第一話
「助けて」
どこからか奇妙に反響する声が聞こえた。
日の落ちかけた街路、途絶えた人影。ぞくり、と。悪寒に背中を撫で上げられる。
「助けて、下さい」
もう一度声。気のせいじゃない。どこだ? ――足。足の下から。
「誰か。助けて」
足の下には、直径一メートルほどの円形の鉄。まさか、
「誰かそこにいるんですか!?」
僕がアスファルトに膝をつき、マンホールの蓋に向かって呼びかけると、
「――ここ、ここです」
はたして、応えがあった。
「出して。暗い、穴の中に、閉じ込められて」
足を伝い上がるように声が響く。
「待っててっ」
蓋には、狭いがかろうじて指を一本引っ掛けることのできる穴があった。
右手の人差し指を穴に突っ込む。そしてそのまま蓋を引っ張る。何十キロあるのかわからない重みが指をきしませる。鉄の塊はわずかに持ち上がったかに見えたが、
「――っ」
次の瞬間には鈍い音とともに取り落としていた。
何か道具を使わないと指の力だけでは無理だ。熱さにも似た痛みをもった人差し指を右掌の中に握り込みながら、そう痛感する。
焦りが足元からこみ上げて来て、僕は思考が定まらないままあちこちに視線を飛ばした。ぐるぐると周囲を見回しながら両手でポケットを探り、そこから出て来たレシートを放り捨てたところで、ようやく僕はその方法を思いついた。
まず腰に巻いていたベルトを外し、細い方を蓋の穴に押し込んだ。ベルトが穴を通ることを確認した後、短く呼吸してから、腰を落とした。ベルトの両端を握り、足を踏ん張り、小さな掛け声と共に体を後ろにひき、
――そして僕は、初めて彼女を見た。ずらされた蓋の下、二メートルほどの深さの穴の底から、眩しそうに目を細め、僕を見上げる一人の少女を。
*
「助かり、ましたぁ~」
梯子として使われているのだろう。マンホールの中には、銭湯の煙突についているようなステップが一定の間隔で配置されていた。
狭い穴の中から、白い袖なしのワンピースとサンダルに包まれた細い手足をステップにかけて上って来、
「ほんと死ぬかと思いましたよ。感謝です。お兄さん、いい人です」
僕が伸ばした手につかまって地上に出てきた彼女は、満面の笑みでそう言った。
一目惚れ、というものがある。相手の容姿を判断基準の主成分とする、『人は顔ではない』と論じる人間にとっては唾棄すべき現象。その現象に、僕は巻き込まれた。
こうもたやすく、ああもあっさりと、何かの冗談のように、けれど厳然たる事実として。
彼女の名前も、性格も、好きなものも、嫌いなものも、どう生きてきたかも知らないうちに。出会ったその瞬間からすでに、僕は彼女に負けていたのだ。
微笑む少女相手に、僕は出し抜けに、
「好きです」
「……はい?」
「結婚してください」
微笑みが彼女の顔から遠のいていった。
「お兄さん、台詞間違えてませんか? ここは普通、『大丈夫ですか』とか訊く場面です。それかせめて『なんであんな所にいたの』とか理由を尋ねるところです。もしかして代わりに私の方が訊かなきゃいけないんでしょうか。あの……、『お兄さんの頭は大丈夫ですか?』」
彼女は僕に繋がれたままだった手に脅えた視線を遣った。
――失敗をした。僕は僕の思いを伝えたかっただけで、彼女を不安にさせる意図はこれっぽっちもなかったのに。
僕は名残惜しく手を離してから、彼女の問いに答えるべく頷いてみせた。『僕の頭は大丈夫だ』、という意味を込めた頷きだ。それから彼女の意思に応えようと、頷きの後に説明のための台詞を付け足す。
「コピー&ペースト」
『質問しろ』という彼女の意思に添うよう、彼女の台詞の中にあった『大丈夫ですか』と『なんであんな所にいたの』の部分をコピーして貼り付けたつもりだった。
「お兄さんが何を言っているのかがさっぱりわかりません!」
だが彼女は飛びずさり、彼我の間には永遠とも感じられるほどの距離が開いた。
急に動いたせいか、彼女の足元はふらついていた。それから、力尽きたようにその場に座り込んだ。腰までもある長い黒髪が彼女を覆うように広がり、小さな体を包み隠す。
座るだけの幅もない、姿勢を変える事すら難しそうなあの狭い穴の中。何時間閉じ込められていたのだろう。
マンホールは、僕が思っていたような下水道に通じるものではなく、底の方にケーブルらしきものが這っているだけだった。締め切られた蓋の下、音もなく、光もなく、生命を感じさせるものの一切が無い。想像するだけで、呼吸が苦しくなった。
僕はすぐ近くに自販機があったことを思い出し、そちらに足を向けた。自販機の横には僕が乗って来ていた自転車が停めてあった。ついさっきここで温かいコーヒーを買って一息ついていたところだ。長時間乗っていた僕は休憩がてら近くを歩いて、そして彼女と出会ったのだ。
ミネラルウォーターとア○エリアスを買って戻る。彼女はまだ元の場所にいてくれた。
お供えのように彼女の前に二本のペットボトルを置くと、彼女はまだ警戒を宿しながらも請うような瞳で僕を見上げ、「……いただけるんですか?」と確認してきた。
穴の中、どれだけ叫んでいたのだろう。その声は、しゃがれて聞き苦しかった。胸が痛んで、聞いているのが、苦しくなった。
僕が頷くと、彼女はすぐに手を伸ばし、抱え込むようにボトルを持ち、蓋を開けようとした。だが開かない。彼女の手は細かく震えていた。
彼女は「あはぁ」と力なく笑って、僕をもう一度見上げた。
「開けていただけませんか? 力を使い果たしてしまったようです」
よく見ると、彼女の手は皮がめくれ、血と泥と鉄錆が滲んでいた。しばらくは使い物にならないだろう。先程手を離してほしがっていたのも、僕への警戒と抵抗だけが理由ではなかったのだろう。
共鳴するように僕の人差し指も呻きを発する。鉄の重みのために突き指のように変形してしまっていた指は、少しだけ浮いた爪先から血が滲み、じくじくと痛んでいた。
ペットボトルを受け取り、開け、渡すと、彼女は貪るように飲んだ。
*
「矢嶋 十蟻」
彼女が落ち着いた頃を見計らって名乗りを上げる。
「はい? ああ、お兄さんのお名前ですか?」
頷き、手帳を出して、字を書いて見せる。
「へえ。十の蟻で『とあり』、ですか。珍しいお名前ですね」
「母親曰く、人から感謝される人間になってほしいという願いが込められた名前」
蟻が十匹で、蟻が十。
「それはもしや、『蟻が十なら芋虫ゃ二十』ですか!? 『ありがとう』と言われた時に混ぜっ返して言う言葉ですよね!?」
「感謝を素直に受け取れない、奥ゆかしさも含まれる名前らしい」
「申し上げにくいのですが、お兄さんはあまりお母様を信用しすぎない方がいいんじゃないかと思います」
水分を補充することで少しだけ潤った声で、彼女が喋る。ほんのわずかにだが、過負荷になるほどの緊張が和らいだように見えた。ならば成功だ。よかった。無理をしてでも喋った甲斐があった。
「と言いますか、お兄さん、長めの台詞も喋ることができたんですね。私はてっきり、『人間が一生の間に喋れる量は決まっているという俗説があるから、長生きするために自分に字数制限を設けている』とかの理由がある方なのかと思っていました」
「読心?」
驚いた。僕の心が読めるのだろうか。僕の生き方を見抜いたのだろうか。
――いや、それはさすがに冗談なわけだが。
「独身? 私が結婚しているかどうか、ですか?」
それは大変興味ある事項ではあるが。漢字が違う。
「はあ、多分ロリィな方相手であってもまだ結婚は難しい齢じゃないかな、と……。え……、もしや、本気で私のことを狙ってらっしゃるんですかっ? 冗談ではなくっ?」
貧弱な手足、か細い身体。少女は、多く見積もっても十四、下手すれば十一歳くらいに見えた。十九歳の僕とは、少なくとも五歳は離れているだろう。
「……それとも私は、結婚しているような年齢に見えるのですか?」
ふと彼女は戸惑うような顔になった。薄い胸に手を当て、ふくらみを確認するように見下ろし、そして問うように僕を見上げてくる。ひょっとして誘われているのだろうか、と勘違いしそうになる。
でもまあ、やはり勘違いは勘違いなのだろう。僕の人生で女性から好意をもたれたことなどこれっぱかしも記憶にないのだから。
『そんな年齢には見えない』と言う意思表示に首を横に振ってみせると、彼女はしばらく押し黙り、そして意を決したように僕を見つめて言った。
「あの、つかぬことを伺いますが、私とお兄さんは、初対面なんですよね?」
僕は頷き、言った。
「一目惚れ」
一目見た瞬間、暴力的なまでに彼女は僕の心に入り込んで来た。
僕は恋愛感情にはこれまで縁のなかった人間で、自分の好みのタイプというものがいまいち判然としない。だから彼女が僕の理想を集結したものなのかどうかすらわからない。もしかすると、理想は全然別の形をしていたのかもしれない。
けれど彼女を見てしまったから。僕の価値観は蹂躙され、ベクトルは全て彼女を向くよう置き換えられた。今日より先、僕は彼女の存在を全肯定し、最上のものと位置づけるだろう。
「……お兄さんがどれだけ惚れっぽいのかはこの際置いておくとして、では、お兄さんは、私のことに関し、何もご存じでないのですね?」
水とア○エリアスとでは水に先に手を付けること。過剰なまでの丁寧語。自分のことは『私』と言い、僕のことは『お兄さん』と呼ぶ。それ以外で知っているのは、彼女が僕に影響を与える存在であるという、そのことだけ。
「……笑わないで聞いていただけますか? 失笑で流さないでいただけますか?」
そう念押しする彼女は、けれど自身が半笑いで、台詞の続きを口にした。
「私は誰ですか? ここはどこですか? 私はなぜ、あんなところに閉じ込められていたのでしょう? 冗談ではありません。記憶喪失ごっこでもありません。何も覚えていないんです」
暗闇の中、募っていく死への恐怖。命の危険に晒され、闇に心を押しつぶされる。そのストレスは、どれほどのものだろう。太陽の下を歩いてきた僕には想像もつかない。
耐えきれず、心が正常に機能しなくなったとしても、おかしくはないのかもしれない。そう、記憶を失っても、おかしくはない。
「うち二つに関しては、初対面のお兄さんに訊いても答えを得られないはずの質問ですが。本当に、何も覚えていないのです。私は誰なんでしょうね。ここはどこなのですか? 私はなぜ、あんなところに閉じ込められていたのでしょうね」
「君は僕の君で、ここは君と僕がいるところで、君は僕と出会うためにあそこに閉じ込められていた」
ためらうことなく言い切った。
「私の『記憶喪失』という悲劇を勝手にお兄さんとの『運命の出会い』に流用されてます!?」
せっかく近づいていた彼女との距離が、前以上に開いてしまった。女の子は運命と言う言葉に弱いと聞いたことがあるのだが、都市伝説のたぐいだったんだろうか。
「……助けていただいたのに申し訳ありませんが、お兄さんにはここで見切りをつけさせていただこうと思います」
彼女はぺこりと一礼した。
「警察に頼ることにします。すみませんが交番か警察署の場所だけ教えてください」
距離は開きに開いていた。『命の恩人』という獲得ポイントは僕の失言の連続によって消費されつくしたようだ。
「近くにはない」
「……本当ですか?」
疑わしげに僕を見つめる。
「嘘はつかない」
「……本当に?」
頷く僕を、少女はなおも見つめる。
嘘はつかないというよりは、より正しく言えば、
「嘘はつけない」
「すごく本当っぽいですっ」
叫んだ後、肩を落とす。
「脱力です……。あまり認めたくはありませんが、ここまでの台詞、お兄さんはすべて本気で仰っていたように思われます。だからこその恐怖でもあるわけなのですが」
本気以外を以てして少女に対するような失礼をするつもりは、僕にはない。
「警察まで送っていく。自転車があるから、後ろに乗って」
「……わかりました。では、お願い、します」
ワンピースのスカートが後輪に絡まないよう手に巻いて、荷台に腰をおろし、軽いけれども確かな重みを僕が漕ぐペダルに載せて、そこに彼女はいた。
確かに彼女は、そこにいた。