第十一話
その時間が終わった後、廊下に出ながら、彼女は僕に何気ない口調で話しかけて来た。
「次の講義は何ですか?」
僕は喋ってもいいのだろうか。彼女の方から訊いて来たのだから、理屈で考えればそのはずなのだが。
わずかなためらいの後、僕はなるたけ軽く聞こえるような口調で答えた。
「ん。太宰治」
「ああ、彼ですか」
彼女は親しい知人の名前を聞いた時のように軽く頷きつつ言った。
「知ってるの?」
「生誕百周年とかで書店でもてもてですから、お名前くらいは拝見してますよ。ケータイ小説風に横書きにされてるのとか、表紙の人物イラストを漫画界の神的人気漫画家が担当していたりとか、色々と姑息な販売戦略が展開されていますよね」
「うん」
頷く。頷いてから、気付く。
「どこで見たの?」
「え?」
確かに今、書店では太宰治生誕百周年フェアが開催されている。でも、
「君と一緒に行ったデパートには、書店は入ってなかったし、書籍類もなかった。なら、君はそれを、どこで見たの?」
「あれ? ……そう言われれば」
彼女は首を傾げながら答えた。
「どこででしょう?」
「……」
「……」
僕と彼女の間を白い風船がふうわりと昇っていったみたいに、僕たちはつかの間立ち止まって、同じ方向を見つめていた。それから彼女は苦笑めいたものを浮かべ、
「わかりませんね。知識として以上には思い出せないようです」
そう言って、僕に歩を促した。
歩きながら考える。
『経験と知識の共有』、なのだろうか。僕が見たことのあるものは、彼女も見たことがある。ただし、そこで情報の取捨選択はなされている。僕しか知らないはずのことは、彼女は知らない。そして誰でも知り得ることなら、彼女も知っている。そういうことなのだろうか。
それとも、彼女が幻ではなく本当に幽霊なのなら、生前の彼女自身の経験なのだろうか。もしそうなら、彼女はごく最近まで生きていた? そして百周年フェアを、実際にその目で見ていた?
「太宰治はいつ生まれたんですか?」
「明治42年」
「西暦に直すと?」
「1909年」
「では今年は2009年、ですか?」
「うん」
「そうですか」
彼女は顔の位置はそのままに、目だけ動かして僕を見上げた。黒目の部分が、僕の顔に近くなる。
彼女は――、考えようとしている? 自分の中を探り、自身の過去を思い出そうとしている?
緊張に、顔から血の気が引いていくのを感じた。瞬きの仕方を忘れてしまった目が、彼女の姿だけを映し続ける。不安が胸壁を叩き、心臓が喉の奥からせりあがってきそうだった。――不安? 何が不安、だと言うのか。
彼女は乾いた唇を湿すようにちろりと赤い舌をのぞかせ、だけど思い直したようにその舌を引っ込め、瞳を和ませた。そして口を開け、「時間の方は大丈夫ですか? 次の教室に急ぎましょう」と、いつの間にか立ち止まっていた僕を再度促した。
「次の講義は、どんな内容なんですか?」
ぎこちなく右足を踏み出す僕に、彼女が問うた。僕は詰めていた息を吐き、頭を切り替えようとした。
「確か、『走れメロス』をセリヌンティウス視点で再構成してみるという内容」
さっきの『国語学概論』の音韻史は、おそらく彼女には退屈なだけだっただろう。扱うものが物語となれば、少しは楽しんでもらえるかもしれない。
「ああ、メロスですか」
彼女はゆっくりと頷きながら言った。
「察するに馬の物語ですね?」
「……?」
「メロスって馬の名前ですよね? 競争馬か何かですか?」
メロスはどう思い返しても人間の男だったはずだ。
……。
どうしよう、知らないんだ。
しかも彼女はタイトルからの連想でかなりの勘違いをしてしまっているようだ。どうしよう。『有名作だから彼女も知っているだろう』という前提で話をしてしまった僕が悪い。完璧に考えが足りなかった。このままでは彼女に恥をかかせてしまう。
僕は完全にパニックに襲われていた。つい先ほど『思考を切り替えよう』と思ったことは覚えているのだが、切り替える前まで何を考えていたのか、すでにまるで思い出せなくなっているくらいのうろたえぶりだ。
「……うん。メロスは競走馬として生まれた馬の名前」
――彼女の言葉を否定することが、僕はどうにも苦手だった。
「やっぱり」
彼女の微笑みが、胸に突き刺さった。
「そう言えば、『走れメロス』って『真の友情の物語』なのだと聞いたことがありますが、セリヌンティウスの方は人なんですか? 人と馬の友情という形ですか?」
「……うん。セリヌンティウスは牧場のオーナーの息子で、え、と……幼い頃から共に育って、セリヌンティウスはメロスのことを親友のように思っていた」
確かセリヌンティウスはただの石工で、メロスは村の牧人だ。……僕はいったい何を口走っているのだろう。
「なるほど。なんとなく見えてきました。何かの理由で走れなくなったメロスに対して、セリヌンティウス君が呼びかけるわけですね。『走れ。お願いだ、走ってくれ、メロス』と」
「……うん。メロスはとても速く走る馬だったんだけど、レース中に転んで骨折してしまった。その骨折はなかなか治らず長引いて、医者からは『たぶん治った後ももう走れないだろう』と言われていた」
かつてないほどの早口になっていた。コインを投入されたジュークボックスのように、彼女のリクエストに応えようと、僕の口は自動的に動いていたのだ。
「実際メロスは、恐怖心からもう走ること自体ができなくなってしまっていた。それでメロスのオーナーはメロスを見限り、殺処分にすることを決めた。だからセリヌンティウスは、懸命に『走れ、メロス』と呼びかけていたんだ」
喋りすぎだ。額にじんわりと嫌な汗が滲むのを感じた。
「う~ん、ひどいですけど仕方ないんですかねぇ。多分馬の飼育って相当お金かかるんでしょうしね。食べるだけの馬を養うことはできませんものね……」
僕の言葉を信じきった彼女が、切なげに吐息した。
罪悪感に、心臓が薄い雑巾のようにきりきりと引き絞られる。
言わなければ。本当のことを言わなければ。
乾いて上下がくっついた唇を、皮ごと引きはがすようにしてこじ開けようとした時、
「でもやっぱり最後はハッピーエンドになるんですよね? メロスは感動的に走り出すんですよね?」
彼女は、星を閉じ込めたようにきらめく瞳で僕を見上げた。
「……うん。え……と」
僕の内側で、思考のための言葉が途絶えた。
「……セリヌンティウスは病弱な男の子だったんだけど、雨の日も風の日もメロスの傍にいて応援し続け、それで無理が祟って倒れて危篤状態になったんだ。病院に運ばれた彼は、それでもなお病の床からメロスに呼びかけていた。『お願いだよ。走って、メロス』と」
「うんうん、それで? どうなりました?」
彼女は、絵本の読み聞かせを真剣に聞いている児童のような純粋な瞳で続きを促した。
「……その時メロスは遠く離れた馬房にいたんだけど、その聞こえるはずのない呼び声を聞いたのか、よろよろと立ち上がろうとした。弱った足腰では体重を支えきれず、メロスは立ち上がる度に地面に叩きつけられた。だが彼はついに馬房を飛び出して、セリヌンティウスのいる病院に向かい走り出した。街に突如として現れた暴れ馬を追って白バイが出動し、抜きつ抜かれつの攻防を繰り広げながらメロスは夜の首都高を疾走するのであった」
「んん? わりと現代的なのですね? なんとなくのイメージなのですが、もっとずっと昔のお話だと思っていました」
「……」
本当の舞台は古代なので、彼女のそのイメージは正しかった。――正しいのだが、すでに口に出してしまった設定を、今更覆すことはできない。
嘘を重ねて創り上げた塔が自分の上に崩れ落ちるイメージ映像が、頭の中で点滅していた。
「……一方セリヌンティウスはもはや意識も途絶え生死の境に静止していた」
崩壊を予感しながら、それでも、僕は走り続けるしかなかった。
最後まで、走り続ける。メロスのように。
メロス。――メロスは、そう、馬の名だ。
「家族の必死の呼びかけも彼の耳には届かない。『このまま意識が戻らなければ覚悟してください』という医師の言葉に、オーナーである父親は打ちひしがれる。抗いようのない『死』という絶望が彼を襲う。何かに救いを求めようとしても、彼にはすがるべき神の名さえありはしなかった。このまま息子が息絶えたなら、彼が最後に見た息子の顔は泣き顔で、彼が最後に聞いた息子の声は、『走れ、メロス』という、自分が殺処分するよう命じた馬への呼びかけになってしまう。己の心ない所業に激しい後悔と自責の念に苛まれつつも、『メロスのもとに無理をして通ったせいで息子は命を落とすのだ』と、――それが理不尽な憎しみであることを理解しつつも誰かのせいにしなければ心を保てなかった父親は、メロスを今すぐ処分してしまおうと思い立つ。『メロスを殺せ!』。荒々しく病室を出て行った父親は、部下に向かい開口一番そう言った。だがメロスがいたはずの馬房は空っぽだ。『馬への憎しみ』という頼りない一本の支柱でかろうじて立っていた父親は、部下からメロス逃走の報告を受け、崩れ落ちる。もはや彼には何もなかった。ただ失いゆく幼い命が病室の白い壁の向こうにあるのみだ」
「……やたらお父さんの心情に重点が置かれていますね?」
彼女は戸惑いを浮かべた瞳で僕を見つめていた。
「実は本当の主人公はメロスとセリヌンティウスではなく父親だったから」
「そうだったんですか?」
「そう、作者の心の中では」
断定すると、彼女は「はあ……」と曖昧に頷いた。
……ラストはすぐそこだ。もう数歩だ。萎えそうになる言葉の足を、心の中で鼓舞する。
「……それで、夜を日についで走り続けたメロスは、とうとう病院の敷地までたどり着いた。だが己の限界を超えた無茶な走り方を続けてきたメロスは息も絶え絶えだった。体のあちこちを痛めていて、体中の毛は全て抜け落ち、皮膚がほとんど露出している、見るも無残な姿だった。セリヌンティウスの病室は五階。メロスの立つアスファルトからは遥か高みだ。メロスは最後の力を振り絞り、天高く嘶いた」
「なるほど、そこまで教えていただければ結末は読めました。その声が病室のセリヌンティウス君の耳に届いて彼は目を覚ますわけですね?」
「そう。そして起き上がって窓に行き、メロスを発見する。虫の息で地上に倒れているメロスの姿を見て、セリヌンティウスは病室の窓から身を投げる」
「なにゆえそんなダイブを!?」
「メロスのもとに一刻も早く駆けつけたかったんだけど、セリヌンティウスにはもうそんな力は残ってなかったから。『メロス。おまえがここまで来れないなら僕から会いに行くよ』、と」
「直通エレベーター!? 急降下すぎますよっ」
「しかもちょうど病室に戻って来た父親の目の前で」
「目撃しちゃったんですか!? 止めようと伸ばした手は間に合わなかったんですか!?」
「そう。一生もののトラウマ」
「お父さんどれだけひどい扱いですかっ。 そんな後味悪いラストは嫌ですっ。何も彼らを殺さずとも、セリヌンティウス君が目覚めたところで終わらせてあげればいいじゃないですかっ。『父親は息子の命を救ってくれたメロスに感謝し、己を恥じてメロスとセリヌンティウス君に謝罪し、和解して円満解決』でいいじゃないですかっ」
思惑とは違い、激しい拒絶にあっていた。おかしい、なぜこんなことになったんだろう。僕は彼女の望むよう、ハッピーエンドの物語を目指していたつもりだったのに。
「……あ、でも、お兄さんはまだはっきりと『死んだ』と仰ってはいません。そうです。先ほど『最後はハッピーエンドになるんですよね?』という私の問いかけに、お兄さんは『うん』と答えてくださってましたし。……ふう、危うく騙されるところでした、お兄さんもお人が悪い。メロスもセリヌンティウス君も二人とも死んでいなかったのですね? 奇跡的に助かったのですね? そうですよね? そうなんですよね? そうだと言ってください」
「……四十年後。老いた父親の体を掠めるように一陣の風が吹き抜けた。彼の霞む目に、微笑むセリヌンティウスを背に乗せたメロスが風のように走って行く姿が映った。――僕的にハッピーエンド?」
「『死んで魂となってようやく結ばれた二人』的なハッピーエンドですか? それ、真の友情物語というよりは種族と性別を超えた純愛物ですよ……。むしろ私には、幸せそうな二人の姿は魂云々というより罪悪感が見せた父親の幻覚的なそれに思えましたが……、まあ、もういいです」
うろんな眼差しでそう言った彼女の顔には、ありありと『期待外れ』と書いてあった。
「……あ、先生が来ちゃいましたね。もう携帯をしまわなくちゃです、ここまでにしておきましょう」
いつの間にか予鈴が鳴り終わろうとしていた。
「これで安心して授業に臨めます、ありがとうございました」
『安心して授業に臨める』――? その彼女の言葉に僕は凍りついた。
なんてことだ。彼女はこの授業を受けるための前知識として本文のあらすじを知っておこうとしていたのか。ならば僕は、決定的に間違っていたのだ。
それに、よく考えれば――、よく考えずとも――、講義が始まれば僕の嘘などすぐに露呈するのだった。




