表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
空白が先に在った場所
7/14

記録媒体の存在

 放課後、部室に戻る理由はなかった。

 それでも、希夢は理科棟の階段を上がっていた。


 足が向いた、というより、

 確認しなくてはいけない項目が、頭の中に残っていた。


 部室の扉は、昼と同じく鍵が掛かっている。

 鍵を開けるとき、昼間よりも、手の動きが速かった。


 躊躇がないわけではない。

 ただ、躊躇する理由を、もう使い切っていた。


 中に入ると、机の配置も、空気も、変わっていない。

 Part B で整えられた「何も起きていない部室」だ。


 希夢は、自分の机に向かい、鞄からノートパソコンを取り出した。

 科学部の共有用端末ではない。

 個人用だ。


 電源を入れると、起動音が鳴る。

 その音は、確かに「今」に属している。


 ――だから、違和感が分かる。


 デスクトップが表示された瞬間、

 視線が、特定の場所に吸い寄せられた。


 フォルダがひとつ、ある。


 見慣れた名前。

 見慣れているはずなのに、

 今まで、意識的に開いた記憶がない。


「……あった、よな」


 独り言が、部室に落ちる。


 フォルダ名は、日付と観測地点の略称。

 形式は、他のデータと同じだ。


 それなのに、

 他のどのフォルダよりも、輪郭がはっきりしている。


 希夢は、マウスを動かし、

 カーソルをその上に重ねた。


 ダブルクリックする前に、

 一拍、指が止まる。


 ――消せる?


 その問いは、

 削除キーに向けられたものではない。


 存在として、消せるかどうかだ。


 希夢は、クリックした。


 フォルダの中には、複数のファイルが入っていた。

 写真。

 ログデータ。

 短い動画。


 ファイル数は、多くない。

 だが、整理されすぎている。


 撮影日時、機材情報、位置情報。

 すべて、正確に揃っている。


 それなのに、

 「誰が撮ったか」だけが、

 どこにも書かれていない。


 希夢は、ひとつ目の写真を開いた。


 画面いっぱいに広がる、夜空。

 星の配置は、記憶と一致している。


 揺れは、写っていない。

 少なくとも、目に見える形では。


「……正常だ」


 そう判断した直後、

 胸の奥で、小さな否定が生まれる。


 正常すぎる。


 次の写真。

 角度が、わずかに違う。


 次。

 露出が、ほんの少しだけずれている。


 それらは、

 揺れを捉えようとした痕跡だった。


 写らなかったのではない。

 写そうとした、という事実だけが残っている。


 部室の扉が開く音がして、

 希夢は、反射的に画面を伏せた。


 雛乃だった。


「……来てたんだ」


「うん」


 希夢は、画面を閉じず、

 角度だけを変える。


 雛乃は、何も聞かずに隣に立ち、

 画面を覗いた。


 ほんの数秒。


「……消えてないね」


 それは、評価でも、感想でもない。


「消してないから」


「ううん」


 雛乃は、首を振る。


「消そうとした形跡も、ない」


 その言葉に、希夢は、ゆっくりと息を吐いた。


 確かにそうだ。

 削除履歴も、編集ログも、存在しない。


 まるで、

 消す選択肢が、最初から用意されていなかったように。


 裕也が来たのは、さらに少し後だった。

 彼は、画面を見た瞬間、言葉を失う。


「……残ったんだ」


「うん」


「残ると思ってた?」


 希夢は、少し考えてから答える。


「……思ってなかったけど」


 言葉を切り、

 続ける。


「残らないって、思ってた理由も、ない」


 裕也は、苦笑した。


「一番、嫌なやつだな」


 誰も否定しなかった。


 三人は、画面を囲みながら、

 誰もファイルを操作しなかった。


 開いた。

 見た。

 それだけだ。


 それ以上触れれば、

 このデータは「使われるもの」になる。


 今は、まだ、

 存在しているという事実だけで、十分だった。


 フォルダは、閉じられない。

 かといって、開き続けることもできない。


 希夢は、ウィンドウを最小化した。


 消していない。

 隠してもいない。


 ただ、

 そこに在る状態に戻しただけだ。


 部室の空気が、

 ほんのわずかに、重くなる。


 それは、不安ではない。

 確認がひとつ、増えただけだ。


 第二章は、

 ついに「残ってしまったもの」を、

 はっきりと形にし始めていた。


 部室の空気が、少し落ち着いたあとだった。

 希夢は、最小化したウィンドウをそのままにして、

 椅子に深く座り直す。


「……一応、確認しとく?」


 裕也の声は、軽い。

 けれど、提案の内容は重い。


「どこを?」


 雛乃が聞く。


「共有の方」


 三人とも、すぐに理解した。

 科学部の共有端末。

 部室の隅に置かれた、少し古いデスクトップ。


 観測データのバックアップ用で、

 個人の趣味的な写真は入れないはずの機械だ。


 入れないはずだった。


 電源を入れると、ファンの音が低く唸る。

 起動には、少し時間がかかる。


 その待ち時間が、

 妙に長く感じられた。


 画面が立ち上がり、

 ログイン画面が表示される。


 ユーザー名は、部の共通アカウント。

 パスワードは、誰もが知っている。


 希夢が入力する。

 キーの音が、部室に小さく響く。


 デスクトップは、整然としている。

 余計なアイコンはない。


 だからこそ、

 ひとつのフォルダが、はっきり見える。


 名前は、個人端末のものと、ほとんど同じ。

 日付と観測地点。


「……あるね」


 雛乃が言う。


「うん」


 希夢は、短く返す。


 裕也は、腕を組んだまま、画面を見つめている。


「同期、した覚えある?」


「ない」


「俺も」


 三人の答えは、一致していた。


 フォルダを開く。

 中身も、似ている。


 写真。

 ログ。

 短い動画。


 ファイル名の付け方も、

 個人端末のものと同じ規則だ。


 違うのは、

 更新日時だけ。


「……こっちの方が、早い」


 裕也が、画面の隅を指す。


 確かに、数分だけ、こちらの方が先に保存されている。


「自動?」


「にしては、選択が細かい」


 雛乃は、ログファイルを開き、

 すぐに閉じた。


「バックアップっていうより……」


 言葉を探し、

 少し間を置く。


「元データが、こっちだった感じ」


 希夢は、その可能性を否定しなかった。


 共有端末は、

 常に部室に置かれている。


 天文台に持ち出した記憶はない。

 それなのに、

 ここに、最初の形がある。


 さらに、ひとつだけ違いがあった。


 共有端末のフォルダには、

 テキストファイルが追加されている。


 短いメモ。

 数行だけの内容。


 希夢は、マウスを動かし、

 それを開いた。


 画面に表示された文字は、

 簡潔だった。


観測条件:不明

再現性:低

ただし、記録は保持すること


 三人は、同時に息を止めた。


「……これ、誰が書いた?」


 裕也の問いは、

 答えを期待していない。


「書式、先生のじゃない」


 雛乃が、静かに言う。


「俺たちのでもない」


 希夢は、画面を閉じなかった。


 閉じれば、

 この文章を「無かったこと」にできる気がした。


 だが、

 それは選ばない。


 部室の外から、誰かの声が聞こえる。

 遠くの足音。


 日常は、変わらず続いている。


 それでも、

 共有端末の画面だけが、

 別の時間に属しているように見えた。


「……消さない?」


 裕也が、確認する。


「うん」


 雛乃は、即答した。


「これは、もう私たちだけのものじゃない」


 希夢は、頷く。


「部室の一部だ」


 共有端末のウィンドウを、

 最小化する。


 電源は落とさない。


 触らず、消さず、

 存在している状態に戻す。


 三人は、しばらく黙って座っていた。

 誰も、次の行動を急がない。


 記録は、残ってしまった。

 しかも、

 自分たちの管理外で。


 それは、偶然ではない。

 事故でもない。


 第二章は、

 はっきりと次の段階へ入っていた。


 空白は、

 もう「気づいた人だけのもの」ではない。


 静かに、

 場所そのものへ、浸透し始めている。


 それに気づいたのは、偶然だった。

 あるいは、偶然という形を取った必然だった。


 部室を出る直前、雛乃がふと立ち止まった。


「……これ、前からあった?」


 指差した先は、天井近く。

 部室の隅に取り付けられた、小さな黒い半球。


 防犯カメラだった。


 希夢は、少し考えてから答える。


「……あった、と思う」


「だよね」


 裕也も頷く。


「学校の備品だし」


 それで、話は終わるはずだった。


 ただ、

 終わらなかった。


 雛乃は、カメラを見上げたまま、

 視線を外さない。


「でも、記録って……どこに行くんだろ」


 その問いに、即答できる者はいなかった。


 校内の防犯カメラは、

 管理室に集約されている。

 通常、部活動で気にする対象ではない。


 けれど、

 「記録されているかもしれない」

 という事実だけが、急に重みを持つ。


「……見に行く?」


 裕也の声は、冗談めいていた。

 だが、冗談として受け取るには、

 三人とも、静かすぎた。


「行かない」


 希夢は、すぐに答えた。


「見る理由が、ない」


「うん」


 雛乃も同意する。


「見たら、それは“確認”になる」


 確認は、

 ここまで積み上げてきた沈黙を、

 一気に破壊してしまう。


 それでも、

 カメラは、そこにある。


 視線を向けなくても、

 存在している。


 希夢は、思考を整理する。


 個人端末。

 共有端末。

 書類。

 倉庫の箱。


 そして、

 この部屋そのもの。


「……これ、誰の媒体でもないね」


 希夢が、静かに言う。


「うん」


 雛乃は、すぐに理解した。


「私たちが触らなくても、

 勝手に記録が更新される」


 裕也は、腕を組み、天井を見上げる。


「一番、厄介なやつだ」


 そのとき、

 部室の扉が、外から軽く叩かれた。


 三人は、同時に視線を向ける。


「誰か、いる?」


 知らない生徒の声。

 用事は、すぐに終わった。


「ごめん、鍵借りたかっただけ」


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。


 何も、特別なことは起きていない。


 けれど、

 その一連の動きが、

 すべて記録されている可能性を、

 三人は同時に意識していた。


 自分たちの会話も。

 沈黙も。

 天井を見上げた視線さえも。


 雛乃は、ゆっくりと息を吐いた。


「……残るね」


「うん」


 希夢は、否定しない。


「消せない形で」


 裕也は、苦笑した。


「消すとか、選べる段階じゃないな、これ」


 その通りだった。


 これは、

 保存するかどうかを決める話ではない。


 保存されている前提で、どう振る舞うか

 という段階に入っている。


 三人は、部室を出た。

 鍵を掛ける。


 いつも通りの動作。

 いつも通りの時間。


 防犯カメラは、

 そのすべてを、等しく見下ろしている。


 感情も、意味も、区別しない。


 ただ、

 起きたことを、起きた順に保持する。


 それは、

 誰の意図でもない記録。


 誰の許可もいらない媒体。


 第二章は、

 ついにそこへ到達した。


 空白は、

 人の手を離れた。


 部室の鍵を掛けたあと、三人はしばらく廊下に立っていた。

 帰るには、まだ早い。

 戻る理由は、もうない。


 天井の防犯カメラは、廊下にも続いている。

 部室の外に出ても、

 「記録されている」という前提は変わらなかった。


「……見ないんだよな、結局」


 裕也が、歩き出しながら言った。


「うん」


 希夢は、即答する。


「見られる状態にある、ってことと」

「見る、ってことは、違う」


 雛乃は、その言葉を補う。


「再生した瞬間に、

 “意味”が固定されちゃう」


 誰も反論しなかった。


 個人端末のフォルダ。

 共有端末のバックアップ。

 書類に残った空白。

 倉庫の箱。

 防犯カメラの映像。


 それらは、

 すべて、再生可能な形で存在している。


 それでも、

 誰も再生しない。


 それは、恐れているからではない。

 証拠が欲しくないからでもない。


 今は、まだ、確定させる段階ではない

 という、静かな合意だった。


 雛乃は、歩きながら、

 ふと空を見上げる。


 夕方の空には、星は見えない。

 観測の話をする時間帯でもない。


 それでも、

 「見る」「見ない」という判断が、

 星を見るときと同じだと感じていた。


 距離を保つ。

 焦点を合わせない。


 それも、観測の一部だ。


 希夢は、頭の中で、

 映像を想像してみた。


 部室に入る三人。

 倉庫の前で立ち止まる姿。

 天井を見上げる視線。


 防犯カメラの映像は、

 それらを、ただ平坦に並べるだろう。


 揺れも、

 違和感も、

 空白の意味も、


 映らない。


 それが、最大の問題だった。


 映らないものを、

 映る形式で再生してしまえば、

 「無かったこと」にされる。


「……再生しない、って決めるのも」


 裕也が、少し間を置いて言う。


「結構、勇気いるな」


「うん」


 希夢は、否定しない。


「でも、今はそれが、正しい」


 雛乃は、ゆっくり頷く。


「少なくとも、

 この章では」


 その言い方が、

 未来を完全には閉じていないことを示していた。


 校舎の外に出ると、

 夕方の風が、三人の間を抜けていく。


 日常の音が、戻ってくる。

 部活帰りの声。

 自転車のブレーキ音。


 世界は、

 何も知らない顔をしている。


 だが、

 知らないのではなく、再生していないだけだ。


 記録は、残った。

 完全な形で。


 けれど、

 意味は、まだ、与えられていない。


 第二章の Part C は、

 その状態を、静かに固定した。


 再生されない記録。

 参照されない映像。


 それらは、

 空白を消すためのものではない。


 空白が存在し続けるための、土台だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ