彼女がブーツを嫌う理由
架空の街、船乗り×船員の少女
――ザッ
甲板の片隅で膝を抱えて座り込んでいたリリアの視界に長身の影が映った。
その足はブーツを履き船を下りて桟橋を歩いていく。
リリアは、彼がブーツを履くのが嫌だった。
昨日、ヴェルガの港に到着した船はその日の内に荷を下ろし、次の荷が積み込まれるまでの七日間この港に停泊する。その間船員は船のメンテナンスと食料、医療道具などの買出し等をするが、その他は自由に久しぶりの陸地での生活を楽しむ。
この船の料理人であるリカルドの娘、リリアは幼い頃母を亡くしてからはずっと父親についてこの船に乗っている。船員は家族も同然だった。――たった一人を除いては。
ジェンナーロ・アストーリは若き副船長として船員を取りまとめる人望ある若者だ。鋭い黒い眼差しと日に焼けた浅黒い肌に筋肉質でしなやか身体……ザックリと適当に切られた黒髪は紐でひとつに結わえている。額から左の眉にかけて大きな傷があるが、それすらも彼の魅力になってしまう不思議な男だ。
よく笑いよく食べ誰よりも喧嘩が強く人を惹きつけるジェンナーロの事を、船長も一目置いている。港町の商会に手続きに行っている間、船の全てを任せているのがその証拠だろう。
ジェンナーロはいつも裸足だ。その方が帆を張る時も、急な方向転換の時も踏ん張りがきくからと、靴もサンダルも持ってはいるがそれらはいつも自分の船室に置いている。
リリアは、そんなジェンナーロがブーツを履くのを見るのが嫌いだった。
「ジェンナーロ、女のとこに行ったんだな」
考えたくも無い事をサラリと言葉にされ、リリアは声の方向を睨んだ。
視線の先には船に乗って二年になる新米のアルマンドが居る。
「きっと、アデリシアのとこだぜ。昨日飲みに行った食堂に居たいい女。すっげおっぱいデカくてさ。お前とは大違い」
アルマンドはリリアの気持ちを知っていながらわざとこんな言い方をする。
「うるさいな」
「お前、まだジェンナーロの事想ってんの? 無理だって。お前みたいなガキ、相手にしねえよ」
「うるさいな! アンタだって、あたしと同い年じゃないのさ!」
それに、リリアはガキではない。十六歳はこの国ではれっきとした大人の女性で、結婚だって認められている。
「そんな意味で言ったんじゃアリマセーン。経験値が足りねぇって言ってんの。そーゆー意味では俺の方が大人でーす」
「な、なによ……アンタいつの間に……」
悔しさが声に滲み出て、それに気付いたアルマンドはフフンと笑った。
「知りたい? なあ、俺が教えてやろっか? お前だってそれなりにできるようになったらジェンナーロだって相手にしてくれるかもよ?」
「――え?」
そんなとんでもない提案にも一瞬リリアの心が揺れた。それ位、ジェンナーロはリリアを女として扱ってくれないのだ。
「ちょっと! あんた達! そこで喋ってるだけならこっち手伝ってくれない?」
船医であり、この船の数少ない女性船員のエリザが声をかけ、リリアの思考を断ち切った。
「は、はーい! 今行くわ!」
慌てて立ち上がったリリアの腕をアルマンドが掴み上げる。
「な、なに――」
「明日、港の倉庫裏に来いよ。いいか。船から見て右から三番目の倉庫の裏だ。裏口、壊れてんだ。穴場だぜ? 誰も来やしない。な?」
リリアはその腕を力任せに振り解いたが、アルマンドの囁きが耳から離れなかった。
その日、船の中で食事を済ませたリリアは甲板に出てまだ戻らぬジェンナーロを待っていた。
父親を世界一の料理人だと思っているリリアは外食をしない。
港街の灯りが一つ、また一つと消えてもなかなかジェンナーロは帰って来なかった。
今日はもう帰って来ないのだろうか――船員だからといって、必ずしも船に戻って来なければならないという決まりは無い。現に、数人船に戻らずに恋人もしくは愛人の元に行っている船員も居る。女を買っている者も居るだろう。
もしかしたらジェンナーロも……それを考えると、リリアは胸が引き裂かれそうだった。
ジェンナーロは船を下りてもモテる。一度、父親に買い物を頼まれて一人で港町を歩いて居た時に、両脇に女性をはべらせているジェンナーロを見た事がある。彼らが向かった先には宿屋があって、リリアはそれ以上見ていられずに逃げ帰って来た。それ以来、港町に行くのも億劫になってしまった。海の上に居る間、ジェンナーロは誰の物でも無い。船が港に着かなければいいとさえ思ってしまう。
邪魔になるからと定期的に父親に切られているリリアの髪は、ジェンナーロよりも短くて細長い首がむき出しだ。日に焼けてそばかすが目立つ顔は目がやけに大きくて、一見すると少年のようにも見える。ささやかな膨らみしかない胸も、薄いお尻も少年ぽさに拍車をかけているとしか思えない。
(ほ、ほんとに経験を積んだら女っぽくなるのかな……世の中の女の人ってそんな風に女性っぽくなるのかな……)
本来ならば母親や同年代の同性の友人から聞けるのだろうが、残念ながら今のリリアにそんな存在は居ない。エリザに聞いてみようかと一瞬思ったが、これ以上ジェンナーロへの想いが船員仲間に知られるのは避けたかった。
ずるずると座り込み、膝を抱えて丸くなってぐるぐると同じところを巡る思考の渦にどっぷり嵌っていて、リリアはジェンナーロが戻って来た事に気が付かなかった。
「おい。具合でも悪いのか」
特徴のある低音が聞こえ、リリアの胸はドキリと高鳴った。
顔を上げると、ジェンナーロが身を屈めてリリアを覗き込んでいる。
「じぇ、ジェンナーロ……おかえり。あの――」
だが、次の言葉は喉に張り付いて出てこなかった。
夜の潮風にのって、ジェンナーロからバラの匂いがしたのだ。
リリアは泣きそうになった。ジェンナーロはいつも太陽のような匂いがする。お日様の匂いだ。そんなジェンナーロからほんのりバラの香りがする。
ジェンナーロはそんなリリアの思いには気付かず、気遣わしげに手を伸ばして頭を撫でようとした。
「おいっ! リリア!」
リリアはジェンナーロの手を思い切り払いのけて、船室に駆け戻った。
途中、涙が溢れて仕方がなかった。
翌日は洗濯の日だった。まだ船内で一人前として認められていないリリアが、唯一船員一上手にできる仕事だ。
船員は各自の部屋の前に洗濯物を出しておく。リリアはそれを回収してまわると、大きなカゴに入れて船を下りた。
港の近くに洗濯場がある。今日はそこで午前中いっぱいかけて洗濯をする予定だった。
一枚一枚丁寧に石鹸で擦り汚れを落としていると、洗濯の山からジェンナーロのシャツが出てきた。手に取ると、ふわりとまだバラの香りが漂ってリリアの心に重く圧し掛かった。
「香水ね」
その声にふと顔を上げると、隣で腰掛けて洗濯をしている若い女性と目が合った。
「え?」
「そのシャツよ。今この港町でバラの香水が流行ってんだけど、それはすごくいい香りがする。きっと高級品だわ。シャツに移っちゃう位なんて、贅沢な使い方ね。お姉さんに、そんな良い香水、一滴耳の下に塗るだけで充分だって言っときなよ。勿体無い」
パッと見ただけで香水の持ち主がリリアでは無い事は分かるのだろう。“お姉さん”という言葉にリリアは酷く動揺した。初対面の女性からも、自分は香水なんて似合わない小娘だと思われているのだ。
「……分かったわ。そうする」
曖昧な笑みを返すと、それで満足したのか女性も自分の洗濯に視線を戻した。
水を含んだ洗濯物は、いくら絞っても重い。「よいしょ」と持ち上げて船に戻ろうとすると、荷を保管する倉庫の傍を通りかかった。昨夜のアルマンドの言葉が思い出され、リリアは足早に倉庫の横を通り過ぎた。
来るつもりなど無かったのに、午後になって洗濯物を取り込むと夕食の時間までやる事が無くなってしまい、ついつい倉庫に足が向いてしまった。
アルマンドが言っていた三番目の倉庫の近くて、リリアはキョロキョロと辺りを確認する。
午前の内に船の荷物は下ろされる為、倉庫周辺には誰も居ない。きっとからかわれたんだ……安堵なのか、少しの寂しさなのか、原因の分からない溜息を一つ落とし、船に戻ろうとしたリリアの肩に男の手が乗った。
「リリア、来てくれたんだな」
いつの間にかすぐ傍にアルマンドが立っていた。
「ちが……。あたしはただ、話をしようと思って……」
「何言ってんだよ。こっち来いって。ちゃんと分かってて来たんだろ? ホラ、手ぇ焼かせんなよ」
強く腕を引かれて、リリアの姿は徐々に倉庫の影に隠れてしまった。
急に日陰に入り、倉庫街特有の薄暗さがリリアを包み込む。急に怖くなって、リリアは力一杯抵抗した。
「嫌だっ! アルマンド! 本気じゃないんでしょう!? ねぇ! 放して!」
すると、チッと舌打ちしたアルマンドがピゥッと鋭い指笛を吹く。すると、それを合図に倉庫の壊れた裏口から男が二人姿を現した。
「や、やだ! 誰よっ! やだっ!!」
腕はそれぞれアルマンドと男の一人に掴まれ、リリアは足だけで踏ん張るがズルズルと引きずられる。だが、それに業を煮やしたのかもう一人の男がリリアを思い切りひっぱたいた。
「キャアッ!」
左の頬がカッと熱くなり、頭がクラクラする。足の踏ん張りがきかなくなり、よろめいた。
リリアを殴った男はリリアの力が緩んだのを知ると、屈んでリリアの両足をすくい上げた。
「やだ……止めてよぉ……」
まるで荷物のように運ばれるリリアは、恐怖で涙が止まらない。殴られた痛みで左目がうまく開けられない。リリアは何も見ていなくなくてギュッと目を閉じた。
男達が立ち止まり、ギギギ――と倉庫の扉を開ける音がした。もうリリアは抵抗も、声を上げる頃も出来ずにいた。
すると、一人の男のうめき声と同時にリリアは地面に落とされてしまった。
「イタッ!」
強かにお尻を打ちつけ、余りの痛さに悲鳴を上げたが、男の手が離れたチャンスだ。だが、逃げようとするも足がガクガクと震えて上手く立てない。それでもリリアはアルマンド達から逃げようと、這って移動した。手も膝も鋭い小石で切れ小さな傷が沢山できて血が滲んだ。それでも逃げなければ――そんなリリアを逞しい腕が力強く抱き締めた。
先程の恐怖が甦り、リリアは激しく抵抗した。手にした小石で力一杯叩いてもその腕は解かれない。
「やだっ! やだぁ!」
「リリア! 大丈夫だ! もう大丈夫だから!」
リリアの耳に入って来たのは、大好きなジェンナーロの声だった。
リリアの手から石が落ち、コロコロと転がる。
ジェンナーロはリリアを座らせると、そっとリリアの左頬に大きな手の平を当てた。
「熱い……ひどく殴られたか? ごめん……間に合わなくてごめんな」
腫れた左目はぼんやりしていて、ジェンナーロがよく見えない。だが、ジェンナーロがとても苦しげに顔を歪めているような気がして、リリアはそっと手を伸ばした。するとその手もすぐにジェンナーロに取られてしまった。
「ああ……手までこんなに傷だらけになって」
土や傷で汚れた手の平に、そっとキスを落とす。まるで大事な物を扱うように、そっと。
リリアはぼんやりと見えるこの光景が信じられなかった。
「アルマンドは停泊地で仲間を作っては女性を誘い出して乱暴していたんだ。それを街の婦人組合長に相談されていて、見張っていたんだが……今日お前の姿を見て……気が狂いそうだった」
リリアを確認するかのように、ジェンナーロは強く抱き締めた。
身体に押し付けられた頬が傷み、リリアが身体を強張らせると、ジェンナーロは小さな声で謝り力を緩めた。それでも決してリリアを離そうとはしなかった。
「アルマンドは……あいつらは……」
「死んではいないと思う。だいぶ酷く殴ってしまったが、気を失ってるだけだろう。一緒に駆けつけた警邏隊に押し付けた」
もうあの男達は傍には居ないのだ。助かった……ようやく安堵し、リリアは声を上げて泣いた。
「こ、怖かった……怖かった!」
「もう大丈夫だ。大丈夫だから。ごめんな、痛かったろう」
えぐえぐと泣き、涙はどんどんジェンナーロのシャツを汚すがジェンナーロはそれでもリリアを離さなかった。
「どうしてアイツの誘いに乗ったんだ。なんて言われてここに来た?」
「ジェンナーロに……ジェンナーロに女として見られてないってあたし……悩んでてっ……ック。そしたらアルマンドが……」
今まで必死に我慢してきた想いが嗚咽と共に流れ出す。こうなるともうリリアは自分でも止める事が出来なかった。
「……あほか」
「あ、あほだもん……うぇぇぇぇ……」
リリアの涙を自分のシャツでそっと拭うと、ジェンナーロはリリアの腫れあがった左瞼にそっとキスをした。
「違う。あほは俺。ごめんな。恋心を我慢して苦しいのは俺だけだと思ってた。お前を壊しそうで、そうなったら自分自身を許せなくて……だから今は妹のように守ろうと思ってた。お前が、恋とか愛を分かるようになるまではって」
「……え?」
「なのに、お前はもう恋を知ってたんだな。言っておくが、お前が誰に恋をしようとも最終的には俺が掻っ攫うつもりだった。オイ、何ポカンとしてんだ。言ってる意味分かるか?」
「……は?」
「ったく。俺はお前を愛してるって言ってんの」
「……へ?」
突然の告白に、リリアはなかなかその言葉を飲み込めずにいる。
すると、「あぁもう!」と呟き、ジェンナーロが唇を重ねた。一瞬柔らかく重なった唇が離れると、すぐにまた重ねられる。だが二度目のそれは少し強く長くリリアの唇の上を動き、下唇をちゅうっと吸うと離れた。
リリアは呼吸がうまく出来ずにハフハフと荒く息をついている。ジェンナーロはそんなリリアを見てやっと少し笑った。
「こういう時は鼻で息をするんだよ」
「そんな事……言ったって、泣いてて鼻が詰まってるんだもの!」
「まったく……ムードねぇなあ」
そう言いながらも、ジェンナーロはまた唇を重ねた。鼻でうまく息が出来ないリリアがふぐふぐと苦しそうにジェンナーロの肩を叩いたところで、ジェンナーロはやっと唇を離してくれた。
「ほんとはもーっと濃厚なのしたいとこだけど……止めとく。頬、痛いだろ」
残念そうにそう呟いたが、リリアは意味がよく分からなかった。ジェンナーロへの恋心は自覚していても、恋愛のステップは無知なのだ。不思議そうにしているリリアを見て、ジェンナーロはこの先の苦労を覚悟した。
「あーあ。お前が十八になるまではっておやっさんにキツく言われてたんだけどな」
「えっ? パパに!?」
「まぁいいや。お前が手に入るんだもんな」
ニヤリと笑ってそう言うと、ジェンナーロは大切そうにリリアを抱き上げ、そのまま船に戻って行った。
その日の夜、ジェンナーロは左右の頬が腫れあがったというが、二人は幸せそうに微笑みあっていたというから、まぁいいか。