希夢への想い
「たぶん、どれも本当なんだと思う」
鹿島先輩のその言葉は、白い静寂の中に深く沈んだまま、すぐには消えなかった。
会いたかったのも。
知りたかったのも。
置いていきたくなかったのも。
その全部を、否定せずに受け止められたことで、希夢の胸の奥に張っていた糸が、少しだけゆるむ。
けれど、ゆるんだぶんだけ、今度は別の痛みが浮かび上がる。
目の前にいるのは、鹿島先輩だ。
たしかにそうなのに、完全にはこちらの人として固定されていない。
黒髪の影はまだ白い静寂の中で細く揺れ、輪郭の縁は絶えずほどけかけている。
近い。
でも、届かない。
その距離の痛みが、会えたという安堵を簡単には許してくれない。
希夢は、喉の奥に残っていた熱を押し開くみたいに、ようやく言う。
「先輩……俺(私)、知りたいです」
鹿島先輩の影は静かだった。
待っている。
急かさない。
その穏やかさが、かえって残酷なくらい優しい。
「何があったのか。
何を選んだのか。
どうして、あの日……」
そこで声が詰まる。
どうして、自分に何も言わなかったのか。
どうして、ひとりで背負ったのか。
どうして、“見ないで”と言いながら、ここへ辿り着ける痕跡だけは残したのか。
言いたいことはたくさんあるのに、いざ真正面から先輩を前にすると、言葉がうまくひとつの形にならない。
鹿島先輩は、その不器用な沈黙ごと受け取るように、ごく小さく目元の気配をやわらげた。
「うん」
短い相槌。
それから、少しだけ視線を白い静寂の奥へ流す。
光の残滓が、先輩の肩越しにゆっくり漂っていく。
その揺れを見ながら、鹿島先輩は低く言った。
「まず、ひとつだけ訂正しないといけない」
希夢は息を浅くする。
白い層の中で、言葉だけがやけに重い。
ひとつ訂正しないといけない。
その前置きだけで、これから語られるものが、ただの補足ではなく、物語の骨組みそのものを入れ替える種類の真実なのだと分かる。
鹿島先輩は、静かに続ける。
「あの日、装置は壊れてなかった」
希夢の胸が、そこでひとつ大きく鳴る。
壊れていなかった。
その一言は、想像以上に強く世界の見え方を揺らした。
学校側は機材事故として処理した。
記録も、封鎖も、説明も、全部その前提で積み上がっていた。
仲田先生たち大人の記憶さえ、その方向へ切り揃えられていた。
けれど、本人の口からそれが否定される。
装置は壊れていなかった。
なら、あの日の異変は機械の故障じゃない。
もっと別のところから始まっていたことになる。
希夢は、思わず問い返す。
「じゃあ……あれは」
装置の暴走じゃなかったのか。
観測ミスでも、出力エラーでもなかったのか。
鹿島先輩は、少しだけ目を伏せる。
その気配の中に、静かな痛みが混じる。
「揺らぎは、装置の外から来たんじゃない」
白い静寂の中で、その一文はやけにはっきり輪郭を持った。
「装置が壊れて、変なものが出てきたわけじゃない。
装置は、ただ見えてしまったものを観測できる形にしていただけだった」
希夢の背中を、細い冷気が走る。
観測できる形にしていただけ。
つまり装置は原因ではない。
原因はもっと別にある。
あの白い揺らぎそのものだ。
そして装置は、それをこの世界の中で“読めるもの”へ変換しただけ。
鹿島先輩は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「最初におかしいと思ったのは、数値じゃなかった」
その目が、どこか遠い事故の日の一点を見ている。
「音の消え方だった。
空気の沈み方も。
ログには出る前に、空間の方が少しずつ変わり始めてた」
教室で起きていた異変と同じだ、と希夢は思う。
音の遅れ。
空気の浅い揺れ。
世界がほんの少しだけ自分の順番を失う感じ。
あの日の観測施設では、それがもっと濃く、もっと早く起きていたのだ。
「だから僕は、最初から“機械の故障”とは思ってなかった」
鹿島先輩の声は静かだ。
だが、その静けさは確信の静けさだった。
ただの推測ではなく、自分の感覚と観測の両方で辿り着いた認識。
それが、いまここでまっすぐ置かれている。
「じゃあ、どうして……」
希夢の問いは、自分でも思った以上に掠れていた。
「事故ってことになったんですか」
鹿島先輩の影が、わずかに揺れる。
「その方が、ほとんどの人にとって自然だから」
答えはあまりにも静かだった。
「壊れた機械なら、片づけられる。
危険な設備なら、封鎖できる。
でも、“観測したことで形を持つ揺らぎ”なんて説明しても、たぶん誰も残れない」
残れない。
その言葉に、希夢はわずかに息を詰める。
信じてもらえない、ではない。
残れない。
つまり、その真実は人の認識そのものを不安定にし、こちら側の現実へ留まり続けることを難しくするのだ。
鹿島先輩は続ける。
「事故っていう名前をつければ、
少なくとも大半の人は“それで終わった出来事”として扱える」
白い静寂の中で、その説明は妙に冷たく響いた。
でも、そこに皮肉はない。
ただ現実だった。
物語の外へ押しやるための言葉。
閉じるための名前。
事故という語は、真実ではなくても、世界を安定させるには十分に機能してしまう。
希夢は、そこでようやく次の問いへ触れる。
「……じゃあ、先輩が」
喉がまた熱くなる。
「揺らぎに触れたのは……」
鹿島先輩の影が、少しだけこちらへ向き直る。
穏やかだった。
少し悲しくて、それでもどこかで決まっている表情の気配。
「うん」
その短い声だけで、もう分かってしまう。
分かってしまうからこそ、次の言葉を聞くのが怖い。
鹿島先輩は、白い残滓のひとつを見送るみたいに、ごくゆっくりと言った。
「揺らぎに触れたのは……僕の方なんだ」
希夢の胸の奥で、何かが静かに、決定的に噛み合う。
事故ではない。
壊れた装置でもない。
巻き込まれたのでもない。
鹿島先輩が、自分から触れた。
それはもう第十二章で見た記録と一致していた。
でも、記録ではなく、いま目の前の先輩自身の声で聞くと意味が違う。
触れた。
その主体がここにいる。
希夢は、思わず一歩だけ前へ出そうになる。
けれど、この層では足元の感覚が曖昧で、その動きも半分ほど意識の中に沈む。
「どうして……」
やっとのことで、その問いだけが出る。
「止めるため、ですか」
装置の暴走を。
Gate-Xの生成を。
それとも、もっと別の何かを。
鹿島先輩は、その問いにすぐには答えなかった。
白い静寂の中で、少しだけ間を置く。
その間の中に、今まで語られなかった本心の重さがあるのだと、希夢には分かった。
「止めるため、でもあった」
やがて、鹿島先輩はそう言う。
「でも、それだけじゃない」
希夢の胸が、少しだけ強く鳴る。
それだけじゃない。
その先に、もっと個人的で、もっと痛い理由がある。
装置や記録や観測理論だけでは説明しきれない、
ひとりの人間としての選択の核が。
鹿島先輩の影は、白い静寂の中で微かに揺れた。
そして、その次の真実へ続く扉だけを、静かに開くように言った。
「……君を、あそこに立たせたくなかった」
その一言で、白い記憶層の静けさは、別の痛みを帯び始めていた。
「……君を、あそこに立たせたくなかった」
その一言は、白い静寂の中でやけにまっすぐだった。
飾りも、理屈もない。
観測理論でも、装置の挙動でも、事故報告の言葉でもない。
ただひとりの人間が、別のひとりに向けて、最後の最後に選んだ本心だけがそこにあった。
希夢は、息をすることを少し忘れた。
あそこに立たせたくなかった。
それはつまり、鹿島先輩があの日見ていたのは、装置の危険性だけじゃなかったということだ。
白い揺らぎの前に立ったとき、先輩はすでに知っていた。
あの場所に“誰が立つか”で、その先の接続の形まで変わってしまうことを。
「……俺(私)を、守るために」
希夢の声は、自分でも驚くほど小さかった。
問いというより、もう半分は答えを受け取ってしまった人間の声だった。
鹿島先輩の影が、白い静寂の中でわずかに揺れる。
頷いたのかどうかも分からない。
でも、その気配だけで十分だった。
「うん」
短い返事。
その一音で、いままで仮説だったものが、完全に別の意味へ変わる。
事故ではなかった。
装置の暴走を止めるためだけでもなかった。
鹿島先輩は、希夢を守るために、自分から揺らぎへ踏み込んだのだ。
白い静寂の中で、光の残滓がひとつ、ふたつ、細く流れる。
それらは、いま語られようとしている真実に反応するみたいに、先輩の輪郭のまわりで少しだけ濃くなる。
鹿島先輩は、静かに言葉を継いだ。
「あのとき、揺らぎはまだ完全には開いてなかった。
でも、誰かが正面から見続ければ、たぶん“次の観測者”として固定される状態だった」
希夢の胸の奥が、重く鳴る。
次の観測者。
その言葉の意味は、もう痛いほど分かる。
名前を呼ばれること。
見てしまうこと。
応答してしまうこと。
それらは単なる知覚じゃない。
向こう側がこちらを“接続先”として選び取る条件になりうる。
「君は、あそこにいた」
鹿島先輩の声は、あくまで穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥にあるものが、かえって希夢の胸を締めつける。
「しかも、ただ近くにいただけじゃない。
たぶん最初から、君の方が“取られやすい”位置にいた」
希夢は、そこでようやく、自分の中に残り続けていた違和感の正体へ触れる。
どうして鹿島先輩は、あれほど必死に自分を見ないようにさせたのか。
どうして“逃げろ”ではなく“見ないで”だったのか。
どうして事故のあと、自分の記憶だけがあれほど不自然に欠けたのか。
全部、繋がっていた。
自分はただ巻き込まれた後輩ではなかった。
あの瞬間、揺らぎの側から見れば、鹿島先輩よりも先に“固定対象”になりうる位置へ立っていたのだ。
鹿島先輩は、白の向こうを一度だけ見てから続ける。
「僕が止めたかったのは、装置そのものじゃない。
揺らぎが“君を選ぶこと”だった」
希夢は、目を閉じかけて、やめた。
その言葉をちゃんと聞かなければならないと思ったからだ。
揺らぎが君を選ぶこと。
つまり、鹿島先輩は機械の故障に対処したのではない。
希夢という存在が、向こう側へ接続される未来そのものを切ろうとしたのだ。
「装置の停止だけなら、たぶん意味がなかった」
鹿島先輩の声は低い。
「一度“見る側”が決まりかけた揺らぎは、
機械を落としても、記録を消しても、完全には消えない」
その説明の冷たさが、逆に真実の重さを増していた。
もう装置の問題ではない。
観測された時点で、揺らぎは向こう側とこちら側のあいだに足場を作り始める。
なら、止めるべきは電源ではなく、観測者の固定だ。
「だから、僕が先に触れた」
その言い方はあまりに静かで、希夢はかえって苦しくなる。
先に触れた。
それは自己犠牲を誇る言い方ではない。
ただ、最短の手順としてそれを選んだ人の言い方だった。
「僕の方を接続点にすれば、
少なくとも君は“次の観測者”としては確定しないと思った」
希夢の喉が熱くなる。
「……思った、って」
ようやく出た声は掠れていた。
「確実じゃ、なかったんですか」
鹿島先輩の影が、ごくわずかに揺れる。
それは苦笑にも似ていた。
「確実なことなんて、ほとんどなかったよ」
その返事に、希夢の胸が強く打たれる。
そうだ。
先輩は全部を知っていたわけじゃない。
完璧な答えを持っていたわけでもない。
ただ、限られた観測と感覚の中で、もっとも希夢を守れる確率の高い一手を選んだのだ。
「怖くなかったんですか」
その問いは、希夢自身でも止められなかった。
怖くなかったはずがない。
でも、どうしても聞きたかった。
鹿島先輩は、少しだけ目を伏せる。
「怖かったよ」
あまりにもあっさりした答えだった。
「向こうが何なのかも分からなかったし、
戻れる保証もなかったし、
その先で僕が僕のままでいられるかも分からなかった」
白い静寂の中で、その言葉はやさしく、でも逃げ場なく落ちる。
怖かった。
それでも選んだ。
だからこそ、その選択は神話でも英雄譚でもなく、ひとりの人間のものとして胸に刺さる。
「でも」
鹿島先輩は、そこで希夢の方へ向き直る。
輪郭はまだ揺れている。
それでも、その言葉の向きだけは真っ直ぐだった。
「君があそこに立つ方が、もっと嫌だった」
その一文で、希夢の中に抑えていたものがひとつ大きく揺れる。
理屈じゃない。
責任感だけでもない。
もっと個人的で、もっと感情に近い場所から選ばれた言葉だ。
君があそこに立つ方が、もっと嫌だった。
鹿島先輩は、そこで初めて少しだけ苦しそうに笑う気配を見せた。
「たぶん僕は、装置より先に、君の方を見てたんだと思う」
希夢は、その言葉に息を止める。
あの日。
白い中心の前で。
機材でも、数値でも、揺らぎそのものでもなく。
先輩は、まず希夢を見ていた。
だから“見ないで”になった。
だから先に触れた。
だから事故として閉じる選択まで含めて引き受けた。
鹿島先輩は続ける。
「装置を止めることは、たぶん次の誰かでもできたかもしれない。
でも、あの瞬間に君をあそこから外すのは、僕しかできない気がした」
希夢の目の奥が、ようやく熱を持つ。
それは誇張ではない。
運命めいた言い回しでもない。
ただ、あの瞬間の先輩にとって、本当にそう見えていたのだろう。
だから選んだ。
自分の位置を差し出してでも。
「だから、事故じゃない」
鹿島先輩の声が、最後に静かに定まる。
「僕は壊れたものに巻き込まれたんじゃない。
君をあそこから外すために、揺らぎへ踏み込んだ」
それが“事故”の真実だった。
機械の暴走でも、不可抗力でもない。
守るために、自分から光へ触れた。
その選択の結果が、外側からは失踪や事故に見えただけだ。
希夢は、白い静寂の中で、ようやくその意味を真正面から受け取る。
鹿島先輩は、自分を守るために消えたのだ。
いや、“消えた”のではない。
自分を守るために、こちら側の位置から外れたのだ。
それはあまりにもやさしくて、あまりにも残酷な真実だった。
「君があそこに立つ方が、もっと嫌だった」
その言葉が、白い静寂の中に落ちたあと、希夢はすぐには何も言えなかった。
白い。
音もない。
光の残滓だけが、ゆっくりと漂っている。
それなのに、胸の奥だけがひどくうるさかった。
苦しい。
熱い。
痛い。
いままで自分の中で、ずっと形を持ちきらなかったものが、ようやく輪郭を与えられてしまったからだ。
鹿島先輩は、偶然消えたんじゃない。
事故に巻き込まれたんでもない。
自分を守るために、あの白い揺らぎへ踏み込んだ。
それは、理解できる。
理屈としても、記録としても、今ここで本人の言葉としても、ちゃんと分かる。
でも、分かることと受け入れられることは、まるで別だった。
希夢は、唇を強く結ぶ。
白い静寂の中では、自分の呼吸さえ少し遠い。
なのに、喉の奥だけがひどく熱く詰まる。
「……どうして」
最初に出たのは、それだけだった。
鹿島先輩の影が、白い層の中で静かに揺れる。
待っている。
希夢が次の言葉を言い切るまで、急かさずに。
そのやさしさが、余計に痛かった。
「……どうして言ってくれなかったんですか」
その一文を最後まで出した瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
責めたいわけじゃない。
怒鳴りたいわけでもない。
でも、苦しかった。
自分だけ何も知らないまま置かれていたことが。
守られていたのに、守られた意味すら分からないまま、ずっと欠けた記憶だけを抱えていたことが。
先輩がそんなふうに自分を見ていたことを、今になって初めて知るしかなかったことが。
「どうして……」
もう一度、声が落ちる。
今度は少しだけ掠れていた。
「どうして、ひとりで決めたんですか。
どうして、何も言わないで……
そんなふうに、いなくなるみたいなことを……」
最後の方は、うまく形にならなかった。
いなくなる。
消える。
外れる。
ずれる。
どの言葉も少しずつ違う。
違うのに、どれも痛い。
希夢は、自分の手を強く握る。
握っていないと、身体の輪郭ごとこの白い層にほどけてしまいそうだった。
「俺(私)……」
一人称が、また揺れる。
「何も知らなかった。
先輩が何を見てたのかも、
どうしてあんな顔してたのかも、
どうして“見ないで”だったのかも……
ずっと、分からないまま」
喉が熱い。
目の奥も熱い。
でも、まだ涙は落ちない。
落ちる手前で、ずっと引っかかっている。
「先輩がいなくなったあと、
俺(私)ずっと、
何かが変だって思ってたんです」
鹿島先輩の影は、静かにこちらを向いていた。
完全には鮮明にならないまま、それでも確かに希夢の言葉を受け止めている。
「でも、変だって思うたびに、
そこだけうまく思い出せなくて。
苦しいのに、理由がなくて。
置いていかれたみたいなのに、
どうしてそう感じるのかすら分からなくて……」
そこで、ついに声が少しだけ震えた。
感情が、理屈の形を保てなくなる。
「そんなの、ずるいじゃないですか」
その一言は、子どもみたいに幼かった。
でも、それが本音だった。
守るためだった。
苦しまないようにするためだった。
それは分かる。
分かるからこそ、余計につらい。
だってそのやさしさは、自分の知らないところで全部決められていて、
自分はただ“守られた側”として、穴の空いた記憶だけを持たされていたのだから。
鹿島先輩の影が、ほんの少しだけ揺れる。
苦しそうに見えた。
でも言い訳はしない。
それもまた、希夢には痛かった。
「俺(私)が弱かったからですか」
問いは、ほとんど反射だった。
「信じられなかったからですか。
背負えないって思ったからですか。
だから、何も言わないで、
勝手に全部……」
そこまで言ったところで、喉が完全に詰まる。
違う、とどこかで分かっている。
鹿島先輩は、そんなふうに見下して守ったわけじゃない。
でも、そうでも思わないと、この置き去りにされた痛みの行き場がない。
白い静寂の中で、希夢はついに目を伏せた。
その瞬間、涙が落ちた。
ひとすじ。
静かに。
この層では、涙が床へ落ちる音すらしない。
ただ、頬を伝う熱だけが、いま自分の中で何かが決定的にほどけたことを教えてくる。
「……っ」
息が乱れる。
それでも、この場所ではその乱れ方さえ少し遠い。
でも、涙だけはごまかせなかった。
希夢は、片手で目元を押さえる。
それでも次の涙が落ちる。
「俺(私)、先輩に会いたかったんです」
それは、やっと言えた本音だった。
真相のためでも。
観測者としての役割のためでもない。
「会って、ちゃんと聞きたかった。
どうしてなのか。
何を守ろうとしてたのか。
俺(私)をどう見てたのか……」
涙で視界が揺れる。
「でも、本当は……
そんなの聞く前に、
ただ先輩に、ちゃんと残っててほしかった」
その一文を言ってしまった瞬間、希夢は自分の胸の奥にあった感情の重さを、初めてまっすぐ知る。
知りたかった。
真相を。
理由を。
過去を。
でもそれよりもっと深いところで、
ただ、いなくならないでほしかったのだ。
白い静寂の中で、鹿島先輩の影がひどくやわらかく揺れる。
希夢は、もう止められなかった。
「どうして言ってくれなかったんですか」
今度は、最初よりもずっと小さい声だった。
「どうして、俺(私)に選ばせてくれなかったんですか」
それは責めではない。
悲鳴に近かった。
守る。
残る。
見届ける。
そういう言葉の全部の下で、希夢が本当に引き裂かれていたのは、そこだった。
自分には何も知らされず、何も選べず、
ただ結果だけをあとから受け取るしかなかったこと。
鹿島先輩は、自分の代わりに選んだ。
でも、その選択の中に、自分の意志は最初から入っていない。
それが、たまらなく苦しかった。
白い層の中で、鹿島先輩の気配が少しだけ近づく。
近づいた、というより、
希夢が崩れた分だけ、その輪郭が静かにこちらへ寄ってきたように見えた。
でも、まだ触れられない。
その“届かなさ”が、さらに涙を誘う。
希夢は、目元を押さえたまま、もう一度だけ言った。
「俺(私)……
守られたかったわけじゃ、ないです」
それは本当でもあり、嘘でもあった。
守られたくなかったわけではない。
ただ、何も知らないまま守られて、何も知らないまま失うのが、あまりにもつらかったのだ。
「先輩と一緒にいたかった」
その言葉は、ほとんど囁きだった。
でも、それで十分だった。
希夢の中で長いこと曖昧だった感情の核が、いま涙と一緒にほどけて、白い静寂の中へ置かれた。
会いたかった。
知りたかった。
置いていきたくなかった。
そして、いなくならないでほしかった。
その全部の中心にあったのは、きっとその一言だった。
鹿島先輩の影は、静かに、痛むほどやさしい気配のまま揺れていた。
「先輩と一緒にいたかった」
その言葉が白い静寂へ落ちたあと、希夢はもう顔を上げられなかった。
涙は、この層の中では音にならない。
頬を伝って落ちても、床へ触れた感覚すら曖昧だった。
それでも、落ちたことだけは分かる。
熱がある。
痛みがある。
それだけが、自分の感情がまだ“こちら側のもの”として残っている証拠みたいだった。
白い静寂の中で、鹿島先輩の影はしばらく何も言わなかった。
責めない。
否定しない。
慰めの形だけを急いで差し出しもしない。
その沈黙が、希夢にはかえって痛かった。
もしここで、
大丈夫だよ、とか。
仕方なかったんだ、とか。
そういう言葉が返ってきたなら、たぶんもう少し簡単に泣けた気がする。
けれど鹿島先輩は、そんなふうに軽く整えたりはしなかった。
希夢がようやく吐き出した感情を、その重さのまま受け取っている。
その気配だけが、ひどく静かに伝わってくる。
やがて、鹿島先輩の声が落ちた。
「うん」
たったそれだけ。
なのに、その一音が、希夢の胸の奥を強く打つ。
分かっている、という響きだった。
聞いている、という響きでもあった。
そして何より、
それを言わせてしまったことを、自分の側もちゃんと引き受けている人の声
だった。
希夢は、目元を押さえたまま、小さく息を詰める。
鹿島先輩は続ける。
「ごめん」
その一言は、白い静寂の中で驚くほどまっすぐだった。
弁解の前につける儀礼的な謝罪ではない。
話を丸く収めるための言葉でもない。
ただ本当に、
自分が希夢に与えてしまった傷を知っている人の謝罪
だった。
希夢の胸が、また強く痛む。
謝ってほしかったわけじゃない。
でも、謝られなければもっと苦しかったかもしれない。
その矛盾ごと、いまは白い層の中へ晒されている。
鹿島先輩の影は、少しだけ視線を伏せる気配を見せる。
「何も言わなかったことも。
選ばせなかったことも。
結果だけを、あとから君に背負わせたことも」
そのひとつひとつが、希夢の胸へ順番に沈んでいく。
何も言わなかった。
選ばせなかった。
結果だけを残した。
全部、本当だ。
だからこそ否定できない。
否定できないまま、ようやく本人の口からそこへ名前が与えられる。
「ずるかったと思う」
鹿島先輩は、静かにそう言った。
希夢は、そこでやっと少しだけ顔を上げる。
白い静寂の中で揺れる黒髪の影。
輪郭はまだ完全ではない。
それでも、その気配だけは、ひどくまっすぐこちらへ向いている。
「でも」
その一音で、鹿島先輩の声の質が少し変わる。
言い逃れではない。
正当化でもない。
ただ、本心の中心へ入る前の静かな深呼吸みたいだった。
「希夢には、何も背負わせたくなかった」
希夢の喉が、また熱くなる。
章の骨組みとして知っていたはずの言葉なのに、
実際にこうして届くと重さが違う。
何も背負わせたくなかった。
事故の真相も。
観測者としての位置も。
自分を守るために誰かが消えたという事実も。
その全部を、なるべく希夢の肩の上に残したくなかったのだと、その一言だけで分かってしまう。
鹿島先輩は続けた。
「君は、たぶん背負ってしまうから」
その言葉に、希夢は小さく目を見開く。
「自分が悪くなくても、
自分が選べなかったことでも、
あとから“あの時こうしていれば”って抱え込む」
白い静寂の中で、その指摘はやけに正確だった。
雛乃のことでも。
裕也のことでも。
先生のことでも。
希夢は、後から見える分岐をぜんぶ自分の胸の中へ持ち込もうとする。
鹿島先輩は、それを知っていたのだろう。
事故の日より前から、きっともうずっと。
「だから、あの時」
影がわずかに揺れる。
「君に選ばせる形にしたら、
たぶん君は、あとでずっとそこに縛られると思った」
希夢の手が、無意識に強く握られる。
それは正しいのかもしれない。
いや、たぶん正しい。
もしあの場で、君が行くか、僕が行くか、みたいな形で選択が置かれていたら。
そして鹿島先輩が向こうへ行ったなら、自分はきっと一生そこから動けなかった。
でも、正しいからといって痛くないわけじゃない。
「それでも……」
希夢の声は小さい。
掠れていた。
「それでも、俺(私)にだって……」
選びたかった。
せめて知りたかった。
そう言い切る前に、鹿島先輩の声がやさしく重なる。
「うん」
それは遮るためじゃない。
言わなくても分かっている、という受け止め方だった。
「ほんとは、君にちゃんと話すべきだったのかもしれない」
鹿島先輩は、少しだけ白い残滓の方へ視線を流す。
「もっと早く。
もっと別の形で。
僕が何を見てて、何を怖がってたのか」
その言葉に、希夢の胸がじりじりと熱を持つ。
もしそうしてくれていたら。
もし事故の前に何かひとつでも共有されていたら。
いまのこの痛みも、少しは違う形だったのかもしれない。
でも、過去はもう変わらない。
その“もし”が、白い層の中ではかえって鋭く刺さる。
「でも、間に合わなかった」
鹿島先輩の声は静かだった。
「揺らぎの方が速かったし、
僕が決めるのも遅かった」
その一文に、事故の日の切迫がようやく人の時間に降りてくる。
完璧な判断じゃなかった。
理論が揃っていたわけでもない。
全部を整理してから決めたわけでもない。
遅かった。
でも、その遅さの中で、鹿島先輩はなお選んだ。
「それに」
そこで、鹿島先輩の気配がほんの少しだけやわらかくなる。
「君は、前に進める人だったから」
希夢は、息を止めた。
章プロットにあった言葉。
それがいま、白い静寂の中で肉声として落ちる。
「……僕がいなくなっても、前に進める人だから」
その声には、信頼があった。
慰めではない。
期待とも少し違う。
もっと切実な確信だった。
君は壊れるかもしれない。
苦しむかもしれない。
遠回りもするかもしれない。
それでも、最後には立ち上がって先へ行く人だと、鹿島先輩は見ていたのだ。
だからこそ、背負わせたくなかった。
でも同時に、最後には見届ける側になれるとも信じていた。
その矛盾した信頼が、かえって苦しかった。
「……先輩は勝手です」
希夢がそう言うと、鹿島先輩の影はごくわずかに揺れた。
笑ったのかもしれない。
苦く。
ほんの少しだけ。
「うん」
また、あっさりと認める。
「たぶん、すごく勝手だった」
否定しない。
自分を正しい側に置きもしない。
そのことが、希夢には逆に救いだった。
もしここで“それしかなかったんだ”と押し切られたら、
きっとまだ受け止めきれなかった。
でも鹿島先輩は、自分の選択の勝手さも、ずるさも、ちゃんと分かった上で、それでも選んだのだと認めている。
それが、本心なのだろう。
「でも」
鹿島先輩の声が、もう一度だけ深くなる。
「君をあそこで失うよりは、ずっとよかった」
希夢は、そこでついに目を細めた。
涙がまた落ちる。
優しい。
でも、優しいだけではない。
その優しさは、あまりにも一方的で、あまりにも決定的で、
だからこそ残された側の心を深く切ってしまう。
それでも、そこに嘘がないことだけは分かる。
鹿島先輩は、本気でそう思っていた。
自分がいなくなる方がまだいいと。
希夢をあそこで失うよりは。
白い静寂の中で、光の残滓がやわらかく揺れる。
その揺れに包まれながら、希夢はようやく理解する。
先輩の本心は、英雄的な自己犠牲ではない。
守らなければならない使命感だけでもない。
もっとずっと個人的で、もっとやわらかい。
希夢に背負わせたくなかった。
希夢には前へ進んでほしかった。
だから、自分がいなくなる方を選んだ。
それが、鹿島先輩の本心だった。




