潤いだした目を隠し、顔を伏せた。
砂漠の渇いた旅人のように。僕はこの涸れない井戸を欲していた。
ずっと。欲していたのだ。
*
「あ……」
彼女の喉から掠れた声が漏れた。ひどく驚いた顔をしていた。一点を見つめ、口を半開きにしている。そして、
「お父……さん」
一瞬立ちつくした後、駆け出して行った。その彼女が飛び出ようとした直前、彼女の前で病院の出口の自動ドアが閉まる。
「待って!」
ドアの向こうには、男の後ろ姿があった。その背中に、彼女は再度呼びかける。
「待ってください! お父さんっ!」
どんどんと、自動ドアの前で何度も足を踏み鳴らす。それでも開かず、今度はドアに両手をかけて横に開けようとする。だがやはり開かない。彼女は振り返り、僕を呼んだ。
「お兄さん! お願いします、ここを開けてください!」
呆気に取られていた僕は、その呼びかけに足を動かそうとして、だけど思うように動かなかった。反応が鈍い。脳からの指令が伝達されるまでに、間を何かに阻害されているかのように。
「お兄さん!」
「矢嶋十蟻さん。矢嶋十蟻さん。お待たせしました。カウンターまでお越しください」
同時に呼ばれ、ますます混乱する。
「お兄さん!」
よろめくように彼女のもとに行った。ドアが開く。彼女が駆け出す。僕はぼう――と立ち止まったまま、その背を見送っていた。追いかけもせず、ただ見ていた。
「矢嶋さん。矢嶋十蟻さん」
再度呼ばれ、僕は、受付に向かった。向かって、会計を済ませたのだろう。よく覚えていない。
病院を出た後、出口のすぐ前で、僕はずっと立っていた。視界の中、彼女はいない。アスファルトの駐車場、ほぼ隙間なく詰め込まれた車、向こうの道を流れていく人、車。遮るもののない陽光がそれらを白く染め上げる。白い。真白い彼女のワンピースは、その白さに同化してしまったのだろうか? だからもう、僕には見えない。彼女はいない。
*
あれは八年前――僕が小学校五年生の時だった。家飼いをしていた猫のミィが、家に入り込んで来た野良猫と喧嘩をした。外傷はなかったのだが、抱き上げようとすると痛がり、触れられるだけで小さな唸り声をあげた。そして餌をほとんど食べなくなった。水を少ししか飲まなくなった。僕はミィの死を間近に感じていた。
僕は両親にせがんで、ミィを車で動物病院に連れて行ってもらった。だが、医者に診せると、「ああ、原因はこれだろう」と、気軽な口調で、あっさりと診断を下された。肛門の近くに膿が溜まっていて、それを絞っただけだった。
詳しくは覚えていないが、猫は喧嘩をしていきむと、そこに便汁が流れ込んで腫れるのだそうだ。「心配はない。絞り出したから、すぐに治る」と。
食べられるようになったらすぐに猫缶をやろうと思って。僕は家に帰る途中スーパーで車を停めてもらい、なけなしの小遣いのありったけを使ってとびきり上等の缶づめを二個買った。
跳ねるような足取りで車に戻り、扉を開けた。
「あっ」という、慌てた母の声。
ミィは僕の開けた扉からするりと飛び出て、走って行った。一目散に、あれだけ弱っていたのが嘘のように。そしてそのまま、二度と戻ってこなかった。
幼い僕はいつか帰ってくると信じながら待ち続け、そしていつしか諦めることを覚えた。
*
どれほどの時間が経ったのだろう。一時間だったのか、それとも八年間だったのか。ゆらめく陽炎の中、彼女は再び僕の前に現れた。そして泣きはらした赤い目で僕をみとめると、足をもつれさせながら駆けて来た。
「お兄さん」
何が、あったのだろう。彼女は一声そう発すると、後はもう言葉にならずぽろぽろと涙をこぼし続けていた。
僕は彼女にかけるべき言葉を思いつかず、ただかけたい言葉だけを口にした。
「お帰り」
お帰り。




