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第十話

「僕は、『変わった人』だとよく言われる」

「……え?」


 彼女の眼差しの先が、僕の鼻の上辺りで停止した。


「変だと言われる。おかしい、とも。僕は周囲から浮いているらしい」


 浮世離れをしすぎていて、憂き世を離れてしまっているような。

 ずれていて、重なっていない。異質。人は僕を見て違和感を抱く。


「だから、君のせいじゃない」


 僕が変でおかしいのは、彼女に取り憑かれたせいじゃない。


「確かに、君に一目惚れしたことに関しては、君の言うとおり、君が僕の心に干渉した結果であるという可能性は否定できない。でも、それとこれとは、話が別だ。少なくとも、君が感じた僕の異質は、僕にもともと備わっていたものだ」


 彼女が何か言いかけるのを、僕は止まりかけていた足の動きを速めることで制した。


「僕は、人の感情を理解することが苦手だ。目の前の人が何をどんなふうに考えているのか、まるでわからない。わかったと感じることがあっても、それはわかったつもりになっているだけだ。僕としばらく話していると、たいていの人はそのうち諦める。そして僕を避けるようになる」


 彼女は物言いたげに僕を見上げ、納得しかねているように眉間に皺を寄せていた。


「例えば、さっきの彼。君が『お知り合いですか?』と問うた人物。僕は彼が僕の知り合いなのかどうか、判断できない。僕には、人の顔の見分けがつかないから」


 だから先程彼女の問いに、ちゃんと答えられなかった。首を斜めに振ることしかできなかった。


「僕は高校を出るまで親と同居していた。だけどその親の顔でさえ、はっきりとしない。ぼんやりとは浮かぶのだけど、集団に紛れ込んでしまわれればわからなくなる」


 例えば母親に対して。

 母が家の中にいてくれれば、他に該当する人間がいないから、『母さん』とためらいなく呼びかけることができた。でも、一たび家の外に出られると、もう駄目だった。

 だから一緒の電車に乗った時などは、僕は服装と座席で母を判別していた。電車を降りた後は、決して目を離さないようにして付いて行った。

 母が「ちょっと待ってて」と手洗いに行った時は、僕は顔を俯けて待っていた。そうして向こうから「お待たせ」と声をかけてくれるのを、ただひたすら待っていた。


「肉親に対しても、血の繋がらない他人に対しても、僕は同程度の識別しかできないんだ」


 例えば、クラスメイトに対して。

 高校を卒業するまで、僕は席替えで一番前の席になることを極度に恐れていた。その席でいると、配布するよう教師からプリントを渡される頻度が高かったからだ。

 教室を構成するメンバーのそれぞれの名前が記載されたプリントを、僕は三学期の最後まで、頭の中の座席表と照らし合わせながら配っていた。

 しかし休み時間になると、その覚えた座席表もあてにならない。彼らは勝手に他者の席に座ることがあったからだ。自分のものと他人のものを区別できない彼らに、軽い苛立ちを覚えさせられたものだ。

 けれどその彼らも、他者を全く区別できないでいる僕よりは、はるかにましな存在だったのだろう。


「一人一人の顔をどれだけ覚えようとしても無理だった。どう努力すればいいのかも、わからなかった。僕がなぜこうなのかはわからない。『他人に関心が無いからだろう』と言われたことはあるけれど、それが正答なのかどうかもわからない」


 小学校の時、僕の挙動に不審を覚えた担任から問い質されたことがあった。その時、観念した僕は、耳まで赤く染まるのを感じながら、『他人の顔を見分けられないのだ』と告白した。

 その僕に、彼は言った。『花に興味のない人間が花の区別がつかないように、他者に対して無関心だから人の見分けがつかないのだろう』と。


 その時の担任の言葉は、なぜか釣瓶が井戸の底の方に落ちていくイメージと共に蘇る。


『クラスメイトに積極的に話しかけてみなさい。みんなのそれぞれの内面を知れば、自然に区別がつくようになり、名前も覚えられるだろう』


 名前は全員分フルネームで覚えています。名前の漢字も暗記しています。でもそれが個人と結びつかないんです。


『君はマイペースなところがあるから、独りよがりな行動をせず、なるべく周囲にあわせるようにしなさい。自分のことを理解してもらいたいなら、まず相手のことを理解するよう努めなさい』


 僕が知りたいのは、その具体的な方法です。どうすれば理解できるのかが、わからないんです。他の皆がどうして他人を理解できるのかが、僕には理解できないんです。


 けれどそれらの心の声は、外に発されることはなかった。


 その日の帰り道、僕はいつもと同じように、誰とも顔を合わさないで済むよう視線を地面に固定したまま足早に歩いていた。その足をふと止めたのは、どこかで嗅いだことのある甘い香りを感じたからだった。

 顔を上げると、藤の花が電柱に巻きつくようにして咲いていた。

 薔薇や百合などの、香りによってその存在を強烈に主張する花に比べれば、ずっと控えめに香る穏やかな匂い。

 いつも通る道なのに、今まで咲いていたことに気がつかなかったのか。それとも週末に一気に開花していたのか。僕は目を細めて薄紫の群れを見上げていた。


『花に興味のない人間は、花の区別がつかない』


 目の前にあるこの藤は、公園の藤棚に咲いているものと比べて房がだいぶ短いように見える。人の手が加わっているようには見えない。自生している山藤なのだろうか。香りはどうだろう、公園のものと違いはあるだろうか。自問したが、覚えようとして覚えていたものではないので、よくわからなかった。


『他者に対して無関心だから人の見分けがつかない』


 花の香りは、人の体臭にあたるのだろうか。ならば房の長短は、人の背丈にあたるのだろうか。僕にとって、花と人は同じ階層に位置するのだろうか。いや、覚えようと意識して子細に観察したなら、僕にだって藤の種類をある程度覚えることは可能だろう。

 僕は『人』のはずなのに――、


 そこまでだった。僕はそれ以上を考えるのをやめて、再び歩き出した。そしてその日以来、僕は周囲に対して自分の能力の欠如を隠すことを、ゆっくりとやめていった。


「もし君が、僕が君に惹かれた理由をどうしても明確にしておきたいのなら、今言ったことを理由にしておいてくれればいい」


 藤の香に包まれていたあの道の、遠い遠い先で出会った彼女を見やる。彼女は、僕の言葉の意味をはかりかねているのだろう、わずかに眉根を寄せながら僕を見上げていた。


「影が無いからこそ、僕は君を一目で君だと判断できる。そこに迷いは一切生じない。いつだって、君の目を見つめて、ためらうことなく呼びかけることができる。他人を見分けることができない僕にとって、影の無い君はこの曖昧な世界から僕を救ってくれる唯一の存在だと、そう断言することができる。君は、『一目惚れ』の原因は、君が僕に取り憑いて心に干渉したせいかもしれないと言っていた。だけれども、今言ったよう、君の影の不在が『一目惚れ』の原因である可能性もまた、充分にあると思うんだ」


 それはふとした思いつきで言っただけの、なかばこじつけのような理由だった。

 『心を操っているかもしれない』という可能性に関して彼女が僕に抱いているらしい、いくらかの罪悪感。それを払拭できるのではないかと、そう考えて言ったことだ。それに、この理由なら、『いつか僕に見捨てられるのではないか』と彼女が不安になる心配もない。


 ――あるいは、とも思う。もし彼女が僕の幻覚なのだとしたら、本当にその理由のためだけに彼女に影が与えられなかったのかもしれない、と。


『僕にとって都合のいい存在でいさせるために、僕が彼女から影を奪った』


 それが真相なのなら、僕はどれだけ彼女に詫びても足りないだろう。


 僕を見つめ続けていた彼女は、目を伏せた。それは、僕の目には、何かを諦めたような仕草に見えた。


「――でも、こんな理由を君が求めていなかったのなら、ごめん」


 彼女のことを、わかりたいと思う。彼女が今感じていることを、正しく理解できたらと思う。

 だから、話してほしい、喋ってほしい。

 言葉にしてもらえなければ、たぶん僕は解釈を間違い続ける。


「着いたよ、ここが教室」


 一番前の列の、中央の席に誘導する。


「この席ならいつも空いているから大丈夫だと思う。僕の姿を見かけても話しかけてくる人はいないから、隣に座られる可能性は低いよ」


 促されるまま席に着いた彼女は、俯いて、自分の膝を見つめながら、か細い声で言った。


「ごめんなさい。私、自分のことにいっぱいいっぱいで、――お兄さんを傷つけました。ひどいことを、たくさん言ってしまいました。ごめんなさい」

「『ひどいこと』?」


 それは、何を指しているのだろうか。

 問い返した僕に、彼女は一瞬言葉に詰まり、


「……お兄さんの事を、『変』、だとか、『理解できない』、だとか……」


 唇の間から押し出すようにそう言った。


 ああ、そのことか。理由がわかり、少しだけほっとした。そして『かまわない』という意思表示として、首を横に振ってみせた。


「言われ慣れているから、大丈夫。別に傷ついたりするようなことでもない。それに君が謝る必要はない。君は本当のことを言っただけだ。本当のことを言うことは嘘をつくことより明確に正しいはずだ。だから君は間違っていない」


 そこまで言ったところで、僕の口は彼女の手によって塞がれた。


 彼女は壁に手を付くようにしっかりと僕の口に右手を押し当てたまま、黙ってふるふると首を振っていた。唇を噛みしめ、否定の方向に、幾度も首を振っていた。


 半ば強制的に生まれた沈黙の中、彼女の小さな掌の熱が、僕の唇を中心に体の表面を伝わっていった。そして鼻腔から吸い込まれた呼気と共に、熱は体内にも押し入って来た。


 熱くて、熱い。


 一瞬にして体内を駆け巡った熱は、僕を内側から焼いた。焼いて、体の中に留まりきれぬように、出口を求めて眼窩まで駆け上った。両目が熱を持ち、潤み出す。なのに寒さに震えているように、僕の肩は細かく上下していた。


 何故なのか、何なのか。彼女の行動の理由はわからない。今僕の体を支配している、この衝動の名も知らなかった。


 涙がこぼれ落ちる寸前、唐突に、唇から熱が離れていくのを感じた。離された彼女の手を見、それからその手が指し示す先を見ると、僕のすぐ前、壇上に講師が立っていた。

 外の時間はいつの間に流れていたのか、講師の口からは出欠を確認するため名前が読み上げられているところだった。

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