Time bomb game 〜限られた時間〜
Opening 動かぬ引き金
暗い夜の月明かりの中、路地の暗がりで影は女に銃口を向けた。
女には、この夜の暗闇の中では自分を狙う影を、見つけることは不可能だろう。
既に狙いは女に定まり、後は引き金を引くだけで良かった。
それなのに、影の持つ銃は揺れるだけで何時まで経っても、引き金が引かれることはない。
なんで撃てないんだろ?
人を撃つために嫌ってほど、訓練されたはずなのに……影は人を撃ったことはなかった。
いや、撃つことが出来なかった。撃つ機会は幾らでもあったのに、影はいつも撃つことが出来なかった。
今のように銃口を向け、狙いを定めるが、どうしても引き金を引くことが出来ない。
シミュレーションで何度も繰り返してきた行為なのに、それなのに実際に銃を生きている人に向けて撃とうとすると、引き金を引くはずの人差し指を動かすことは出来ない。
そうして気がつけば、影が狙ったはずの女は銃口の前からいなくなっていた。
影は上げられたままの銃口を降ろし、立ち尽くす。
「何故、撃たなかった?」
重圧のある男の声が耳元に付けられた無線機から響いた。
「……」
影は何も言わずに自分の手に握られた銃を見つめる。
「分かっているのか? もう後がないんだぞ」
「分かっているつもりです。でも、それでも撃てないんです……」
小さな、ため息が無線機から漏れて影は唇を噛締めた。
「帰還しろ」
「……了解」
そして影はまた暗がりに消えた。
Stage1 重なり合う命と死の協奏曲
空から落ちてくる水滴が地にぶつかり、激しい水音を立てる。その中に、微かだが誰かの走る音が流れている。
雨が降っているにも関わらず蒸し暑い夏の夜。
雨が止まることなく降り続ける中を、傘も差さずに木見彦は走っていた。
「くっそ〜アンラッキーだぜ」
無駄に英語交じりのセリフを吐き捨て、工藤木見彦は走る速度を上げた。
せっかく客が来ないという理由で、店長がバイトを早めに終らせてくれたのだが。木見彦はバイトの先輩に捕まり、話し相手をさせられて夜になってからバイト先のファミレスを出た。
しかも家を出るとき時間に余裕があったので、木見彦は軽い運動のつもりでバイト先まで歩いて来てしまっていた。
そして木見彦は帰る途中、見事に雨に出くわした。
木見彦の視界には一軒家が建ち並び、窓からは暖かそうな光が見える。それを木見彦が羨ましそうに、横目で見ているが、スグに視界が開けた。
そして木見彦の視界には何本かの木々が立ち並び、奥には芝公園と書かれた石柱が立っているのが見える。
芝公園は木見彦が住む県の中では最も広く、公園を一周するのに30分もかかる程である。此処を斜めに突っ切って行くと近道になるのだが、その公園の前で木見彦は立ち止まり、前に続くコンクリートの道と芝公園を交互に見ると意を決し、木見彦は公園に走りこんだ。
昼間なら躊躇することなく木見彦は公園に入って行っただろう。しかし夜の芝公園は暗く不気味で、出来る限り通りたくない場所である。しかも木見彦は怖がりで、基本的に遊園地などに行っても、絶対にお化け屋敷や絶叫マシーンに乗らない。それでも今は雨が降っているという緊急事態のため、悩んだ結果、怖さよりも帰りたいという想いが勝ってしまった。
公園に入った木見彦の足は、怖さのためか、だんだんと加速していく。それは木見彦にとってオーバーペースで、しかも本人はそのことに全く気付いていない。
当然、木見彦は公園の途中にある池の中盤あたりで力尽き、息を切らせて膝に手をついて大きく息をした。
木見彦の身体は熱く、そこに冷たい雨が落ちることでの気持ち良さと、服がべたつく気持ち悪さを木見彦は感じた。
膝に手をついて2、3分で、ようやっと息も整い始めた。息を整えた木見彦が顔を上げると、視線が池に掛かった橋に釘付けになった。
池を渡す橋の上に少女が立っていた。
理由もなく、意味もなく、ただただ少女は空を見上げる。
少女の黒く長い髪は雨の重さで一まとまりに、地面に下がる。
少女のワイシャツは雨に濡れて、白い肌にまとわりつく。
雨を落す黒い雲を、少女は視点の定まらない虚ろな目で見つめていた。
木見彦はその少女から目を離せず、耳には激しい雨音が響く。
今、木見彦が居る場所から少女の立つ橋までは結構な距離があって、木見彦には少女が誰かなどと判別することは出来ないはずだった。
少女が称野小百合でなければ……小百合は木見彦の大学の友人で、何かと行動を共にする仲であり、また木見彦が好いている相手でもある。
木見彦にとって、小百合の第一印象は物静かで影の薄い少女だった。小百合は成績もスポーツもこれといって出来るものはない。あえて云えばルックスと顔は誇れるものがあると木見彦は思っていたが、印象にそれほど残る少女ではなかった。
ただ、この物静かな少女が笑ったとき、木見彦はなんとも言えない奇妙な違和感に襲われた。最初に気がついたのは大学1年の夏、小百合が学校で女の子と楽しそうに話していて笑ったときのことだ。当たり前の光景、何の変哲もない普通の出来事のはずなのに何故か引っかかった。
最初は木見彦にも理由が分からなかったが、何日か見ているうちにその違和感の正体に気づいた。小百合の笑い方はどんな時でも同じだった。それは満面の笑みだが小百合はその笑い方以外、知らないかのように笑い方が一つしかなかった。
―――そう、小百合の笑い方は良く出来た作り笑いだった。
それから木見彦は小百合のことが気になるようになり、調べ、話をし、友人としての関係を作っていった。
あれから1年経つが小百合の笑い方は変わらなかった。それについて、木見彦は何度も小百合に聞こうと試みているのだが、結局は聞けずにいた。聞き辛かったのもあるが、一番の理由は木見彦が小百合のことを好きになってしまったからだろう。
嵐のような雨音が響く中、木見彦の身体は自然と走り出していた。
「サユリ!」
叫んだ声は木見彦自身も信じられないほどの音量だったが、すぐに雨の音にかき消された。橋の上の小百合は木見彦に気付くこともなく、ただただ、虚ろな目で黒い空を見上げている。
言い様のない恐怖と焦りが木見彦の体中に広がり、木見彦の身体は加速していく。
そうして木見彦は小百合の立つ橋に、一歩踏み込んだところで立ち止まった。
「おい! 何してんだよ!」
そう言って木見彦は膝に手をつき荒い息を吐き出した。
小百合はゆっくりと木見彦の方に顔を向けると、微笑んだ。
それは木見彦が始めてみる笑顔だった。それは下手な作り笑いで、分かりやすいくらいに疲れが見え、木見彦には悲しそうにも見えた。
「こんにちは、木見彦君」
小さく、いや小さすぎる小百合の声は木見彦には押し殺した嗚咽にも聞こえた。
「こんなところで、どうしたんですか?」
その声を聞くたび、木見彦は胸に締め付けられるような感触と虚無感を与えられる。そして、虚しさだけが波紋のように広がり、喉に何かを詰められたような錯覚すら、をも木見彦にもたらした。
その詰められたような感触を押し出すように、無理矢理に木見彦は声を吐き出した。
「お前は……何しているんだ?」
くぐもった木見彦の声は雨音に消されてしまい、小百合に聴こえたかどうかは木見彦にも分からなかった。
何の言葉もなく雨音だけが二人を包み、濡らす。涙のように……
ゆっくりと、小百合はまた空を見上げゆっくりと口を開いた。
「何もしてないよ。ねぇ、私は……」
その小さな声は聞き取り辛かったが、木見彦に聞こえたのは確かだった。
―――何をすれば良いのかな? どうしたらいいのかな?
ただし、本当にそう言ったのかどうなのかは木見彦には判断できなかった。ただ木見彦には小百合の頬に流れる水が、雨なのか涙なのかは判らなかった。
空を見上げていた。小百合が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。すっとその場から消えてしまうかのように小百合は倒れた。
木見彦は必死に走って駆け寄り、抱き起こす。彼女の身体は冷たくて、人間でないものの様にすら感じる。そして彼女の身体は雨と一緒に木見彦の体温を奪った。
「サユリ!サユリ!サユリ!」
この叫びに彼女は何の反応もしない。
焦りで木見彦には何をして良いのか分からず、そのまま数分の時間が過ぎた。
木見彦には彼女を放っておくことが出来なくて、結局、彼女を背負って自分の家に向かった。
背負った彼女は軽くて、何故か悲しくて涙が出そうになった。
一歩、歩くごとに彼女の重さは変わる。しかし軽すぎる彼女の重さは、木見彦にとって苦には成らない。代わりに守ってあげなければ、という勝手な気持ちを作らせた。
※
ようやく着いた木見彦の部屋は漫画やCDが散らかっていて、彼女を寝かすスペースが無かったので、とりあえず木見彦は自分のベッドに彼女を寝かせ、散らかった本とCDを重ねて部屋の端に寄せた。
それから木見彦は眠っている彼女の額に手を当てる。その暖かさが妙に気持ちよくて、しばらく手を当てていた。
熱は無いみたいだなって、このままの服じゃまずいけど……ででで、出来ないよな! などと多少不純なことを考えて、少し木見彦は顔を赤らめ、リモコンを使ってクーラーをドライにした。
そうして家の電話を手にとって、小百合の家に電話をする。少しの電子音の後、ガチャっと音がなると……
―――この電話は現在使われておりません―――
木見彦は少しの間戸惑いで固まるが、すぐに切って、再びダイヤルを押していく。焦りでダイヤルを押すスピードが上がる。そして、また受話器を取る。
「この電話現在使われておりません」
3回ほどそれを繰り返して、木見彦は息を止めた。どうしていいか分からず、受話器を持ったまま立ち尽くす。受話器からは電子音だけが流れてくる。
それをしばらく聞き続け、木見彦は諦めて受話器を置いた。
そして思い返す。
何故あんな場所に居たのだろう? サユリの言葉はどういう意味だったのだろうか?
そんなことを立ち尽くしたまま、一時間ほど考えていても、結局木見彦には分からず、独り言を吐いた。
「ま〜考えても仕方ないか」
そう苦笑し、予備の布団を出して木見彦は眠りについた。
※
誰もが眠りについた深夜に、電話の音が鳴り響いた。
トゥルルートゥルルトゥルルー
小百合は小さく木見彦の布団の中で丸くなって眠っている。壁に掛かっている時計を見ると深夜二時になろうとしていた。
そうして木見彦は受話器を取った。
「もしもし、夜分失礼いたします。久土木見彦様ですか?」
木見彦が聞いたことも無い、渋く淡々とした男の声が受話器から流れてくる。
「そうですけど、どなた様でしょうか?」
「貴方の部屋に今居る、称野小百合さんについて、貴方に話があります」
木見彦の身体は衝撃を受けたように、硬直し震える。
受話器を握る木見彦の手に力が入る。
なぜ、小百合が此処にいることを知っているのだろうか? という疑問が当然のように木見彦の頭に残る。小百合を背負って家に戻ってくるまでに、木見彦は誰にも会っていないはずだった。その疑問が木見彦に、言い様の無い不安を植えつけた。
返事をしない木見彦とは関係なく、淡々と電話の男は話し出す。
「称野小百合さんの体内には、爆弾が設置されています」
「……はぁ?」
余りに唐突過ぎる話を聞いて、木見彦は馬鹿らしくなって、電話を切ろうとまで思った。だが、次の男の言葉で木見彦の頭の中が真っ白になった。
「久土木見彦、1988年7月28日生まれ、B型、父、久土直也1956年11月4日B型、母、久土正巳1958年4月11日O型。
必要ならもっと細かく言いましょうか? 生まれた場所、何処の学校に通っていたか、学校の全ての成績でも言ってみましょうか?」
電話の男の自分を嘲笑うような口ぶりと、自分や家族について完全に調べられていることに、木見彦は気味の悪さだけでなく自分が遊ばれている様に感じ、耐え切れず叫んだ。
「……な、なんなんだよ!」
それを聞いて男はクスクスと笑う、笑いを堪えるように……木見彦の不安が引き上げられていく。そして男が言った“爆弾”という言葉が頭で何度も、何度も響く。
「申し訳ない、あまりに予想通りの反応だったので笑ってしまいましたよ。いきなり称野小百合に爆弾が設置されているなんて、信じてもらえるわけ無いですからね。色々と君と、君の家族について調べさせて貰いましたよ」
受話器を持つ木見彦の手に、さっきよりも強い力が加えられていく。大きな動揺と怒りで木見彦の表情は硬くなる。そうして、木見彦の口からは何かをすり潰すような声が出た。
「どういうことだ?」
「先ほど言ったとおりですよ」
威圧感のある木見彦の声にも、何の動揺も無いかのように男は答える。まるで予想通りだと木見彦に思わせるほど、淡々と余裕のある声で話す。それでいて木見彦に余裕を与えない、そんな話し方。
「だから、どうして小百合に、そんな物が付いてんだよ!」
「それは貴方に言う必要はありません。上から言われていませんので」
「っな!」
腹立たしさと悔しさが木見彦の胸の中一杯に広がっていく。それと同時に今までの小百合の記憶が頭に走り、男が言っていることがありえないということを、木見彦に教える。
そして男への疑いが浮かび上がってくる。その思考を読むかのように男の言葉が遮った。
「それと、お疑いでしたら彼女の心音でも聞いてみてください。きっと違う音が聞けますよ。とても良い機械音がね」
「ふざけるな! 何のためにこんなことする必要があるんだよ!」
「必要ですか? そんなものありませんよ。これはゲームですからね」
「……」
何の言葉も出なかった。意味が分からなかった。時間すら止まった様に感じる。
「ゲーム?」
そんな間抜けな言葉が出るくらいに、木見彦はその言葉に驚愕した。
「そう、ゲームです。遊びに面白い以外の理由は要らないでしょ? テレビゲームで人を殺すことに貴方はいちいち躊躇しますか? それと同じですよ。
違うものがあるとすれば、キャラクターが本物の人間ということだけですよ」
「……狂ってる。現実はゲームじゃねぇっ!」
そんな言葉が、考えるよりも早く木見彦の口から、怒号となって飛び出す。
「ククク、あははあははAHAHAHA」
受話器の外の男は人ならぬ声で、笑う。
そして男の声に木見彦は脅えて、身体は震える。嫌な汗が身体を伝う、背が冷たい、それなのに木見彦の頭だけが異常に熱い。
「狂っているか、久々に聞きましたよ。でも、本当に狂っているのは貴方達なのではないですか? 理性なるもので感情を押し殺し。いや野性を押し殺し、本当の人間の残酷さを無理に閉じ込めている。貴方たちの方が私から見れば狂っていると思いますよ」
震えが一瞬でとまり、頭の中の異常な熱が体中に、急速に広がっていく。
そして木見彦は言い返そうとするが頭の中で出ている言葉が、声にならない。思考は止むことなく回り続けるのに、その先に繋がる言葉は何も出てこなかった。
「……」
「失礼しました。話が逸れてしまいましたね。ルールの説明をさせていただきます」
熱くなった体が、ルールと言う言葉を聞いて、冷めていく。それは頭までも同じで怒りの部分は、冷たい分析と言う行動に冷やされていく。
「ルールの説明?」
「ゲームですからね。ルールが要るでしょう。それと目標もね」
木見彦の頭は話しについていけず、その意味に気付くのに数瞬を必要とした。
「このゲームを受ければ小百合は助かるのか?」
「簡単に言うと、目標がそれに当たりますね。そして助ける方法は、ある人を彼女か君が殺せば彼女の爆弾は止まります。佐藤祐一、君のクラスメイトです」
木見彦は彼女のためなら何でもする気でいた。例え人殺しでも彼女のためなら出来ると思っていた。しかし、佐藤祐一、それは木見彦にとって昔からの親友だった。
「他の……他の人間じゃ駄目なのか……?」
「駄目ですね。どうしてもというなら彼女に殺して貰ってください、それ以外は認められません。それと三日後の00:00に爆弾は爆発します」
三日、たった三日それしかないのかと木見彦は思い、眩暈を起こした。
「それと手術などで外そうと思わないでくださいね。病院に入った時点で爆発させます。当然、警察などの機関も含めますので、それでは私は失礼させていただきます」
「お、おい! 待て!」
受話器からはピーという電子音しか聞こえなくなっていた。
木見彦は受話器を持ったまま固まって、そこから一歩も動けない。
あれだけ大きな声で話していたというのに、小百合は起きる気配もない。静寂に包まれた部屋では小百合の寝息と、掛け時計のチクタク、チクタクという音、そして木見彦の心臓の早鐘が良く聞こえた。
そして木見彦の心の中では、男への疑念や怒り、そしてこれから起こるかもしれない悲しみの恐怖が入り混じる。
木見彦は小百合を見る。どうしようもない不安から逃げるために、だが木見彦の胸の中では不安が膨れ上がっていく。
――失いたくない――
目の前に居る少女を失いたくない。ただそれだけ、それなのに奪われてしまう、そんな不安。木見彦にとってそれ以外のことを考えることが出来なくなるほどの想い。
「う、ぁ……だ、め、すぅ〜すぅ〜」
小さな寝言を言って小百合は寝返りを打って、また小さく息をする。
そして木見彦は、ゆっくりと小百合に近づいていく。
あの話が本当か嘘かは小百合の心音を聞けば……
木見彦は小百合の傍に座る。しかし何もすることが出来ない。
「すぅ〜すぅ〜すぅ〜すぅ〜」
一定のリズムの小百合の寝息が良く聞こえる。
木見彦は顔を真っ赤にして、動かない。いや動けないのだろう。
心音を聞く、それは言うには簡単なことだが、相手は女性であり、また木見彦には女性経験は全くない。だから当然不順な動悸も出てくる、もし有ったとしても同じだろうが。
ゴックン
そんな音が聞こえるかのように木見彦は、唾を飲み込むと少しずつ小百合の左胸の下、辺りに自分の耳を近付けていく。
少しづつ、少しづつ、確実に近付いていく。そうして触れる。
「うぁ……」
小百合の濡れた服の冷たさと胸の柔らかさに、思わず声を上げた。
そして、ゆっくりと服の冷たさが消え、小百合の体温が伝わってくる。それが心地良くて、目を瞑る。
ドックンドックンドックンドックンドックン
小百合の心音が木見彦の耳に伝わる。それに木見彦は安堵するが、それも一瞬だった。
木見彦の表情が強張り、更に自分の耳を小百合に押し付ける。
ドックンドッpクンドックpンドックンドpックンドックpンドックンpドッンドックン…p…p…P…P・P・P・P・P・P・P
微かだった電子音は木見彦が、耳を澄ませば澄ますだけ大きくなる。
有ってはならない音、人工的な音、生物の中に有ってはならない音、それが木見彦の不安を煽っていく。
それを聞いているのが辛くて、木見彦は小百合の身体から耳を離した。そうして呆然と天井を見上げる。
何の言葉もない。ただ天井を木見彦は見上げる。
その天井を見る木見彦の目には涙が溜まっていた。それが流れないように木見彦は天井を見上げる。
負けないように……
Stage2 道化の仮面
朝の陽光が部屋を照らしていく。
その部屋の隅に木見彦は壁にもたれて座っていた。
チクタク、チクタクと時計の音だけが響く。
なんでこうなった? どうしてなんだ? そんなことを昨日から木見彦は考え続け、その答えも出ないまま朝になってしまっていた。
当の小百合は幸せそうに、木見彦の布団で寝息を立てていた。その寝顔に安堵と不安を感じながら木見彦は立ち上がった。
「はぁ〜とりあえず飯、作るか」
少しだけいつもより気合を入れて、朝食を作る。
とは言え、木見彦は料理が上手いわけじゃないし、材料がそれほどあるわけでもないので、残り物と今作った味噌汁になる。
「う、うん?」
ゆっくりと小百合は目覚め、起き上がる。そして部屋を見回し木見彦と目が合うとボケッとした顔で木見彦を見詰める。
「木見彦君、おはよ」
まだ寝ぼけているのか、眠そうな声で言うと小百合はまた布団に沈んだ。そうして、目を瞑るのと同時に小百合は飛び起きた。
「な、なんで木見彦君が!」
「……」
あまりのことに木見彦は反応できない。何事もなかったかのように、おはようと挨拶されたかと思ったら、これでは木見彦の処理速度が間に合わない。
「それに、此処……」
再度周りを見て、此処が何処なのか確認して小百合は視線を落とし、自分が握っているものを見た。
それは木見彦の掛け布団である。小百合の顔がどんどんと赤くなっていく。
木見彦は戸惑うように口ごもり、目を逸らす。
「えっと、あ、あのな」
朝食のご飯をちゃぶ台に、とりあえず置き、煮え切らない言葉を口にした。
「昨日のこと、覚えてないのか?」
真っ赤な顔の小百合が今にも泣きそうな顔で、木見彦を見詰めつつ掛け布団をギュッと握り締める。そして、小百合は持ち上げた掛け布団の隙間から中を覗く。
「っぷ、あははは」
木見彦は笑った。小百合の行動がたまらなく可笑しくて、さっきまでの戸惑いも、これからの不安も、その瞬間だけは本当に楽しかった。
「な、何が可笑しいのよ!」
真っ赤な顔で怒鳴る小百合だが、それも可笑しくて木見彦は笑いを止められず、さらに笑う。それに対して小百合は真っ赤な顔で、抗議の眼差しを向ける。
「わ、悪い、ぷぷぷ、あはは」
「むぅ〜」
それから2分ほどして、ようやく木見彦は笑い終えた。とりあえず飯にしようと木見彦が言って、二人は朝食を取った。朝食は寝起きの時と比べると信じられないくらい終始無言のまま二人は食べた。
その中で木見彦の頭の中では、何から聞けばいいのか? それ以前に小百合は自分に爆弾がついていることを知っているのだろうか? そんな疑問が頭の中を飛びかっていた。
小百合も何かを考えているようで、食事に集中していない。
そして小百合は朝食を食べ終えて、使用済みになった箸を綺麗に揃えた。
「えっと、昨日のことって公園のことだよね?」
「あぁ」
木見彦は空返事をして、食べ終えた自分と小百合の食器を流し台に運んでいく。
「あのね、なんか記憶があやふやで……」
不安なのだろう。小百合の表情はあからさまに強張り、小百合はそわそわと身体を動かす。
何処まで話せばいいのだろう? 小百合は何処まで知っているのだろうか? 困惑を隠せぬまま、木見彦は流し台に立ち小百合に背を向け、最低限のことだけを木見彦は答える。
「あの後、倒れたんだよ。それで小百合を僕の家まで運んだ」
「えっと、じゃぁ……なにもされてない?」
もじもじと、そんな言葉を真剣に小百合は消え入りそうな声で言う。
そして木見彦の思考はホワイトアウトした。
「しってねぇ〜よ!」
そして戻った時には怒鳴っていた。
小百合は脅え、小さくなる。多少、木見彦の中に訳のわからない罪悪感が出来、気まずい空気が部屋に流れる。
いくらかの時間が経って、木見彦は意を決して聞かなくてはならないことを話し出した。
「あのさ、お前自分に爆弾付いてるの知ってるか?」
木見彦は少しおちゃらけた、声で冗談のようにわざと言う。確かに木見彦は小百合の心音を聞いて、その中に別の音が混じっていることを確認したが、未だに信じたくは無かった。
そう、出来ることなら昨日のことは夢であり、また何かの間違いで、小百合に否定して欲しいと木見彦は願っていた。だが、その願いは次の瞬間に崩れ去った。
「……そっか、知っちゃったんだ」
小百合は少し残念そうな表情を見せつつ、あっさりと認めた。
長い沈黙が流れる。お互いに何を話していいのかも分からず、木見彦は洗い物を片付けていく。小百合はただ俯いて何も言えずにいた。
「いつからだ?」
洗い終えた食器を棚に移しながら、余り興味の無さそうな淡々とした声で聞く。
小百合は俯いた顔をあげ、困惑した顔で木見彦を見る。
「いつからだ?」
もう一度、木見彦がさっきとは違う威圧感の声で問う。
「わかんないよ……」
悲痛な今にも鳴きそうな声で、小百合は言った。
洗い物を終えた、木見彦は何も言わずに小百合を見詰め、近くに寄る。静かな朝、時計の音だけが部屋に響き、陽光が暖かく部屋を包む。
木見彦は責めるでもなく、ただ何かを諦めたようにため息をつく。
「なら仕方ないな、これからどうする?」
「へぇ?」
木見彦の問いが、あまりにも奇妙だったのか、小百合は目を真ん丸くして木見彦を見る。
それは何かを確認するような仕草だった。
「祐一を、佐藤祐一を殺すのか?」
何かを押し殺すように、また断言するかのように木見彦は聴く。だが、その表情に苦悶の色が見える。
何を言われたのか分からないような顔で数秒の間、小百合は固まり木見彦から目を逸らす。
「それは、しないよ。したくない」
今にも消え入る様な声で、でもハッキリと小百合は否定した。
はぁ〜どうすりゃ良いんだよ……と思いつつ木見彦は出来るだけ明るく言う。
「でもさぁ、そうしないと死んじまうよ」
「分かってるけど……私には出来ないから」
そう言って何かを訴えるように、小百合は自分の拳を強く握る。
その答えに、一つの不安と喜びを木見彦は感じていた。
「じゃぁ、どうする? このままだと死んじまうし、どうしようも無いっちゃ無いんだろうけど……」
「わからないよ、そんなの……」
小百合は俯いて、泣きそうな声で言った。
そして木見彦は小さなため息を吐き、自分の頬を叩いた。そして小百合のほうを見ると何かを振り切るように笑う。
「でだ、小百合の家はどうなってんだ? 昨日連絡したんだけど、現在使われていませんって言われたんだよ」
え?っと言うように目を見開き、小百合は木見彦を見詰める。それはいきなり何を言っているのという風に取れる。
「元々、一人暮らしだったけど追い出されちゃった」
「荷物とかは? 代えの服とか無いのか?」
「……無い」
すると木見彦はおもむろに、タンスから自分のジーパンとTシャツを出すと小百合に渡した。小百合は相変わらず、何が何だか分からないというように、木見彦を見詰め渡された服をしっかりと待っている。
「奥に洗面所があるから、そこで着替えて来い。それと代えの着替えとか必要だから買いに行くぞ」
「え、うん」
あまりのことに対処できないのか小百合は空返事をする。それから数秒して、意味に気付いたのか小百合は顔を赤らめた。
「あの、そ、それって此処に泊まれってことですか?」
慌て気味に言う小百合に対して、木見彦は当たり前のように頷く。そして小百合は更に顔を赤らめて、周りを見渡す。
「で、でも悪いし、私だって困るよ」
それを聞くと木見彦は意地の悪そうな笑みを浮かべ、ジャケットを羽織る。
「ふ〜ん、借りてた部屋は追い出され、着替えも無いのにか? 第一何処で寝る気だ?」
小百合は答えられず、唖然とする。小百合に友達がいないわけではない。むしろ多い方で、頼めば簡単に泊めてもらうことは出来るだろう。問題は木見彦が何故、知ってしまったのだろうか? という疑問で今更ながら小百合は困惑していた。
「ねぇ、どうして知っているの?」
それに対して木見彦は事も無げに面倒くさそうに答える。
「男から電話があって、小百合のことについて話があるって言われて聞かされた」
ただ悩むように顔を伏せ、小百合は木見彦の白いTシャツを強く握る。それを見て木見彦は何かを言わなくてはと思うのだが、何を言っていいのか分からなかった。
そうやって木見彦が困っていると、いつの間にか小百合の肩は揺れ、唇は振るえ、白いTシャツは雫で濡れていた。その震える口からは相応の聞き取れないくらい小さな声が流れた。
「……ごめんな、さい……」
それだけを小百合は小さな声で、何度も呟いた。この時初めて小百合は自分の置かれている状態に、実感を持てたのだろう。そして完全に木見彦を巻き込んでしまったということにも……
木見彦は少しの間だけ、瞑想するようにし目を閉じる。そして今度はゆっくりと目を開き小百合の頭に、自分の手を置く。それに少し驚いて小百合は濡れた眼を木見彦に向けた。
「まぁ、そう思うなら家で泊まれよ。これ以上迷惑を人様に掛けたくないだろ? なんというかアンラッキーだよな」
木見彦は出来るだけいつも通りに笑って、明るく小百合に声を掛ける。そして小百合はわずかに頭を縦に動かした。
少しだけクスリと笑うと木見彦は、小百合の頭から手をどけ、タンスからもう一枚白いTシャツを出す。
「それじゃ、買い物行くぞ」
そう木見彦が小百合を促すと、そそくさと小百合は洗面台の方へ歩いていった。それを確認すると木見彦は携帯を取り出し、携帯の画面を見詰める。
―――そこには佐藤祐一と映し出されていた……
※
ガヤガヤとざわめく、隣町のショッピングモールに木見彦と小百合は来ていた。流石に土曜日ということもあり、ショッピングモールは混雑の極みを尽くしていた。
「なぁ、いい加減、飯にしないか……」
木見彦の悲痛な声が上がる。午前中からろくに寝ていないのに木見彦は小百合に連れまわされ続け、遂に音をあげた。
そう言うと小百合は不満気な表情になるが、店の中に掛けてあった時計を見て、あっと言うような顔をした。
「うわぁ、ごめん、もうこんな時間だったんだ」
「そんな時間なんだよ……」
時間は午後2時を回っていた。昼食も取らずに5時間近く連れまわされ、木見彦は疲れ果てていた。たださえ昨日は寝ていないので木見彦の身体には元々体力はそれほど残っていなかった。
そうとも知らずに小百合は「どうせ買うなら」と言って、この隣町のショッピングモールで服を買うことを頼み、すでに買ったというのに未だに見て回っていた。最初こそ女の子だから仕方ないと思っていた木見彦だったが、流石にうんざりしていた。
「何食いたい?」
「う〜ん、何処でもいいよ」
楽しそうに笑って小百合が言うと木見彦は、近くのマクゴナルドを指差した。
すると小百合は解りやすく嫌そうな顔をする。それを木見彦が何だよ、という風に睨む。
「何も此処まで来て、ファーストフードにしなくてもいいでしょ」
「何でもいいって言ったのはお前だろ?」
不満げ満々の小百合に、木見彦は余裕綽綽で揚げ足を取る。すると小百合は木見彦の手を強引に掴むと歩き出した。
小百合は小柄なのに結構な馬鹿力があるらしく、木見彦はずるずると引きずられていく。
「お、おい、そんな強く引っ張るなよ。つか何処連れてく気だ」
「何処でもよくないから、私が決めるの!」
情けないが、木見彦はなすすべも無く引きずられていく。それを周りのお客が不思議そうに見ているが、小百合は気が付かない。むしろ木見彦のほうが気付き、顔を伏せるのであった。
※
そんなこんなで木見彦と小百合は、謎のビルの14階のやけに高級そうなレストランの中に居た。
なんともクラシックな音楽が流れ、テーブルには白いテーブルクロスと三角に折られた白いナフキン、そしてメニューは英語と日本語で書いてあり、表面には綺麗な装飾がされている。
そしてメニューの一つ一つの値段が、木見彦には一桁多い様な気がする。小百合はといえば楽しそうに、メニューを満面の笑みで選んでいた。
「なぁ、お金そんなに無いんだけど……」
「え、良いよ。私が出してあげるから」
っは? 何言ってやがるんだこいつは! と思いつつ木見彦はもう一度メニューを覗く。
そうやって何度確認してもやはり値段は零が一つ多く、普段の木見彦の食生活では考えられない値段だった。
当然不安になってきて木見彦は小百合に聞き返そうとして、目が合った。
「決まったぁ?」
「……」
あまりに当たり前のように聞かれ、唖然としてしまい返事を返せないこと数秒の後……
「小百合と同じので良いよ……」
などと言って、考えることから逃げだした。
「え、う〜ん、じゃぁ取って置きの頼んであげるから」
と言うが早いか、小百合はウェイターに声を掛け注文していく。それも、英語名でメニューを注文していくので、木見彦には何を言っているのか全く分からない。
そして注文が終ると、軽くウェイターはお辞儀をして奥の方に消えて行った。
「なぁ、今何頼んだんだ?」
木見彦が不思議そうに問うと、小百合は木見彦に笑顔を向けると……
「秘密」
……なんだコイツ! と思いつつも木見彦は頼んで貰った手前が、黙って待つしかない。その木見彦の少し膨れた表情が楽しいのか、小百合は笑顔で木見彦を見たりしている。
しばらくすると、先程のウェイターが謎の黄色いスープを持ってくる。それに少し緊張しながらも、木見彦は口に運ぶ。
「……美味しい?」
不安げな声で小百合が聞くと、木見彦は首肯して物凄いスピードで飲んでいく。マナーとしては、とても良いとは言えない。
だが、小百合は嬉しいのか何も言わずに、ゆっくりとスープを口に運ぶ。それがなんとも似合っていて、木見彦は少し呆ける。それから小百合の真似をするように、木見彦はスープを口に運んでいく。
一人は清楚な雰囲気をかもし出し、一人はギクシャクと慣れない手つきで食事を進める。
傍目から見ると、非常に奇怪な光景だろう。結局この後、謎の肉料理、謎の魚料理などが出てきたが、小百合が料理名を言うことも無く、木見彦がそれを聞くことも無かった。
料理が何であるかは別として、木見彦は木見彦でそれなりに楽しめたようだった。
「56,400円になります」
笑顔で言うレジの女性。あまりの値段に木見彦は意識が飛びそうになる。その隣で小百合が財布を取り出す。
「はい」
「ありがとうございました」
「ごちそうさま」
完全に完璧に木見彦を置き去りにして、小百合とレジの女性の間で会計が進んでいく。木見彦の頭の中では5万と言う単語が繰り返されていることだろう。
「なぁ、小百合……なんでそんな金あるんだ?」
「貯めてたから」
木見彦の質問に小百合はこともなげに答える。
時間はまだ3時半を回ったところで、時間にはまだ余裕がある。そこでふと木見彦の目に展望台などという、看板が目に入ってきた。
それを木見彦は指差して小百合に聞く。
「行ってみないか?」
「そうだね。折角だし行こうか」
理由の無い、ただの興味本位の気持ちが楽しくて二人は足早に階段を登っていく。
展望台は思ったよりも景色が良くて町が一望できる。太陽も近くて日差しが気持ちいい温度に保たれていた。
木見彦は気持ち良さそうに背伸びをする。それを真似るように小百合も背伸びをする。
「いい眺めだな」
「うん、何処までも飛んでいけそう」
小百合は空を見る。何も無い青い空を羨ましそうに、恋しそうに見上げる。そこに何か見えるのかなと木見彦も同じ空を見上げる。
そこに一羽の鳥が横切る。何という種類かは木見彦にも小百合にも分からない、だがそれを目線が追う。それも鳥が後ろに回って追えなくなる。少し残念そうに小百合はため息を漏らす。
「鳥は良いよね。何処にでも行けて」
小百合は本当に羨ましそうに言って、また空を物欲しそうに見詰める。
その横顔を見ながら木見彦は少し考えてから、思ったことを口にする。
「そうだな。でも鳥だって何処にでも行けるものじゃないだろ?」
「そうかな?」
空を見詰めたまま小百合は、首を傾げる。何も無い青い空に、小百合が何を見ているのかは誰にも分からない。それでも木見彦はいつも通りの適当な意見を述べる。
「地中には潜れないし、水の中にも潜れない、空の上には上がれない。風によっちゃ今まで行けた場所に行けなくなる」
「でも、自由だよ」
木見彦の方に向き直り訴える様に小百合は言う。それは少し泣きそうで、助けて欲しいような、そんな表情だった。
木見彦は目を逸らし、空の方を見る。何かを隠すように、抑えるように背ける。
「どちらにしろ、僕には広すぎるよ」
話は途切れ、二人は沈黙した。……ほんの数秒だったのかもしれない、だがその沈黙は30分とも思えるほど長いと木見彦に思わせた。
「そうだね。確かにこれはちょっと広すぎるね」
そう言ってまた空を見上げ小百合は目を瞑る。同じように木見彦も目を瞑った。
時間だけがゆっくりとゆっくりと過ぎていく。その中で他愛の無い話を二人はする。重要でもなんでもない、日常の話を少し、懐かしいかのように……
※
あれから何時の間にか、夕方になっていて木見彦が帰ろうかと言ったのを機に二人は家に戻った。
帰った時には、もう日が暮れていて御腹も空いていたので木見彦はスグに夕飯の準備を始めた。
小百合が手伝おうかと言ったが、木見彦は昼奢って貰ったし、と言って断った。
そうして出来た料理は肉じゃが、サンマの味噌煮で、昼飯には負けるが中々の出来だった。
小百合もとくに文句も言わずに食べたし、むしろおかりをするくらいなのだから、気に入ったのだろう。木見彦もそれに満足したのか、いつもより多少多めに食事を取った。
それから食事も終わり、のんびりとした時間が過ぎていく。
「悪い小百合、ちょっと出かけてくる」
テレビを見ていた小百合は突然のことで少し戸惑うように、木見彦を見る。
「何処に行くの?」
「あぁ、ちょっとコンビニに朝飯の材料買いに行こうと思って」
「じゃぁ、私も行くよ」
「いや、小百合には家で留守番していて欲しい。最近空き巣が多いらしくて、な」
不服そうに木見彦を見たが、小百合は仕方無く頷いた。
「サンキュ。じゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
木見彦にとって久しぶりに言う、「いってきます」は、懐かしくて心地が良かった。そして木見彦は斉藤祐一と会う決心を固めた。
ポケットの中には一本のナイフを潜ませたまま、家から離れていく。夜の町は暗く、静かで木見彦を不安にさせる。月も新月に近く光は薄い。街灯の明りもこの辺りは少なく幽霊でも出ても、おかしくなかった。
「これくらいで、いいか」
そう言って木見彦はポケットから携帯を取り出す。そこから、登録された斉藤祐一の電話番号を出して、電話を掛ける。
「あぁ、もしもし祐一か?」
「うん、木見彦か、どうした」
いつも通りの声で祐一が楽しそうに電話に出る。木見彦は一瞬迷うが、用件を口にする。
それは多分少し震えた声だった。
「今から会えないか?」
「うん? 良いけど何処で会う?」
疑問には思ったのか、不審そうな声で祐一は聞き返す。
「芝公園の橋のとこでどうだ?」
「は? また、なんでそんなとこで……良いけどさ」
基本的に祐一は友達などの頼みを断れないタイプなので、木見彦は予想していたが、多少の罪悪感が木見彦の胸を指す。
「じゃぁ、そこで。今から行くから、待ってろよ」
「あぁ、悪いな」
そう言って木見彦は電話を切った。
これから祐一に会う、そんなことを小百合に話していたら、どうなっていたんだろうと思い、木見彦は苦笑した。
本当に言っていたら、昨日の様子なら間違いなく止めていただろう。それが分かっているからこそ、言わずに出てきたのにそんなことを考えている自分が、可笑しくて木見彦は笑ってしまう。
そして夜を歩き出す。痛いくらいの罪悪感を握ったまま、会ってどうするかも決まっていないのに木見彦は歩き出す。
ポケットの中にある、凶器の黒い柄を握って……
※
夜の芝公園は昨日とは、うってかわって雨の降っていない分余計に静かで不気味だった。
それは木見彦の心をざわめかせ、不安にさせた。
木見彦は橋の前に立っていた。
そうして今日のことを思い返す。小百合は笑ってくれた。色んな表情を見せてくれたのは確かだった。それでも小百合の笑顔が作り笑いだったことに木見彦は気が付いていた。ほんの些細なことかもしれない、でも確かに小百合の笑顔が変わらず同じだったことは間違いないと木見彦には確信があった。
どうしたら笑ってくれるのだろうかと考えながら、今木見彦のしていることは小百合を悲しませることなのだから、矛盾している。
「たく、俺は何やってるんだかね。はぁ」
「そう間違ったことも、してないと思うけどね」
その声に驚いて木見彦が後ろを向くと、黒い服で身を包んだ左藤祐一が立っていた。
「なんだよ。全部知ってるような口ぶりだな」
「まぁ、情報は入ってきていたしね。そっちこそ驚かないんだね」
そう祐一が言うと、木見彦は面倒くさそうに頭を掻く。
「予想できてなかったわけじゃないし、まぁターゲットにされる時点で、普通の相手だと思わないよな。アンラッキーって奴だ」
「それで僕を殺しに来たわけかい?」
「場合によっては、ってとこだな。いろいろ知ってるんだろ?」
そう言うと祐一はおもむろに腕を組み、首を傾げた。木見彦はポケットに隠し持った凶器を握る手の力を強めていく。
「称野さんのことだろ? まぁ、ポケットから手を出して、話をしようよ」
祐一は手を広げ、武器は無いよ、と言う風に見せびらかす。仕方なく木見彦も手を凶器から手を離し、確認させる。
「それじゃ、何から聞きたい?」
「そうだな、何でこうなったのか聞きたい」
少しドスのある声で威圧しながら祐一に木見彦は問いただす。それを祐一は流すようにベンチに座る。
無音の公園を風が走り、葉の揺れる音が風と共に流れていく。
「別にどうということはないよ。本当に金持ちの道楽さ、特に理由なんて本当に無いんだろ」
祐一はどうでもいい様に言って、面白く無さそうな顔をする。木見彦はと言えば何か腑に落ちないといったような感じで、探るように祐一を見る。
「なら、何故僕に電話なんてよこしてきたんだ? 僕はお前達にとって異物だったはずだ。その僕をこのゲームに参加させることは、リスクは有ってもメリットはないだろ」
「そうでもないさ、上の人間としてはそれが良いらしい。異分子が入ると何が起こるか、分からないから面白いのだと」
抑えることの出来ない、憎悪が木見彦の心を塗り潰していく。それを無理矢理に抑えて、代わりにドスの聞いた声で祐一に聞く。
「なら、小百合に爆弾が付けられたのが何時ごろか分かるか?」
「それは元からだよ。それに俺にも付いている……」
祐一の信じられない言葉に、木見彦は一瞬我を忘れ、呆然とする。
「どういうことだ?」
「俺と小百合は元々組織の中で、育てられた。まぁ、俗に言うエージェントって奴だ」
少し懐かしそうに遠くを観る様に祐一は、端の方を見る。
風で水面が少し動く。
「俺たちは兵士な訳で、裏切りはご法度な訳だよ。その為の体内爆弾、だから組織のほとんどの連中に付いているよ。ただし確かにアレは時限爆弾でも在るが、遠隔操作でも爆破できる」
木見彦は言葉を失った。それはつまり本当なら何時でも小百合を殺せるということで、今、生きているのは本当に組織側が遊んでいるという証拠だった。
それを確信して木見彦は、もう何を聞いていいのか分からなくてきた。それを知ってか知らずか、祐一は話を進めていく。
「三日って言う期限は、要は爆弾の受信機の電池の切れるまでの時間のことだ。爆弾自体の物は、“遠隔操作と電池切れ”で爆発するように出来ている」
木見彦は完全に頭が真っ白になった。今までの話が本当なら、木見彦が何をした所で小百合を助けることは出来ないのだから……
それでも、木見彦は本当に助けられないのか、目の前の友人だった男に問う。
「それは、もし今回お前を殺すことで小百合を助けても、根本的な解決にはならないってことか……」
「そういうことに、なるな」
祐一は言い切った。はっきりと断言した。
だったら、どうしようもないじゃないか……諦めにも似た思考が木見彦を押しつぶす。
もう木見彦にはどうしていいのか分からなかった。さっきまでは確かに、小百合が助かるのなら祐一を殺してでも、という気持ちが在った。だが、どうあっても助けられないということを、知ってしまった。
もう、木見彦には何をして良いのか分からなくなっていた。
「離れて!」
静寂を保っていた、世界に凛とした声が響く。木見彦と祐一は反射的に、声の方向を向く。
「小百合……なんで?」
思考の回らないまま、木見彦は相手の名を呼んだ。
暗がりに小百合が立っていた。夜の風が小百合の長い髪を、撫でる。
小百合の手には黒い拳銃が握られ、銃口が祐一を指していた。
「撃ったらどうだい? そうすれば君は助かる。木見彦にも、迷惑を掛けなくてすむだろ」
銃口を向けられた状態で、木見彦はどうでも良い様に言う。
「本当に撃つよ……」
だが、そう言っている小百合の手は震えて狙いが定まらない。木見彦と言えば、どうすることも出来ず立ち尽くしている。
「だから、撃てよ」
そう言って少しずつ祐一は近づいていく。
銃口を向けられているというのに、ゆっくりと小百合に向かっていく。
ただ、小百合は銃口を向けたまま、小刻みに震えることしか出来ない。
このままじゃまずい、そう思っているのに木見彦は動くことが出来ない。動こうと思っても、身体に命令が伝わらないような、感覚に木見彦は舌打ちする。
そうしている内に、祐一は小百合の目の前に立つ。
「速く撃てよ。お前が殺せないから……お前が撃てないから、木見彦を巻き込むことになったのだろ」
祐一は自分に向けられた銃口を、己の身体に押し付けながら怒鳴る。
小百合は構えたまま動けずに、祐一を見詰めることしか出来ない。
木見彦の中で何かが壊れ始める。
そのままの状態で時間だけが少しずつ過ぎていく。
「や、めろ」
ようやと溜め込んだ空気を、押し出すように木見彦の口が動いた。祐一が殺気混じりの視線を投げる。
正常な一般人なら、殺気だけですくんでいただろう。しかし木見彦も必死でそんなことでは抑えられない。
「止めろって言ってんだよ! どいつもこいつも人様の命なんだと思ってやがる!」
祐一は冷めた瞳で、怒鳴る木見彦を探るように見ながら、冷たく言い放つ。
「木見彦、俺たちの命なんて有ってないようなものだ。もともと俺も小百合も、人を殺すためにだけ、育てられ」
「うるせぇよ!」
祐一の言葉を木見彦が遮り、そして思いのまま言葉をぶつける。
「お前がどう思うが、俺にはそれだけの重みがあるんだよ! 勝手に死のうとしてんじゃ、ねぇよ!」
そこまで木見彦が言うと、祐一は完全に振り向き、目を細める。
「それが、さっきまで俺を殺そうと思っていた人間のセリフか?」
怒気も何もない、ただ冷めた言葉を祐一は木見彦に叩きつける。
何の感情もない、ただ事実だけの言葉、それだけに木見彦を黙らせるには十分な言葉のはずだった。
「あぁ、そうだよ! 祐一が、本当は昨日の電話の男みたいな奴だったら、殺す気で来てたよ!」
その言葉に祐一はポカンと口を開けること数秒、笑い出した。
「あははは、お前言っていることが、むちゃくちゃだぞ、こんな状態でも木見彦は木見彦なんだな。くくく」
急に笑い出した祐一は、いつも学校で出会う祐一と同じで、圧迫感も何もない。
それが分かるのかいつの間にか、小百合も銃を降ろしている。
木見彦も毒気を抜かれたのか、大人しくなっている。
「うっせぇよ。お前らが、無茶苦茶だからだろ……くそ、アンラッキーだぜ」
そう悪態を付いて、木見彦は押し黙る。
すると祐一も笑いを止めて、真面目な顔で向き直る。
「とりあえず、木見彦は俺を殺すつもりは無いんだな?」
「だから、そう言ってるだろうが……」
気の入ってない返事を木見彦が返す、と祐一は腕を組み考えてから、また尋ねる。
「俺を殺さないと、小百合は死ぬぞ」
「お前を殺しても、それは変わらないかもしれないだろ。変わるかもしれないけど、お前を殺したら一生後悔しそうだしな。それに、小百合を悲しませることになるし……」
なんとも煮えきれないような声で木見彦が言うのを、ただ大人しく祐一は聞く。そうして祐一は小百合の方を見る。
「称野はどうする?」
「私には、もう誰も殺せないよ……」
そう答えた小百合に対して祐一は、小さな溜息を吐き出す。また、風がゆっくりと流れていく。祐一はポケットからタバコを取り出すと火をつけて、咥えた。
「せっかく人が死ぬ覚悟をしたのに、無意味にしてくれるよ……」
祐一は憎まれ口を叩くと、白い煙を吐く。
「帰る.俺が居ても仕方ないみたいだし、後は二人で決めろよ」
そう言うと、そそくさと祐一は木見彦と小百合に背を向けて離れていく。えっという感じで木見彦と小百合は祐一の方を見るが、祐一は振り向くこともなく闇の中に消えた。
「アイツは、何だったんだ……」
未だに祐一の消えていった方を見ながら、木見彦は何の考えもない感想を漏らす。小百合も安堵したのか、肩の力を抜くように深呼吸する。
そうしてまた静かな、公園に戻る。木見彦と小百合はお互いに、少し後ろめたくて気まずくて話せないでいた。
「あのさ、帰ろうか」
「そうだね」
そうして、二人は帰路に着いた。
Stage3 断末魔
帰り際の会話はほとんどなく、お互いに相手の様子を見るように、チラチラと横目で見るだけで何も話さない。
そうこうしているうちに、家に着いた。
「あ、お風呂は出してあるからね」
沈黙に耐えかねたのか小百合が上ずった声で言う。木見彦は部屋の真ん中にある、ちゃぶ台を片し始める。
「先に入れよ。布団とか用意しとくから」
気まずいせいで木見彦の口調は、何処か怒ってるように聞こえる。それが多少怖いのか小百合は、返事もせずに今日買った青い寝巻きを持って、風呂の方に行った。
押入れから、布団を二枚出してひきながら、木見彦は今日の出来事を思い出す。結局分かったことは、爆弾からは木見彦を殺しても一時的に逃げられるだけということだけだった。
「たく、アンラッキーだよな」
そんな独り言を漏らすほどに、困っている自分が少し腹立たしく木見彦は感じていた。
そうして考えていると木見彦は“……あいつは生きたいのかな?”という根本的な疑問が浮かんだ。
そうなると木見彦にはいつも通りの行動をする、小百合が自分の現状が分かっていないのか? それとも生きることに執着がないように見えてきた。
そんなわけないか、と木見彦は思考を打ち消そうとするが、思考は消えてくれない。消えないことに木見彦は苛立つが、その考えが妙に的を射ている気がして、どうしようもない。
ザァーと、雨音に似た音が薄い壁を通して流れてくる。それに気を取られたおかげで木見彦の思考は途切れた。変わりに多少卑猥な妄想など木見彦は思い浮かべてしまい、自分の頬を叩いた。
だが一度考えてしまった、そういうものは中々消えないもので木見彦の中で何度もぶり返す。木見彦もヤバイと思っているのだが、どうしようもないらしくブレーキが効かない。
「木見彦? 顔赤いよ」
「うわ!」
木見彦の視界、一杯に小百合の顔が突如出現し、思いっきり木見彦は後ろに飛びのき、壁に頭をぶつける。
「だ、大丈夫、でも失礼だよ。人の顔見て飛びのくのは」
そう言って風呂上りのちょっと色っぽい、小百合が頬を膨らませる。木見彦は痛めた頭を、抑えながら起き上がる。
「つぅ、大丈夫、少し驚いただけだから」
くそ、アンラッキーだ! と心の中で木見彦は悪態を付き、自分の醜態を恥じる。
「でも、本当に顔赤かったよ」
小百合が本当に心配そうに木見彦を見るが、木見彦は赤くなっていた理由が理由なだけに、全力で此処から退避しようとする。
「大丈夫だから、風呂入ってくる」
そう言って木見彦は部屋を出て行き、部屋で一人小百合はキョトンとしていた。
※
チクタクチクタクと時計の音が良く響き、時計は11時を回っていた。
部屋は暗く木見彦は布団の中で横になっていた。隣に寝ている小百合は小さな寝息をもらしていた。
木見彦は眠れずにいた。昨日は疲れで気にならなかったことを木見彦は気にしていた。
隣で好きな女の子が寝ているのだから、木見彦の心中が穏やかな訳がない。外にこそ出さないが相当、木見彦は緊張していた。
いつもなら20分足らずで、眠りにつけるのに今日は30分経っても、眠れそうになかった。何度も木見彦は寝返りを打ち、あくびを吐く。
今日のことを思考する気もなく、ただ憂鬱に木見彦は眠りに就こうとするが、小百合の寝息が気になってしまって眠れない。
「ねぇ、木見彦起きてる?」
寝たと思っていた小百合に声を掛けられ木見彦は少し驚き、返事が上ずる。
「うん、起きてる」
小百合が木見彦の方に身体を向ける。木見彦は顔だけ向ける。
「ねぇ、なんで祐一と会ったの?」
今更、そんなことを聞かれると思っていなかった。木見彦はどう返そうか数秒、悩んだ後ぶっきらぼうに返事をした。
「別に、祐一を殺してそれで小百合が助かる、ならって思っただけだよ」
「なんで、そこまでするの?」
本当に、どうしてか分からないというように、小百合は木見彦を見詰める。それが何となく気恥ずかしくて木見彦はそっぽを向く。
「お前だって、なんで来たんだよ」
……小百合からは中々返事が返ってこない。長いような短いような沈黙が少し続いた。
「心配になったから……すぐ帰ってこないから不安になったから、探しに出たの」
震えて消え入るような声で、小百合は言う。それは何処か脅えた子供の様に、木見彦は感じた。
「そしたら、祐一と会ってるんだもん……」
この先に言いたい言葉があっただろうに、小百合は泣きそうになって言えなくなった。
木見彦は何を言って良いか分からない。だから、今思い浮かぶ謝罪の言葉しか言えない、それが、小百合にどう思わせるか分かっていても……
「……ごめん」
その木見彦の言葉で、積を切ったように小百合は嗚咽を漏らした。子供の様に身を小さくして、何かを押し込むようにして泣く。
「なんで、な、んで、そういうことするの! 死んじゃう、かもしれ、なかったんだよ! うぁう、あぁ」
悲痛な声を聞きながらも木見彦は動けずにいた。泣いている理由は分かるのに、泣き止ませる方法が分からず、木見彦は手をこまねく。木見彦が祐一に会った理由など分かりきっている。が、それを言うことに木見彦は抵抗があった。いや、自分の気持ちをさらけ出すことに抵抗があった。
好きだから……本当にそれだけの理由、ストレートな気持ちだからこそ恥ずかしくて言い難い言葉、それを口に出そうとすれば言葉の重さで、口が塞がってしまう。
「…き…から」
木見彦がやっとの思いで、搾り出した声は小さく、全てが小百合に届くことは無かった。それでも小百合は木見彦を見て、今言ったことが何なのか確認しようとする。まだ、涙が流れ、少し赤くなった目で見詰める。
「好きだから」
言ってスグ木見彦は横を向き、小百合から逃げる。小百合は泣くことを忘れたように、呆然としている。その頬が少しずつ赤くなっていく。
「え、っと、ほんとうに?」
震えた声で木見彦に小百合は、顔を真っ赤にして聞く。さっきまで泣いていたせいか上手く発音できない。
「あぁ」
木見彦はそっぽを向いたまま答え、首肯する。
チクタクチクタクと時計の音だけが流れる。木見彦は恥ずかしくて仕方ないのか、小百合の方を見れずに、固まっている。小百合は驚きを隠せずに、真っ赤なまま動けないでいた。
時計だけが音を発し、時間の流れを教える。
「木見彦、あのね」
呼ばれて木見彦は、小百合の方を向く。
そして木見彦は言葉を失い、目を離せなくなった。小百合は笑っていた。今まで見た中で、一番嬉しそうに作り笑いとは似ても似つかない笑顔で、笑っていた。
「私も、木見彦のこと」
パン そんな、何かが破裂するような音と共に、小百合はうずくまった。
え、なに? そう木見彦が思うほど、何が起きたのか分からなかった。ただ急に何かが弾ける様な音がして、小百合がうずくまり、動かなくなった。
「……さゆり?」
何が起きたのか分からない子供が尋ねるように、木見彦は小百合を呼ぶ。
小百合は動かない……代わりに白い布団に、赤い染みが広がっていく。
それが木見彦の目に入った瞬間に理解し、理解できなかった。いや、木見彦の心が否定した。
「さゆり? なんだよ。続き言ってくれよ。ちゃんとこっち向いて、言ってくれよ!」
木見彦は叫ぶ、近付くことすら出来ずに、叫び続ける。触ってしまったら、理解してしまうと本能的に分かっているから、動けず叫ぶことしか出来ない。
赤い染みが広がっていく。
少しずつ少しずつ木見彦に近づいていく。ただ木見彦は小百合に呼びかけ続ける。現実を否定するためだけに、叫び続ける。
木見彦の手に、赤い染みが触れる。それに気が付いて木見彦は自分の手に付いたそれを見て、狂った。
「あ、あぁぁぁ、あぁぁぁあああ」
木見彦の手は震え、口は言葉を形に出来ない。目は手に付いた赤い物だけを凝視し、それ以外のものが見えなくなる。
赤い染みが木見彦を取り囲んでいく。
「うぁぁぁあああああああああ!!!」
木見彦は絶叫した。人とは思えぬ声で叫び、腕を叩き付けた。
狂った部屋で時計だけが取り残されたように、正確に時を刻んでいた。
※
深夜1時、左藤祐一は木見彦の部屋の前にやってきていた。
息は絶え絶えで、体中汗でべとべとの状態の祐一はおもむろにドアに手をかけた。待っている光景はどうせろくな物ではない。そう分かっていても祐一は中々開ける気にならなかった。
このドアの先には自分の祐一の良く知った友人、二人がいる。一人は確実に死んでいるだろう、もう一人は生きているだろうが正気ではないだろう。いや両方、死んでいるかもしれない。
どんな状況にしろ、祐一にはこの先の状況は悲惨な物に間違いないと分かっていた。
2時間前、祐一は一つの報告書を貰っていた。そこには鮮明に今回の残酷な決定が書かれていた。
【久土木見彦は称野小百合を助けることを放棄し、また称野小百合は生きることを放棄したため本日12時を持ってゲーム終了。同時刻、称野小百合を処分することを決定とする】
それを見たときは流石の祐一も青ざめ、頭が真っ白になった。そうして何も考えられない、祐一に一つの命令が下った。それは死体の処理と木見彦の処分だった。
こうして祐一は此処に来た。だから祐一は分かっていたし心の準備も出来ていた。ただ、それでも、どんなに心の準備が出来ていても実際にドアを前にして祐一は戸惑ってしまった。
もしかしたら二人とも無事かもしれないという、淡い期待がどうやっても祐一は頭からはがすことが出来ない。期待するだけ無駄なことで、悲しむのが分かっているのにその想像を消すことが出来ないまま祐一はドアを開いた。
中は暗く。鍛えられた祐一の目でも全体を見ることは出来なかった。ただ、微かに人の声が流れてくるのを祐一は聞き取った。
「さ……さ…り」
そして祐一は暗い廊下を声に向かって、少しずつ進んでいく。声はどんなに近づいても、小さく聞き取りきれない。
それでも何か同じことを言っているように祐一には聞こえた。
祐一の前にドアが立つ、そのノブをゆっくりと祐一は開け中に入った。
部屋の中は月明かりのせいで、意外と明るくて部屋に入っただけで、部屋に何が有るか分かる。
そして祐一は絶句した。もう何の思考も回らなかった。ただ、それを凝視する以外に何も出来なかった。
それは木見彦と小百合だった。
木見彦は虚ろな目で壁に背をつけて座り、小百合を抱っこするように自分の太腿に座らせていた。小百合の胸の辺りは真っ赤に染まり、手足は力なく垂れ下がっていた。
その小百合の頭を木見彦は撫でながら、口をわずかに動かし言葉を繰り返す。さゆり、さゆり、と壊れたレコーダーの様に延々と止まることなく繰り返す。
「さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、さゆり、…………」
祐一が呆然としている間、何度聞いたか分からない。それは何かの呪文のようで、呪いのようだった。
ようやく祐一は状況を整理できたのか、身体を動かし始める。そしてスーツから拳銃を取り出し、木見彦に向ける。
「木見彦、運んでやるよ。小百合の居る場所に……」
そう言って祐一は引き金を引いた。音も無しにそれは発射され、木見彦の眉間を打ち抜いた。
木見彦は糸を切られた操り人形のように倒れ、何も言わなくなる。
祐一の頬に何かが流れ、床に落ちた。それと共に祐一は感情を捨てた……
Ending 時計
「任務終了、おつかれさま祐一君」
「ありがとうございます」
とあるビルの社長室に祐一は任務終了の報告をしていた。目の前には40代くらいの男が座っている。祐一はその男が眼に映っていないかのように遠くを見詰める。
「本当に良いのか?」
不思議そうに男が言うと、祐一は首を縦に振って制定する。
「はい、外す必要は有りませんから」
「だが、いくら電源を入れていないからとはいえ、確実に中の電池は消費し、近いうち爆発するぞ」
「構いません。むしろ、それを望んでいますから」
そう祐一が言うと男は目を見開き驚く。そして、値踏みをするように祐一を見る。祐一はそれを気にも止めないで、真っ直ぐな目で男を見返す。
「まぁ、良いだろう。もって3週間だろうが好きにしろ」
諦めたように男が言うと祐一は会釈し、部屋から出ようとした。
「一つだけ、聞かせてくれないか? 理由を教えてくれ」
祐一は立ち止まると振り向きもせずに答える。
「私が望むのは正確に時を刻み、死ぬことだけですから。刻む時間が欲しかったんです」
そう言って祐一は部屋を出て行った。
「自分の時間など、自分で決めれば良いだろうに……」
おわり
最後まで読んでくださりありがとうございます。
とんだ駄文ですが現状の私の全力です。
ご指摘、感想ありましたらお願いします。今後の参考とし精進させていただきます。