表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
空白が先に在った場所
5/14

空白のロッカー

 朝の校舎は、音が少ない。

 少ないというより、集まりきっていない。


 希夢は、階段を上がりきったところで一度立ち止まった。

 まだ始業前の時間帯。廊下には、誰かの足音が遠くで反射するだけだ。

 それでも、足を進めるたびに、わずかな違和感がついてくる。


 ――昨日と、同じはずなのに。


 理科棟の端にある科学部の部室は、いつも通り施錠されている。

 扉の前に立つと、ドアノブに手をかける前の一拍が、自然に生まれた。


 待つ理由はない。

 ただ、待ってしまう。


 希夢は、ポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。

 金属が擦れる音が、思ったよりも遅れて耳に届く。


 部室の中は、変わっていなかった。

 机の配置、棚の位置、黒板の書きかけの数式。

 どれも、昨日の続きに見える。


 それでも、入った瞬間に分かる。


 何かが、最初から足りない。


 希夢は、視線を室内に巡らせた。

 どこを見ても、欠けたものは見当たらない。

 空席も、余分なスペースも、意識しなければ気づかない程度だ。


 それなのに、胸の奥で、軽く圧がかかる。


 ――ここだった。


 説明はできない。

 けれど、体が先に位置を覚えている。


 壁際のロッカーの前で、希夢は足を止めた。

 名札は、すでに外されている。

 最初から、何も貼られていなかったように見える。


 そのはずなのに、

 外されたという事実だけが、はっきり残っている。


 希夢は、ロッカーの扉に手を伸ばしかけて、やめた。

 触れれば、確かめてしまう。

 確かめれば、そこに「現象」が生まれる。


 今は、まだ、背景でいい。


 少し遅れて、雛乃が部室に入ってきた。

 彼女は、室内を一周見渡してから、静かに息を吐く。


「……まだ、あるね」


 誰に向けた言葉でもない。

 希夢は頷くだけで返した。


「なくなってるのに、ある」


「うん。たぶん」


 二人の会話は、それ以上続かなかった。

 言葉を重ねると、輪郭ができてしまう。


 雛乃は、ロッカーの前で立ち止まる。

 希夢と同じ場所だ。

 彼女は、距離を保ったまま、視線だけを置いた。


 星を見るときと、同じ姿勢。


「空いてる、って感じじゃないね」


「うん」


「……置いてある、って感じ」


 雛乃は、そう言ってから、言葉を切った。

 言い切りにしなかったのは、意図的だ。


 裕也が入ってきたのは、その少し後だった。

 彼は、部室に入った瞬間、顔をしかめる。


「……あれ?」


 視線が、自然に同じ場所へ集まる。

 説明はいらない。


「やっぱ、分かる?」


 希夢の問いに、裕也は短く頷いた。


「分かるっていうか……」

「そこに、何かあった前提で見ちゃってる感じ」


 それは、正確だった。


 ロッカーは空だ。

 何も置かれていない。

 それなのに、過去形でしか見られない。


 裕也は、ロッカーから一歩離れた位置に立ち、腕を組んだ。


「触らない方がいいよな」


「うん」


 雛乃が即答した。


「今日は、見るだけ」


 その言葉に、希夢も、裕也も異論はなかった。


 三人は、部室に集まりながら、

 誰も「鹿島先輩」という名前を口にしなかった。


 呼ばなくても、

 そこに“在った”ことだけは、全員が共有している。


 空白は、すでに説明を必要としない段階に入っていた。


 それは、消失ではない。

 忘却でもない。


 場所として、先に在ったもの。


 第二章は、そうして静かに動き出した。


 顧問が来るまでには、まだ少し時間がある。

 時計を見なくても分かる。

 この時間帯は、いつも、部室がいちばん静かだからだ。


 希夢は、机の上に鞄を置き、ノートを取り出した。

 ページを開いたまま、書くでもなく、閉じるでもない状態で置く。


 何かを始めるには、早い。

 何もしないには、遅い。


 その中間に、今はいる。


 雛乃は、窓際に立ち、外を見ていた。

 空は、よく晴れている。

 星の話をする理由は、どこにもない。


 それでも、彼女の視線は、上に向きかけて、やめた。


 ――今日は、まだ。


 裕也は、椅子を引いて座り、スマートフォンを取り出したが、

 画面を点ける前に、机の上に伏せた。


「……来ないな」


 独り言のような声だった。

 誰かを呼んでいるわけではない。


「いつも、このくらいじゃない?」


 希夢が、ノートから目を離さずに答える。


「そうだけどさ」


 裕也は、言葉を続けようとして、やめた。

 “いつも”という基準が、今日は信用できない。


 部室の外から、足音が近づいてくる。

 けれど、扉の前で止まらない。


 通り過ぎていく。


 その事実に、三人は、同時に気づいた。


 希夢は、無意識に息を詰めた。

 雛乃は、視線を下げる。

 裕也は、肩の力を抜いた。


 顧問の足音だ。

 間違いない。


 それなのに、

 部室に入ってこない。


 廊下の向こうで、足音が遠ざかる。

 その距離感が、妙に正確だった。


「……避けた?」


 裕也の声は、低い。


「ううん」


 雛乃が、すぐに否定する。


「避けた、っていうより……」


 言葉を探して、少し間が空く。


「ここに、入らない理由が、最初からある感じ」


 希夢は、その表現を、悪くないと思った。

 理由が“発生した”のではない。

 前提として、配置されている。


 顧問は、何も言わない。

 まだ、何も起きていないからだ。


 起きていない。

 ただ、触れないままにされている。


 希夢は、ノートの端に、無意識に線を引いていた。

 真っ直ぐでも、曲線でもない。

 途中で止まっている。


 それを見て、自分で少し驚く。


「……昨日さ」


 希夢は、声を抑えて言った。


「天文台のこと、誰にも聞かれてないよね」


 雛乃が、静かに頷く。


「話題にすら、なってない」


「普通なら、どこかで引っかかるはずだよな」


 裕也の言葉に、棘はなかった。

 ただ、確認だ。


 部室の外は、いつも通りに動いている。

 授業の準備。

 生徒の声。

 チャイムの予兆。


 それらは、すべて正常だ。


 だからこそ、

 この部室だけが、浮いている。


 雛乃は、ロッカーの前に、再び視線を向けた。

 距離は保ったまま。


「先生が来る前に、確認しなくていい?」


「何を?」


「……何もしないってこと」


 その言葉に、希夢は、小さく息を吐いた。


「うん。今日は、それでいい」


 裕也も、頷く。


「再現は、条件が揃ってからだな」


 それは、冗談でも、強がりでもなかった。


 今は、

 空白が、空白のままでいる時間だ。


 顧問が来れば、日常が戻る。

 戻ったように、見える。


 その前に、三人は、同じ沈黙を共有していた。


 部室は、静かだ。

 けれど、何も起きていないわけではない。


 触れられなかったことが、

 確かに、積み上がっていく。


 廊下の空気が、少しずつ動き始める。

 教室へ向かう足音が増え、声の数も重なっていく。


 それは、始業チャイムの少し前に起こる、

 決まった予兆だった。


 部室の中だけが、その流れから外れている。

 時間が止まっているわけではない。

 ただ、接続が遅れている。


 希夢は、ノートを閉じ、鞄に戻した。

 書かなかったこと自体が、今日の記録になる。


「そろそろ、行く?」


 裕也の問いは、確認というより、

 “切り替えの合図”に近かった。


 雛乃は、窓の外から視線を戻す。


「うん」


 短い返事。

 それで十分だった。


 ロッカーの前を通り過ぎるとき、

 三人の歩幅が、ほんの一瞬だけ揃う。


 誰かが合わせたわけではない。

 ただ、同じ位置を意識した。


 扉に手をかける直前、

 希夢は、なぜか振り返らなかった。


 見れば、そこにある。

 見なければ、背景に戻る。


 今日は、後者を選ぶ。


 部室の扉が閉まる音は、軽い。

 それなのに、廊下に出た瞬間、音の密度が一気に増した。


 笑い声。

 呼びかけ。

 机を引く音。


 世界が、元の速度に戻っていく。


「……戻ったな」


 裕也が、ぼそりと言う。


「戻った“感じ”はするね」


 雛乃の言い方は、少し慎重だった。


 希夢は、何も言わなかった。

 戻ったのは、世界だけだ。


 自分たちの内側には、

 まだ、部室の静けさが残っている。


 チャイムが鳴る。


 音は、はっきりしている。

 遅れも、揺れもない。


 それでも、希夢は、一拍遅れて立ち止まった。


 音が、

 自分の中に届くまでの時間を、確かめるように。


 ――問題ない。


 そう判断して、足を進める。


 教室に入ると、席はすでに半分ほど埋まっていた。

 誰も、特別な顔はしていない。


 鹿島先輩の席は、

 最初から存在しなかったかのように、

 別の用途に使われている。


 それが、正しい配置だと言わんばかりに。


 希夢は、自分の席に座る。

 机に触れ、椅子の高さを確かめる。


 すべて、正常だ。


 だからこそ、

 確認しないと、飲み込まれてしまう。


 授業が始まる。

 板書の音が、規則正しく続く。


 雛乃は、ノートを取りながら、

 ロッカーの前で止まった視線を、思い出していた。


 裕也は、黒板を見つめながら、

 夢の中の揺れを、意識の奥に押し戻す。


 希夢は、ペンを走らせながら、

 部室の静けさを、記憶として固定する。


 誰も、口には出さない。

 それでも、三人は同時に理解していた。


 日常は、上書きされる。

 だが、完全ではない。


 上書きされなかった部分が、

 次の条件になる。


 チャイムの余韻が消えるころ、

 第二章は、さらに一段、深く進んでいた。


 午前の授業が続くあいだ、部室のことを考える余裕はなかった。

 黒板の文字を追い、ノートを埋め、問題を解く。

 その一つ一つが、いつも通りに進んでいく。


 それでも、完全に忘れてしまうことはなかった。


 希夢は、ノートの余白に、無意識に小さな印を付けていることに気づいた。

 意味のない記号。

 消そうと思えば消せる。


 消さなかった。


 雛乃は、問題集を閉じるとき、必ず一度だけ窓の外を見る。

 空は明るい。

 星の話をする理由は、どこにもない。


 それでも、空を見る動作だけが残る。


 裕也は、チャイムが鳴るたびに、机の中のスマートフォンに触れそうになり、

 そのたびに、手を引っ込めた。


 誰かに確認したい衝動が、

 まだ、形を持っていない。


 昼休みが近づくにつれ、教室の空気が緩む。

 弁当の話。

 購買の話。

 午後の授業の愚痴。


 その流れの中で、

 鹿島先輩の名前は、一度も出なかった。


 不自然だと思うほどではない。

 ただ、話題として成立しない。


 それが、今の配置だった。


 希夢は、雛乃と目が合った瞬間、

 ほんのわずかに頷いた。


 確認でも、合図でもない。

 共有の更新だ。


 裕也は、そのやり取りを横目で見て、

 何も言わずに、視線を戻した。


 言葉にすれば、配置が変わってしまう。


 昼休みのチャイムが鳴る。

 音は、朝と同じく、はっきりしている。


 人の動きが一斉に変わる。

 立ち上がる音。

 椅子を引く音。

 笑い声。


 その中で、希夢は、一瞬だけ、

 部室のロッカーを思い浮かべた。


 扉は閉じている。

 中は空だ。

 名札はない。


 それでも、そこは「使われていない」場所ではない。


 何も置かれていないことで、

 役割を持ってしまった場所。


 雛乃は、立ち上がりながら、

 今日の昼休みは、部室に行かないと決めた。


 再現には、条件がいる。

 今は、その条件が揃っていない。


 裕也も同じ判断をしていた。

 理由は違うが、結論は一致している。


 三人は、別々の行動を取りながら、

 同じ「空白」を背負って昼休みに入った。


 それは、誰かが消えたから生まれた空白ではない。

 最初から、そこに置かれたような空白だ。


 部室は、鍵のかかったまま、

 静かにその役割を果たしている。


 第二章は、まだ始まったばかりだ。

 けれど、再配置は、すでに完了している。


 触れなくても、

 空白は、機能し続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ