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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光の底で、過去はひとつになる
48/56

時間の収束

 雛乃の涙が、ようやく静かに落ち着き始めた、その直後だった。


 白い部屋の空気が、目に見えないところでひとつ深く沈んだ。


 希夢は、最初それを音で感じた。

 聞こえたわけではない。

 むしろ逆で、いままで部屋の中に薄く漂っていた微細な“無音の揺れ”が、一段だけ重くなったことで気づいた。


 白い壁一面に浮かんでいた観測ログが、いっせいに脈を変える。


 明滅していた矩形が、一瞬だけ静止する。

 次の瞬間、時刻も、波形も、英字の列も、

 すべてが部屋の中央へ向かってごく微かに“流れた”。


「……っ」


 雛乃が、息を詰める。


 希夢も、もう壁を見てはいなかった。

 部屋の中心。

 白い台座の少し奥。

 さっきまでただ白の密度だけが濃かった場所へ、いま明らかな変化が起きていた。


 光が集まっている。


 照明が強くなったのではない。

 部屋全体の白が、その一点だけへ薄く寄せられていくのだ。

 まるで、ばらばらに保存されていた記憶の白さが、

 ひとつの場所でだけ“同じ意味を持つ形”へ収束し始めているみたいだった。


 希夢は、無意識に一歩だけ前へ出る。


 靴音は、また床へ残らない。

 でも、今はもう音のことを考える余裕がなかった。


 中心の白が、浅く脈打つ。


 ひとつ。

 間を置いて、もうひとつ。

 心臓の鼓動に似ている。

 だが、生き物の脈とは少し違う。


 もっと均質で、もっと静かで、

 “空間そのものが形を決めようとする時の律動”

 に近かった。


 白い部屋の天井も、壁も、床も、

 その脈に合わせてほんのわずかに濃淡を変える。


 すると、中心の光の中に、細い線が一本だけ浮いた。


 黒ではない。

 でも、白よりも深い。

 白を削るように、そこだけが線として存在する。


「……来る」


 希夢の声は、自分でも驚くほど低かった。


 雛乃は返事をしない。

 たぶん、同じものを見ている。


 細い線は、縦に伸びる。

 それから、ごくわずかに湾曲する。

 裂け目というほど荒くはない。

 むしろ、水面へ落とした黒い糸が、光の中でゆっくり形を持っていくみたいだった。


 その周囲で、壁面の観測ログがいっせいに揺れる。


 PHASE SHIFT

 ENTRY FLAG

 SYNC ERROR

 OBSERVER TRACE


 文字列は読み切れないほど速く明滅し、

 やがてそのほとんどが中央へ向かって沈んでいく。


 まるでこの部屋全体が、

 いま生成されようとしている何かのために、

 自分の中にあった記録の一部を供給しているみたいだった。


 希夢の胸が、強く鳴る。


 Gate-X。


 名前が、思考より先に身体の方へ浮かぶ。


 事故の日、断片の中で見た不完全な黒い楕円。

 白い中心の前で、まだ穴になりきらないまま揺れていた、あの形。


 いま、同じものが、

 今度は因果の順番を持って、はっきり自分たちの前に立ち上がろうとしている。


 細い線は、やがて面を持った。


 黒い。

 しかし、ただの黒ではない。

 影の黒でも、物質の黒でもない。

 白い空間が“ここだけは自分ではない”と判断した結果、生じた不在の黒

 みたいだった。


 それは静かに広がる。

 楕円に近づく。

 閉じているのに、開いている。

 穴なのに、向こうの景色は見えない。


 希夢は、喉の奥がひどく乾くのを感じた。


 やはりそうだ。

 Gate-X は通路ではない。

 向こう側の景色を見せる窓でもない。

 むしろ、こちら側の現実が“ここから先を自分で定義できない”と白旗を上げた境界

 そのものに近い。


 雛乃が、震える息で言う。


「……薄黒い」


 その一言は、夢の記憶と現実が重なった人間の声だった。


 希夢は、小さく頷く。


「うん」


 黒い楕円は、まだ完全ではない。

 輪郭は揺れている。

 縁は薄く震え、

 その表面では白い光がごく微細な軌道を描いていた。


 手招きするみたいに。

 誘うみたいに。

 あるいは、ここまで来た観測者へ

 “次の段階はもう準備できている”

 と知らせるように。


 壁面のログ群が、そこでふいに沈黙する。


 完全な停止ではない。

 でも、さっきまでの明滅がいっせいに抑えられ、

 白い部屋全体が、ただその黒い楕円の生成だけを見守る構造へ変わる。


 希夢は、背中に冷たいものがまっすぐ走るのを感じながら、

 その変化の意味をはっきり理解する。


 いまこの部屋の中で、

 無数のログも、鹿島先輩の記録も、裕也の位置情報も、

 全部が“中心”へ収束し始めている。


 つまり、Gate-X の生成は単なる現象ではない。

 散らばっていた過去と記憶と観測の因果が、ひとつの出口へ圧縮される過程

 なのだ。


 黒い楕円の縁が、もう一段だけ濃くなる。


 その瞬間、希夢の耳に、ごく微かな音が触れた。


 音、というより、

 声になりきらない空気の震えだった。


 ――……き。


 短い。

 はっきりしない。

 でも、ただのノイズとは違う。


 希夢は、はっとして黒い楕円を見る。


 雛乃も同時に顔を上げていた。


「今……」


 彼女の言葉は最後まで続かなかった。


 黒い楕円の表面が、一瞬だけ内側へ沈む。

 まるで、向こうで何かがこちらの音へ反応したみたいに。


 その周囲に、白い光の線がまた走る。

 ひとすじ。

 ふたすじ。

 三本目で、楕円の輪郭がわずかに安定する。


 Gate-X が、完成へ近づいている。


 希夢は、無意識に手を握った。


 これが事故の日の“結果”ではないことは、もう分かっている。

 これは生成だ。

 再生成だ。

 最深部の記録群と、観測者の痕跡と、まだ終わっていない存在たちが、

 いまここでもう一度、あの境界を作り直している。


 雛乃が、かすれた声で言う。


「全部が……集まってる」


 その表現は、正しかった。


 鹿島先輩の選択。

 裕也の浅い層。

 希夢の未完の観測経路。

 無数の記憶ログ。

 それらがいま、黒い楕円の生成という一点へ向かって、

 因果の糸を巻き取られている。


 希夢は、白い部屋の中央で脈打つその楕円を見つめながら、

 次に起きることが、もう“知る”だけでは済まない段階へ入っているのを感じていた。


 Gate-X は、生まれている。

 事故の日の残響としてではなく、

 いま、現在進行形で。


 薄黒い楕円が、白い部屋の中心でゆっくりと輪郭を深めていく。


 壁面の観測ログは、もうほとんど明滅をやめていた。

 時刻も、波形も、異常値も、名前も、

 すべてが息を潜めたまま、その一点へ吸い寄せられている。


 白い部屋は静かだった。


 静かすぎる、と言った方が近い。

 呼吸の音ですら、部屋の中で一度だけ薄まり、

 “自分が息をした”という事実だけを遅れて返してくる。


 その静けさの中心で、Gate-X はなお脈打っていた。


 ひとつ。

 もうひとつ。

 脈のたびに、黒い輪郭が少しだけ濃くなる。

 白い光の細い線が、その縁を沿うように走る。


 希夢は、目を逸らせなかった。


 事故の日の断片で見たもの。

 白い中心の前に浮かんでいた、不完全な黒い楕円。

 あの時は意味の分からない“結果”に見えたものが、

 いまは因果の順番を持って、自分の前で生成されている。


 その異様さが、怖いという感情を通り越して、

 ほとんど現実の方へ食い込んでいた。


「……希夢さん」


 雛乃の声が、ごく近くからする。


 近いのに、少し遠い。

 白い部屋の中では、距離の感覚まで半拍ずつずれる。


 希夢は返事をしない。

 できない。


 Gate-X の中心で、黒がさらに深くなる。


 表面は平滑ではない。

 揺れている。

 水面でもないし、金属でもない。

 むしろ、向こう側とこちら側のあいだで、まだ定まらない境界だけが薄く震えている

 みたいな揺れ方だった。


 その時だった。


 黒い楕円の中心から、空気が一度だけ内側へ沈んだ。


 音はない。

 だが、希夢の耳の奥に、明らかな“気配の変化”だけが触れる。


 白い部屋全体が、何かを聞くために、さらに深く沈黙した。


 そして、声が落ちた。


 「――希夢」


 希夢の胸が、そこで強く鳴る。


 鹿島先輩の声だった。


 だが、さっき台座の上で再生されたログの声とは違う。

 未来に向けて置かれた、整った記録の声ではない。

 もっと近い。

 もっと不安定で、もっと“いまここ”に触れてくる声だった。


 雛乃が、すぐ隣で息を呑む。


「……先輩」


 その囁きに対して、声は反応しない。

 いや、雛乃の方には向いていないのだと、希夢にははっきり分かった。


 この声は、自分を呼んでいる。


 鹿島先輩が、黒い楕円の向こうか、あるいはその境界そのものから、

 いまこの瞬間の自分へ向かって声を落としている。


 希夢の喉が、ひどく乾く。


 記録ではない。

 再生でもない。

 少なくとも、そうとしか思えない近さがあった。


 Gate-X の表面が、わずかに脈打つ。

 その黒の中へ、白い線が一本だけ走る。

 そして、もう一度。


 「……ここから先は」


 その続きで、声が少し掠れた。


 希夢は、無意識に一歩だけ前へ出る。


 足音は、また床へ残らなかった。

 だが今は、そんなことを確かめる余裕はない。


 ここから先は。


 その言葉は、警告にも聞こえる。

 制止にも。

 あるいは、何かを託す前の最後の確認にも。


 鹿島先輩の声は、続こうとして、いったんほどける。


 黒い楕円の縁が揺れる。

 白い光の線がそこへ絡み、まるで声の通り道そのものが、

 まだ安定しきれていないことを示すみたいに、細かく震える。


 希夢は、思わず名を呼ぶ。


「……鹿島先輩」


 その瞬間、白い部屋の壁面ログが一斉に明滅した。


 OBSERVER TRACE : KIRISHIMA

 CONTACT ROUTE : OPENING

 VOICE LINK : PARTIAL


 雛乃が、はっと壁を見る。

 希夢も同じものを視界の端で捉える。


 voice link : partial。


 やはりこれは、ただの再生ではない。

 接続だ。

 不完全な、しかし現時点の“向こう側との音声接触”そのものだ。


 Gate-X の黒が、呼応するみたいに深くなる。


 そして、鹿島先輩の声が、今度ははっきりと落ちた。


 「――希夢、ここから先は……」


 そこまでだった。


 次の言葉は続かなかった。


 言い淀んだのではない。

 途切れたのだ。

 向こう側からこちら側へ届こうとした声が、

 境界の途中でごく薄い膜に引っかかったみたいに、そこで裂けた。


 希夢の胸が、ひどく静かに痛む。


 ここから先は――何なのか。


 来るな、なのか。

 気をつけろ、なのか。

 もう戻れない、なのか。

 あるいは、託すための言葉なのか。


 続きが分からない。

 だが、その“分からなさ”の中にも、ひとつだけ確かなことがある。


 この声は、あの日の

 「見ないで」

 と同じ方向を向いている。


 拒絶ではない。

 守ろうとする方向。

 希夢をただ引き寄せるのではなく、

 境界の手前で何かを選ばせようとする方向だ。


 雛乃が、震える声で言う。


「……まだ、先輩の声……届いてる」


 その一言は、ほとんど涙に近かった。


 希夢は、答えなかった。

 答えられなかった。


 届いている。

 でも完全には届かない。

 向こう側にいるのか、境界そのものに残っているのかも、まだ判別できない。


 それでも、声は確かに“いま”だった。


 記録に閉じた過去ではない。

 この白い部屋とGate-Xの生成に反応して、

 鹿島先輩の声がいまここへ触れてきている。


 それだけで、十分すぎるほど現実の輪郭が揺らいだ。


 希夢は、黒い楕円を見つめたまま、小さく息を吸う。


 ここから先は。

 その続きは聞こえない。

 けれど逆に言えば、その続きを聞くためには、自分の側が次の一歩を選ばなければならないのだと、直感で分かった。


 壁面のログが、また低く明滅する。


 VOICE LINK : PARTIAL

 ENTRY FLAG : ACTIVE

 OBSERVER RESPONSE : PENDING


 pending。


 保留。

 まだ決まっていない。


 つまり、声は一方的に落ちてきただけではない。

 この部屋は、希夢の応答を待っている。


 Gate-X の縁に沿って、白い光がもう一度だけ走る。

 その細い線は、手招きのようでもあり、

 呼びかけに対する返答の位置を示しているようでもあった。


 希夢は、そこでようやく理解する。


 鹿島先輩の“声”は、記録ではない。

 救済でもない。

 ただの再会ですらない。


 次に進むかどうかを、自分に選ばせるための声

 として、ここへ届いているのだ。


 白い部屋は静まり返っている。

 黒い楕円は、まだ完全に安定していない。

 鹿島先輩の言葉は、

 「――希夢、ここから先は……」

 の途中で止まったまま、白い空間の底に薄く残っている。


 その未完の呼びかけが、

 次の一歩の重さを、あまりにも静かに希夢の前へ置いていた。


 未完の呼びかけが、白い部屋の底に薄く残っている。


 「――希夢、ここから先は……」


 その続きは届かない。

 届かないまま、黒い楕円の縁だけが細く脈打っている。

 白い光の線がそこをなぞり、

 まるで“次はお前が選ぶ番だ”と無言で示しているみたいだった。


 希夢は、しばらく息をすることさえ忘れかけていた。


 鹿島先輩の声。

 それは、記録の残響ではなかった。

 再生された過去でもない。

 いま、このGate-Xの生成と呼応して、境界の向こうから触れてきた“現在”の声だった。


 だからこそ重い。


 もしあれがただのログなら、悲しみだけで済んだかもしれない。

 過去の中に封じられたものとして、受け取ることもできたかもしれない。


 でも違う。


 先輩の声は、いまここで自分へ届いた。

 そして、途中で途切れた。

 途切れたということは、続きがあるということだ。

 続きがあるということは、それを聞くための次の一歩がまだこちら側に残されているということだ。


 希夢は、黒い楕円を見つめたまま、小さく息を吸う。


 怖い。

 それは消えない。

 Gate-X の向こうへ何があるのか分からない。

 自分の記憶がどうなるのかも分からない。

 鹿島先輩に本当に届くのか、裕也の位置へ触れられるのか、それすらまだ保証はない。


 それでも、いまここで立ち尽くしているだけでは駄目だと、身体の方が先に知っていた。


 壁面のログが、低くまた明滅する。


 VOICE LINK : PARTIAL

 ENTRY FLAG : ACTIVE

 OBSERVER RESPONSE : PENDING


 pending。


 保留。

 応答待ち。


 希夢は、その表示を見て、ゆっくりと目を細めた。


 自分が答えなければならない。

 鹿島先輩の未完の声に。

 裕也の未完の位置に。

 事故の日からずっと途中のまま残されている、自分自身の観測者としての位置に。


 逃げることはできる。

 ここで立ち止まり、声が途切れたまま終わらせることも、たぶんできる。

 けれど、それは“安全”ではない。

 ただ、途中で目を逸らすだけだ。


 鹿島先輩は、見てほしくなかった。

 でも、ここまで来たならちゃんと見て、と託した。


 裕也は、浅い層でまだ位置を持っている。

 呼吸と、足音と、声の断片を残したまま。


 なら、自分がここで選ぶべきものは、もうひとつしかなかった。


 希夢は、無意識に手を握る。


 指先が震えている。

 でも、その震えはもう、ただ怯えて立ち尽くす時の震えではなかった。

 怖さを抱えたままでも、一歩を決める時の震えに変わり始めていた。


「……行くよ」


 声は低かった。

 白い部屋の中で、少しだけ遅れて自分の耳へ返ってくる。


 雛乃が、はっと顔を向ける。


 希夢は、黒い楕円から目を逸らさないまま、もう一度言った。


「俺(私)は……」


 一人称が揺れる。

 でも、もう止めない。


 俺。

 私。

 事故の日からずっと定まりきらずに残っている、その不安定さごと抱えたまま、いまの自分はここに立っている。

 なら、その揺れも含めて言葉にするしかない。


「……先輩と、裕也を……」


 そこで一度だけ言葉が切れる。


 助けに行く。

 取り戻す。

 見つける。

 どの言葉も、まだ少しだけ違う気がした。


 鹿島先輩は単純な意味で“助ける”相手ではないかもしれない。

 裕也も、ただ手を伸ばせば元の場所へ戻せる状態ではないかもしれない。


 でも、それでもいい。

 いま必要なのは、言葉の正確さより、選ぶ意志の方だ。


 希夢は、喉の奥の乾きを押し切るみたいに、最後まで言う。


「……置いていかない」


 その一文が落ちた瞬間、白い部屋の空気がわずかに変わった。


 壁面のログが、一斉に細く明滅する。

 黒い楕円の縁を走っていた白い線が、今度は少しだけ強く脈打つ。


 OBSERVER RESPONSE : RECEIVED


 文字列が、壁の一角へ静かに浮かぶ。


 雛乃が、小さく息を呑む。


 希夢の胸も、強く鳴った。


 受信された。

 つまり、この部屋は、Gate-X は、

 いまの自分の言葉を“応答”として受け取ったのだ。


 言葉の意味まで正確に分かったわけではない。

 でも、意志の向きだけははっきり届いた。


 逃げない。

 途中で終わらせない。

 置いていかない。


 鹿島先輩も。

 裕也も。

 そして、事故の日からずっと未完のまま残っている自分自身も。


 希夢は、そこでようやく少しだけ視線を横へ向ける。


 雛乃がいる。

 目元はまだ赤い。

 それでも、まっすぐこちらを見ていた。


 その存在だけで、自分がいま言った言葉が独りよがりではないと分かる。


 雛乃は、小さく頷いた。


「……はい」


 たったそれだけだった。

 でも、その返事の中にある重さは十分だった。


 希夢は、もう一度だけGate-X の黒を見つめる。


 鹿島先輩の声は、もう聞こえない。

 未完のまま、白い部屋の底へ沈んでいる。

 けれど、不思議と“消えた”感じはしなかった。


 むしろ、いまの決意を受け取って、その先をこちらへ委ねたみたいな静けさだった。


 希夢は、ゆっくりと一歩だけ前へ出る。


 靴音は残らない。

 それでも、もうためらいはなかった。


 怖い。

 それでも行く。

 先輩と、裕也を、置いていかないために。


 その決意だけが、白い部屋の中心で、黒い楕円とまっすぐ向かい合っていた。


「……行くよ。俺(私)は……先輩と、裕也を……置いていかない」


 その言葉が、白い部屋の中心へ静かに沈んでいく。


 黒い楕円――Gate-X は、もう揺らぎではなかった。


 まだ完全ではない。

 輪郭は微かに震えている。

 縁を走る白い光も、細い糸のように不安定だ。


 けれど、それでももう十分だった。

 事故の日の断片で見た“不完全な結果”ではなく、

 いま目の前で、因果をまとったまま立ち上がっている境界として、そこにある。


 希夢は、その黒を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。


 白い部屋の中では、自分の呼吸さえ少し遠い。

 肺へ空気は入る。

 でも、その感覚は半拍だけ遅れて身体へ返ってくる。


 それでも、もう足は止まらなかった。


 一歩。


 床へ重みを預ける。

 音は残らない。

 けれど今は、それでいいと思った。


 この部屋は、記録される音よりも、

 選ばれる意志の方を先に見る場所なのだと、もう身体が知っている。


 もう一歩。


 Gate-X の黒が、わずかに深くなる。

 歓迎ではない。

 拒絶でもない。

 ただ、こちらの接近を“現実の変化”として受け取り始めた時の反応だった。


 壁面のログが、低く明滅する。


 ENTRY FLAG : ACTIVE

 BOUNDARY STATUS : OPENING

 OBSERVER APPROACH : CONFIRMED


 希夢の背中に、細い冷気がまっすぐ走る。


 approach confirmed。


 近づいていることが、部屋の側に確定された。


 雛乃が、すぐ後ろで小さく息を詰める気配がする。

 振り返らなくても分かった。


 彼女も、ここまで来たのだ。

 夢の白さから。

 裕也の最後の痕跡から。

 鹿島先輩の気配から。

 そして、自分をひとりにしないという決意から。


 希夢は、白い光の細い線がGate-Xの縁を走るのを見つめる。


 ひとすじ。

 またひとすじ。

 それらはまるで、この黒い境界がただの穴ではなく、

 まだ“こちら側とどう接続するか”を決めきっていない生きた輪郭

 であることを示していた。


 Gate-X の表面は、近づくほど平面ではなくなる。

 水面のようでもない。

 鏡でもない。

 黒いのに、何かが内部でごく浅く動いているのが分かる。


 それは、向こう側の景色ではなかった。

 むしろ、こちら側の現実が“ここから先を説明できなくなる瞬間”そのものが、

 黒として可視化されているみたいだった。


 希夢は、そこでようやく足を止める。


 距離は、もうほんのわずかだった。


 手を伸ばせば届く。

 その“届く”という感覚だけが、ひどく生々しい。

 呼ばれているわけではない。

 引かれている、と断言するのも少し違う。


 でも、ここから先はもう、

 見ているだけでは済まない距離

 だった。


 雛乃の声が、すぐ後ろから落ちる。


「……希夢さん」


 近い。

 でも、この白い部屋のせいで少しだけ遠い。


 希夢は、黒い楕円から目を離さないまま答える。


「うん」


「私、います」


 その一言に、希夢は目を閉じかけて、やめる。


 います。

 ただそれだけの言葉が、ひどく強かった。


 大丈夫です、でもない。

 気をつけて、でもない。

 離れません、に近い。

 この境界の手前で、あなたがひとりにならないように、という確認の言葉だった。


 希夢は、小さく頷く。


「……分かってる」


 その返事は、白い部屋の中で少しだけ遅れて返ってくる。

 でも、意味だけは真っ直ぐ届いた気がした。


 Gate-X の縁に、白い光がもう一度だけ走る。


 今度は、手招きのようには見えなかった。

 むしろ、境界線そのものを照らし出し、

 ここから先は意志で越えるしかない

 と静かに示しているように見えた。


 希夢は、右手をゆっくり持ち上げる。


 指先が震える。

 怖いからだ。

 それでも、その震えを恥じる必要はないと、もう知っていた。


 怖さを持ったまま触れる。

 そうしなければ、あの日の

 「見ないで」

 と、いまの

 「ちゃんと見て」

 の両方に応えたことにはならない。


 指先が、黒い楕円の手前で止まる。


 まだ触れていない。

 なのに、温度が変わる。


 冷たいわけではない。

 熱いわけでもない。

 ただ、指の輪郭だけが少しずつ曖昧になる。


 白い部屋の空気が、ごく微細に沈む。


 壁面ログが、最後にひとつだけ明滅する。


 OBSERVER POSITION : THRESHOLD


 threshold。


 境界。


 希夢の胸が、重く鳴る。


 そうだ。

 いま自分は、まさにそこに立っている。


 事故の日には背中越しにしか見られなかった場所。

 鹿島先輩が、自分の代わりに引き受けた場所。

 裕也が浅い層へ引っかかった場所。

 観測と干渉と記憶のすべてが収束する、その境界に。


 雛乃が、後ろで小さく言う。


「……先輩も、ここに立ったんですね」


 希夢は、黒を見つめたまま答える。


「うん」


 その一音の中に、痛みがあった。

 でも、もう目を逸らさない。


 鹿島先輩はここに立った。

 自分で選んで。

 こちらを守るために。

 そして今、自分は同じ場所へ、自分の意志で立っている。


 違うのは、ひとりではないことだけだった。


 希夢は、指先をさらにわずかに前へ出す。


 黒い表面が、ごく浅く内側へ沈む。

 反応している。

 向こう側がこちらを認識したのだと、もう分かる。


 その瞬間、白い部屋の奥から、ほんの一瞬だけ

 呼吸のような音

 がした気がした。


 鹿島先輩か。

 裕也か。

 それとも、自分自身の未来の残響か。


 分からない。

 でも、それで十分だった。


 ここには、まだ終わっていないものがある。

 それを見届けるために、自分はここに立っている。


 希夢は、黒い楕円の前で、ついに足を完全に止めた。


 白い部屋。

 揺れる光。

 息を潜める観測ログ。

 すぐ後ろにいる雛乃の気配。

 そして目の前にあるGate-X。


 そのすべての中心で、希夢は境界の前に立っていた。


 触れれば、次の章が始まる。

 戻れないかもしれない。

 記憶はまた揺らぐかもしれない。

 それでも、もうここで止まることだけはできなかった。


 希夢は、黒の手前へ伸ばした手のまま、静かに息をした。


 その呼吸は白い部屋の中で少し遅れて返り、

 まるで“まだこちら側にいる”ことの最後の証明みたいに、胸の奥へ落ちてくる。


 そしてそのまま、

 白と黒の境界の前で、

 希夢は次の一歩の直前に立ち尽くしていた。

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