第十七話【シエルとユリウス】
「すぅ……すぅ……すぅ……すぅ……」
隣から聞こえる規則的な寝息が、少女が熟睡しているであろう事を教えてくれた。
今、俺は半球をさらに二つに切った様な特殊な形のテントの中にいた。
丁度正面に焚き火がくるようにし明かりと暖かさを確保。
ユラユラと揺れる炎に照らし出されたシエルの寝顔はとても穏やかで熟睡しているな、と考えると同時に。ケイトさんが尋問の結果聞き出したシエルの扱いを聞いた後だとその寝顔は本来、この少女がするべきではないとオレに思わせた。
きっとこんな安心した様な寝顔を見せる事なく。
普通の、ごく普通の寝顔を見せるべきだと……
それにシエルの服。
返り血がカピカピに乾燥していてとても心地が悪そうだ……
それに髪の色も濁った緑色をし、さらに顔には泥と血によって出来た汚れ。
そこに涙の痕が幾筋か残っていた。
そのほとんどが横に流れている事からシエルが力なくうなだれ、横になった状態で涙した事をうかがわせる。
綺麗にしてあげたい。
ふと、そんな気持が湧き上がってきた。
そばにはサラサラと優しく流れる小川。
そこでなら洗えるのだろうか?
だが水が冷たいかも知れない。
シエルの弱った体に鞭を打つ様な事にはならないだろうか?
そんな心配が頭をよぎる。
もしもここでオレが魔法を使う事が出来たら…………
あの水を汲み上げ、温め、体を清めてあげる事が出来たかも知れない……
もちろん、鍋に水を汲んでそれを火にかけた後。川の水で温度を調整して、それを使ってあげる事もできる。
だが…………
オレは自身の左手を見つめた。
そこにはオレの手とそれを両の手で握るシエルの小さな可愛らしい作りの手。
そのしっかりと握られた手からは時折震えの様な物を感じ取る事ができ。気温の関係から見てもそれは寒さから来る物ではないとうかがえる。
一度、ゆっくりと手を離して見たところ。シエルは泣き出してしまったのだ。
オレに少女を泣かす趣味はない。
さらにはこんな傷ついた少女を。
ギュッ
そんな音がしそうな程にオレの手を強く握るシエルの手。
オレは彼女に何をしてあげるべきなのだろうか?
そんな事、オレには分からない。
それに……彼女が求めている物をオレはきっと用意出来ない。
家族の温もり……
そんな物、オレには重すぎる。
パチパチと音を立て勢いを衰えさせる事なく燃える焚き火にヒョイと枝を空いた右手で投げ込む。
バキッと音を立て枯れ木が弾ける音。
魔法、か……
確か賊はシエルが物凄い魔法の使い手だと言っていたそうだ。
不意打ちで無ければ仕留められなかっただろうと開き直った賊の一人が自慢げに話していた。
シエルの首についた首輪。
ついていた枷の中で唯一ほっそりとしたそれは魔法を発動させる事を出来なくさせる一品らしく、賊は鍵を持っていないそうだ。
取引の相手が常に鍵を所持していて首輪は借りた形になるらしい。
「………………はぁ、」
自分の思考が少し嫌になる。
この話を聞いた時、彼女に詠唱を習えたら。なんて考えた自分の思考が……
確かに世の中ギブアンドテイクとは言うが気が引ける。
別に魔法のために彼女を助けた訳じゃない。
そう思っても思えない自分がいた。
もし、彼女に魔法を習えたらと考えてしまうのだ……
ケイトさんもハイトさんもシエルの年齢は分からないと言っていた。
だが体格から察するにオレよりは年上なのだろう……
精神面は考えたって仕方が無い。
もしかしたら今が凄く弱っているだけかもしれないし。
長寿ゆえに精神年齢の発育が遅いのかも知れないし……
見た目は十歳でも本年齢は八十歳。
なんてのもざらにいるらしいしな…………
「────合法ロリ……」
っと、何を呟いてんだオレは?
それは言っちゃ不味いだろ。
オレは紳士なんだから。
ん?
……今ちょっとルビがおかしく無かったか?
紳士。
変態。
うん、やっぱり気のせいだ。
そう気にしたら負けってやつだ。
なんて沈む気持ちを誤魔化すため、一人バカな事を考えながらオレは夜が明けるのを待っていた。
******
「……うぅ…………」
テントの入り口から差し込む朝日。
その眩しさでシエルは目を覚ました。
こんなに心地のいい朝は何ヶ月ぶりだろうか?
朝日で起きただけなのにそう思ってしまうほどの生活とはどんな物なのだろうか……
確かにシエルが一人で旅をしている頃は朝日で目覚めていたが緊張の中での目覚めだった。
いつ魔獣や魔物に襲われるか分からないからである。
さらには牢の中での目覚めは最悪だった。
いつ起きても朝か昼か、はたまた夜かも分からなくなる様な空間にじめっとした空気の中での目覚め。
並の精神では耐えられないであろう。
と、同時にシエルはブルッと身震いした。
もしかしたらこれは夢なのかも知れないと再び考えたからだ。
しかし、シエルは昨夜の出来事が夢ではなく、現実である事をその手の温もりから理解し。嬉しくなる。
隣で穏やかな寝息を立てる少年、ユリウス。
シエルの恩人だ。
恐らく彼はずっと手を握っていてくれていたのだろう。
もう一度目を閉じ、シエルは久々。
恐らく数年ぶりの人肌の暖かさを感じる。
そしてゆっくりと目を開くと、
こちらをじっと見つめる碧の双眸があった。
「──おはよう」
すぐさまユリウスはシエルに声をかける。
シエルの様子をうかがっているのか、その声は少し緊張の色を含んでいた。
だがシエルはそんな些細な事には気付かない。
今はただ、「おはよう」とかけられたその言葉に嬉しさを覚えていたのだ。
一人で暮らしていたシエルにそんな声をかけてくれる人はいなかった。
だからこその嬉しさである。
「お、おはよう……」
少し緊張しつつもしっかりと言ったシエル。
そのたどたどしさは今、この場面においては良かったと言えよう。
自分と同じ様に緊張しているんだ。という安心感の様な物と自分を怖がっているのかも知れないという不安。
だがその二つを押しのけてユリウスの中にあったのは可愛い、という感想であった。
その気持がユリウスの緊張をとき、頬を緩ませてくれたのだ。
「よく眠れた?」
「うん、ありがとう」
シエルは自分を気遣ってくれるユリウスの態度に嬉しさを覚えた。
里ではみんな他人行儀な所があるのだ。
シエルはこの数分の間に何年ぶり、という体験をいくつもする事ができたわけだ。
と、同時に少し顔を顰めたユリウスを見て不安になる。
もしかしたら気分を害したのかも知れない、と。
そんな不安が大きくなる中、もう一度ユリウスが微妙に顔を顰めた。
(───どうしよう)
と、シエルは焦っていた。
同年代、いやシエルよりは年下の男の子と接した事がない。
さらにユリウスは人族だ。
それがシエルをさらに不安にさせた。
「……ごめん」
唐突に謝るユリウス。
昨夜もだ。昨夜も唐突にユリウスが謝る事があった。
どうして彼が謝ったのか、シエルには理解でき…………た。
そう、まさに今、気づいた。
シエルはギュッとギュッと、不安になるたびギュッとユリウスの手を握っていたのだ。
意識せず無意識の行動。
そして、ユリウスはそれを理解していた。
シエルが不安なのだと。
だが「ごめん」と謝った理由は他にあった。
ギュッ、ギュッとユリウスの手を不安になりながら握るシエルの様子を見て。
不覚にも可愛いと思ってしまったのだ。
だが人との関わりが少なかったシエルにはユリウスの意図を察する事はもちろん出来ない。
だがこれ以上、ユリウスの手を握っていたら悪いと手を放す。
(────あっ)
声には出さなかったがシエルは気づいてしまった。
泥と血で汚れた自身の手。
そんな手でユリウスの手を握っていた訳だ。
寝汗。
いや、別に寝汗で無くとも両の手で人の手を一晩中包んでいたら当然中は蒸れる。
そしてその湿気により固まっていた泥と血が溶け、ユリウスの手を汚していたのだ。
「────ごめんなさい……」
今度はシエルが謝る番。
もしかしたらこれで嫌われてしまうかも……なんて不安の入り混じった声。
「…………ふふっ」
だが、見当違いにユリウスは笑ったのだ。
ユリウスの視界の先には掴む拠り所を無くしユラユラと彷徨うシエルの手。
それが時折、物欲しそうにギュッと握られるのだ。
ギュッ
唐突のユリウスの行動に驚くシエル。
汚したのが申し訳なく思ったシエルがわざわざ放した手を握ってきたのだ。
そして、
「一緒に洗いに行こう」
笑顔でそう言ってくれたのだ。
ユリウスはシエルの手を引いて小川の岸へと来ていた。
手を引いた理由は今にも倒れそうな見た目のシエルを一人で歩かせるのに気が引けた、という理由もあるが、大きいのはシエルが手を放したがらなかった。というところだろう。
別に口に出した訳じゃない。
ただ、ユリウスが手を放すと寂しそうに手を開いたり閉じたりするわけだ。
まあ、可愛いからいいんだけど。なんて思いながら手を引いて連れて来た。
「うーん、やっぱり冷たいか……」
水中に手を入れてみると冷んやりとした小川の水。
今のユリウスには気持ちいいくらいだが、シエルには……
「気持ちいい…………」
だが予想外な事にシエルは水に手を入れてそう言ったのだ。
だが、これはユリウスを気遣っての発言かも知れない。と心配になるユリウス。
「大丈夫?」
「何が……?」
「その、冷たくて辛くないかなって?」
その質問に目を見開くシエル。
彼はこんな事まで心配してくれるのか、と。
知らず知らずの内にシエルの中でどんどん株を上げていくユリウス。
「大丈夫。冷たいのは好き」
シエルは微笑と共に言った。
その顔を可愛い、ではなく。ユリウスは美しいと思った。
事実、シエルは冷んやりとした物が好きだ。
暑い時期の小川の木陰なんてよく出かけて休憩したくらいだ。
「水は、好きなの。冬季の川は嫌だけど……。今は好き」
そんなシエルの言葉に安心したかの様に「そっか」と笑うユリウス。
そして小川の中を見つめた。
そこには石が組んであり流れが緩くなり水が溜まっている場所がある。
これは昨夜、ケイトとハイトの二人が作ってくれた物だ。
二人が体を洗う際に流されない様に、と。
ちなみに伝言役はサフィールに頼んだ。
メモを持たせて持って行ってもらう訳だ。
片方づつ、ゆっくりと足を入れていくシエル。
一瞬、くっと顔を顰めるもそれは水の冷たさに驚いたから。
その顔はすぐに笑顔に変わる。
完全に両足を川に突っ込んだシエルは、太ももの辺りまで浸かっていた。
およそ深さは50センチと言った所か。それが岸に近づくに連れ浅くなり。逆に深い所では1メートル程の深さがある。
服が濡れる事を気にせずに腰を屈め顔を洗うシエル。
少しスッキリした様な表情を浮かべると、シエルは…………
──服を脱いだ。
上に着ていた服をスッと脱ぐシエル。
そこには不快感から解き放たれた様な表情が浮かんでいた。
だがここでユリウスの方を見て表情を曇らせる。
ユリウスが驚いた様な、焦った様な、なんとも言えない顔をしていたからである。
「…………Yes、Lolita、No Touch」
まるで呪文を唱えるかの様に呟いたユリウス。
胸に手を当て盲目し唱えるその姿は神官のようだったと言えよう。
これは前世で交わした約束でもある。
今や名前も顔も思い出せない一人の友人。
その一人に言われた言葉だ。
『おい×××。お前のその癖、治せよ。なに自然な動きで幼女の頭を撫で撫でポンポンしてんだよ……(羨ましい)。まじで近所の主婦がお前の噂をしてたぜ……いい噂だったけどさ(くそっ)。ひとつ俺からお前への忠告、いや約束だ。いいか? ────
──Yes、Lolita、No Touch」
ユリウスは過去を思い出しながらもう一度呟く。
別に自分の事を幼女趣味だとは思っていない。
ただ、その時の友人の妙に言い慣れた様な綺麗な発音が耳に残っていただけである。
そしてユリウスは賢者の心を持ち、その閉じた瞳をゆっくりと開いた。
(よし、視界はクリア。良好だ。目の前には今すべき事がある。さあ、レッツウォッシュ!)
カッと音がしそうな程に目を見開き頭上に手を上げる。
「──タオル」
そう一言呟き手を下ろすとその手にはタオルが握られていた。
これは透明化を使った状態で頭の上にいるサフィールからタオルを取り出したのだ。
ここからユリウス無双が始まる。
「──ふぅ、」
小川の岸辺、そこにある岩の上にちょこんと座ったシエルは息を吐いた。
今、シエルが着ているのはユリウスの服。
少し丈が長めの物だ。
そして、シエルはそばにいる不思議生物。サフィールをつついていた。
つつく度にぷるんと揺れる赤いボディー。
それを嬉々として楽しむシエルの様子を見ながらユリウスは微笑を浮かべた。
ユリウスは始め、サフィールを見せた時に驚くだろうな、と思っていた。
だが案外簡単にサフィールは受け入れられたのだ。
体を洗い終わって直ぐ、シエルは違和感に気づいた。
ユリウスが色んな物を取り出しているのを眺めていた時の事だ。
(ユリウスも魔法の鞄を持っているの…………)
「────お父さんの鞄!!」
そう、シエルはいつも自分の持っている鞄がない事にやっと気づいたのである。
父が唯一、自分に残してくれた物。
今はどこにいるか分からない父の形見。
そんな大切な物が無いのだ。
今まで肌身離さず持っていたのだが賊に捕まった際、奪われてしまったのだ。
「──エル。シエル?」
ユリウスの声でハッと現実に戻されると同時に……シエルの瞳から涙がこぼれ落ちた。
もう、父の鞄は戻ってこない。と思ったからである。
だが、
「もしかして、これ?」
ユリウスが事も何気にシエルに父の形見を差し出したのだった。
「────っっ」
シエルは息を呑んだ。
どうしてユリウスが持っているのかと思う前に驚き、感極まったのだ。
一生戻って来ないと思っていた物が帰って来た。
こんなに嬉しい事は無い。
「ど、どうして……?」
ここでやっとシエルは疑問を口にする。
どうしてこれをユリウスが持っているのかと。
ここでユリウスは考えた。
(やっぱり、正直に話した方がいいのか? サフィールの紹介もスムーズになりそうだし……)
「実は……」
そう言ってユリウスは頭上へと手を伸ばす。
すると、そこから赤いスライムが現れた。サフィールである。
「こいつがさ、その鞄はとっておいてって言うから、さ……」
そう言ってユリウスはサフィールを両手のひらで水を掬う様に持ちながら言った。
「──ありがとう!!」
それは?
なんて疑問を発する事なく。
シエルは感謝の意を伝えたのである。
そしてサフィールの紹介を終えた後、岩の上ですっかり意気投合し遊んでいるのである。
言葉は通じないはずだが何か通じ合う物があるのか、二人は楽しそうに過ごしている。
ユリウスはその間、考え事をしながらその様子を眺めていた。
そして決心した様に一つうなづきシエルに近づく。
「シエル……」
「どうしたの……?」
不思議そうに首を傾けユリウスの目を見るシエル。
その右手は今もサフィールをつついていた。
「シエル、シエルはこれから……どうするの……?」
「────っ」
その時のシエルの顔を見てユリウスは心を痛めた。
苦しそうで、悲しそうで、辛そうで…………
そんな負の感情が見て取れたのだ。
「シエル……」
「──わ、私は、旅を続ける……」
ユリウスの言葉に被せるように言ったシエル。
その伏し目がちな顔には苦痛、恐怖、そんな感情が見て取れた。
シエルが何を考えてるかなんて簡単に分かる。
「シエルは、さ。共通語が喋れるの?」
その言葉にふるふると首を横に振るシエル。
「私が、喋れるのはネライダ言語、だけ……」
やっぱり、とユリウスは思う。
「それじゃあ、この世界は生きていけないよ」
少し落ち着いた様な口調で言うユリウス。
そして辛そうな顔をするシエル。
だが顔に出さないだけで辛いのはユリウスも同じだった。
「それに力は?」
そう聞かれ「ある」と答えようとしたシエルは自分の首輪に気づく。
魔法を封じる首輪だ。
「…………」
ユリウスはシエルの辛そうな顔を見て自己嫌悪しつつも言葉を続ける。
そして、
「今のシエルじゃ、この世界は生きていけない」
そう、断言した。
力も無ければコネも無い。
さらに言葉も通じない。
ないない尽くしのシエルではこの世界は生きてはいけない。
魔獣や魔物に襲われ力尽きるか、人攫いに会うのが関の山だろう。
シエルだってそんな事は分かっている。
分かっているのだ……
「だからさ……」
こんな役立たずはいらない。
そう言われるのかも知れない。
ユリウスはそんな人では無いと理解しつつもそう考えてしまう。
もう、聞きたくない。
これ以上、ユリウスの言葉を聞きたくない。
そう思うシエルにユリウスが言う、
「だからさ……だから、僕と一緒に来ない……?」
そんな、そんな希望の様な言葉をかけられると、シエルは思いもしなかった。




