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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
音が遅れて届く朝
3/14

思い出せない先輩の話

 天文台を出たあと、三人はしばらく言葉を交わさなかった。

 何かを隠しているわけではない。

 ただ、言葉が追いついていなかった。


 階段を下りる足音が、やけに大きく響く。

 さっきまで、音は吸い込まれていたはずなのに、今は逆に、余計なものまで拾ってしまう。


 希夢は、手すりに触れた。

 冷たい金属の感触は、確かに現実のものだった。

 それが、かえって不安を呼ぶ。


 ――さっき見たものも、現実だった。


 その事実が、じわじわと重さを持ち始める。


「……なあ」


 裕也が、ようやく口を開いた。

 声は低く、冗談の余地はない。


「さっきの、どう思う?」


 雛乃は、即答しなかった。

 歩きながら、床に落ちる自分たちの影を見ている。


「……“何かが起きた”のは、確かです」


 それは、結論というより、前提だった。


 希夢は、二人の間に流れる沈黙を、そのまま受け取った。

 否定も、誤魔化しも、もう機能しない。


「観測、だったと思う」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


「見たから、起きた。

 起きたから、見えたんじゃない」


 裕也が、短く息を吐く。


「……理屈としては、最悪だな」


「でも」


 雛乃が、静かに続ける。


「天文台って……そういう場所ですよね」


 二人が、彼女を見る。


「見るための場所。

 測るための場所。

 ――“変化を、前提にする場所”」


 その言葉は、希夢の中で、ゆっくりと反芻された。


 変化を、前提にする。


 それは、今まで自分たちが立っていた日常とは、明確に違う姿勢だった。


 しばらく歩いたところで、希夢は足を止めた。

 無意識だった。

 けれど、止まらなければならない気がした。


「……ねえ」


 二人が、振り返る。


「さっきの揺れ……

 前にも、誰かが見てたと思わない?」


 その瞬間、空気が変わった。

 否定も、驚きも、すぐには出てこない。


 雛乃が、ゆっくりと瞬きをする。


「……はい」


 彼女は、小さく頷いた。


「私も、そう思いました」


 裕也が、眉を寄せる。


「誰か、って……先輩とか?」


 その言葉が出た瞬間、希夢の胸の奥で、微かな違和感が走った。


 ――先輩。


 身近で、具体的で、

 それでいて、思い出そうとすると霧がかかる言葉。


「……科学部に、いましたよね」


 雛乃が、慎重に言う。


「少し前まで」


 裕也が、首を傾げる。


「あれ? いたっけ?」


 その反応は、作為的ではなかった。

 本当に、記憶が曖昧なのだ。


 希夢は、はっきりと感じていた。


 ここに、名前の空白がある。


 そしてその空白こそが、

 これから辿るべき因果の入り口なのだと。


 校舎の廊下は、すでに夕方の色を帯びていた。

 窓から差し込む光は弱く、床に落ちる影だけがやけにくっきりしている。

 三人は、同じ方向へ歩きながら、同じ考えを避けるように沈黙していた。


 ――先輩。


 希夢の頭の中で、その言葉だけが、ゆっくりと反復される。

 具体的で、身近で、ありふれているはずの呼び方。

 それなのに、輪郭が掴めない。


 雛乃が、歩く速度を少し落とした。


「……不思議ですよね」


 その声は、空気を試すように小さかった。


「“いたはず”なのに、思い出そうとすると、引っかかる感じがする」


 裕也が、無意識に頭を掻く。


「俺さ、部活の先輩の顔って、だいたい覚えてるんだよ」


 軽口に近い調子だったが、続く言葉は重かった。


「厳しかった人とか、変な人とか、印象強いし。

 でも……今、誰の顔も浮かばない」


 希夢は、胸の奥が静かに冷えるのを感じた。

 それは恐怖ではなく、整合性が崩れる感覚だった。


 忘れたのではない。

 忘れる過程が、存在しない。


 思い出そうとした瞬間、

 最初から何もなかったかのように、空白が提示される。


「……名前も、ですよね」


 雛乃が言う。


「先輩、って呼んでたはずなのに。

 名字も、下の名前も……」


 彼女は、そこで言葉を切った。

 無理に続けると、何かを壊してしまいそうだった。


 希夢は、自分の中を探った。

 部室の風景。

 棚に置かれた機材。

 ノートの走り書き。

 そこかしこに、誰かが使っていた痕跡は残っている。


 それなのに、その「誰か」に結びつく情報だけが、きれいに抜け落ちている。


 ――意図的だ。


 その考えが浮かび、同時に、否定も浮かぶ。

 誰が?

 何のために?


 答えは、どこにもない。

 あるのは、結果だけだ。


 裕也が、歩きながら呟く。


「なあ……俺さ」


 言い淀む。


「夢の中で、名前を呼ばれた気がするんだ」


 二人が、同時に彼を見る。


「はっきりじゃないけど……

 呼ばれた、って感覚だけ残ってる」


 裕也は、苦笑した。


「でも、思い出そうとするとさ。

 その名前、音がないんだよ」


 音がない名前。

 希夢は、その表現に強く引き寄せられた。


 言葉は、音を伴って初めて成立する。

 音がないということは、呼ばれたのではなく、呼ばれた“痕跡”だけが残っているということだ。


「……それ、変ですね」


 雛乃は、否定も肯定もしない。


「名前って、記号のはずなのに。

 記号がなくても、存在していた、みたいな」


 三人の間に、また沈黙が落ちる。

 けれど、それは重苦しいものではなかった。


 むしろ、同じ方向を向いていることを確認するための、必要な間だった。


 希夢は、はっきりと理解していた。


 この違和感は、天文台で見た揺らぎと、同じ系統にある。

 光が揺れたように、

 記憶も、揺れている。


 しかもそれは、ランダムではない。

 特定の一点を、避けるように。


「……科学部の、部室」


 希夢は、ゆっくりと言った。


「誰かが、いつもそこにいた気がする」


 裕也が、即座に頷く。


「分かる。

 俺も、部室入るとき、いつも“もう一人いる”感じしてた」


 雛乃が、視線を落とす。


「……私、前からです」


「前から?」


「はい。

 星を見るようになった頃から」


 彼女は、言葉を選びながら続ける。


「視線が、増えた気がして。

 でも、それが誰なのかは……」


 言葉にならないまま、消える。


 希夢は、その断片を、ひとつひとつ胸にしまった。

 焦って繋げる必要はない。

 今は、空白の形を把握することが重要だった。


 名前は、まだ出てこない。

 けれど、存在は、否定できないほど濃くなっている。


 ――思い出せない先輩。


 その不完全な呼び方が、

 因果の中心に、静かに座り始めていた。


 その名前は、会話の流れの中で出てきたわけではなかった。

 誰かが思い出そうとして、ようやく辿り着いたわけでもない。


 ただ、浮かんだ。


「……鹿島、先輩」


 希夢は、自分の口からその音がこぼれたことに、一瞬遅れて気づいた。

 言おうとした覚えはない。

 考えていたわけでもない。


 それでも、その名前は、確かに口に出た。


 空気が、止まった。


 雛乃が、ゆっくりと顔を上げる。

 裕也は、一拍遅れて、眉を寄せた。


「……え?」


 裕也の声は、戸惑いというより、引っかかりに近かった。


「今、なんて言った?」


 希夢は、喉の奥に残る感覚を確かめる。

 音としては、はっきりしていた。

 濁りも、欠落もない。


「鹿島……先輩」


 もう一度、言う。

 今度は、意識して。


 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに鳴った。

 懐かしさでも、安心でもない。

 正しい場所に、正しいピースが置かれた感覚。


 雛乃が、小さく息を吸う。


「……その名前」


 彼女は、言葉を選ぶように、一度視線を落とした。


「聞いた瞬間、分かりました」


「何が?」


「“そこ”です」


 雛乃は、自分の胸のあたりに手を置く。


「引っかかってた場所。

 ずっと、名前がないまま、形だけあった場所」


 裕也は、腕を組んだ。


「待て。

 鹿島……?」


 記憶を探るように、視線を彷徨わせる。


「科学部に、そんな先輩……」


 言いかけて、言葉が途切れた。


 裕也の表情が、微妙に歪む。

 理解しかけているのに、そこへ辿り着けない。


「……いた、気がする」


 その言い方は、確信ではなかった。


「でも……」


 続きが出てこない。


 希夢は、その様子を見ながら、確信を深めていた。


 名前は出た。

 けれど、記憶は追いついていない。


 それは、思い出すというプロセスが、途中で遮断されている証拠だった。


「鹿島先輩は……」


 希夢は、慎重に言葉を選ぶ。


「部長、でしたよね」


 雛乃が、即座に頷いた。


「はい。

 それは、はっきり分かります」


 役割は、残っている。

 立場も、位置も。


 なのに――

 内容が、ない。


「変だな……」


 裕也は、こめかみを押さえる。


「部長ってさ、普通、めちゃくちゃ印象残るだろ」


「……そうですね」


 雛乃の声は、静かだった。


「でも、鹿島先輩に関しては……

 “いた”という事実だけが残ってる」


 希夢は、胸の奥がひんやりするのを感じた。

 これは偶然ではない。

 記憶の欠落の仕方が、あまりにも整いすぎている。


 名前。

 役割。

 存在の位置。


 それらは残されているのに、

 人となり、声、表情といった「個」が、きれいに抜け落ちている。


 ――観測対象としては、異常だ。


「……ねえ」


 希夢は、二人を見る。


「鹿島先輩って、最後に部室に来たの、いつか覚えてる?」


 雛乃は、首を横に振った。


「思い出そうとすると……

 時間が、繋がらないです」


 裕也も、同じだった。


「来てたはずなんだけどな……

 でも、“最後”って言われると、分からない」


 希夢は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 終わりが、記録されていない。


 それは、単なる退部や卒業とは違う。

 物語として、完結していない。


 鹿島先輩は、

 “いなくなった”のではない。


 途中で、消えた。


 その事実が、言葉にならないまま、三人の間に共有される。


 雛乃が、ぽつりと呟いた。


「……だから、星が揺れたんですね」


「どういう意味?」


「観測が……未完了だったから」


 希夢は、その言葉を聞いた瞬間、全身が静かに震えた。


 未完了。

 未観測。

 だから、応答が返ってきた。


 鹿島先輩は、

 観測されないまま、

 どこかに留まっている。


 ――そう考えると、すべてが繋がってしまう。


 希夢は、ゆっくりと息を吐いた。


 名前は、出てしまった。

 もう、戻れない。


 そして、この名前は、

 世界の揺らぎに、最初に触れた人のものだった。


 鹿島先輩の名前が出てから、三人の会話は、目に見えて少なくなった。

 話題が尽きたわけではない。

 むしろ、言葉にすれば壊れてしまいそうなものが、急に増えた。


 校舎を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

 夕暮れは終わり、夜が始まっている。

 けれど、その切り替わりを、希夢ははっきりと覚えていない。


 いつの間にか、そうなっていた。


 雛乃が、立ち止まる。


「……今日は、ここまでにしませんか」


 提案というより、確認だった。

 これ以上踏み込めば、何かが変わってしまう。

 三人とも、そのことを理解していた。


 裕也が、深く息を吐く。


「正直……頭が追いついてない」


 それは弱音ではなかった。

 現状を正確に表す言葉だった。


「でもさ」


 裕也は、少しだけ笑った。


「分かんないままなのも、嫌だな」


 希夢は、その言葉を否定しなかった。

 分かりたい。

 けれど、分かってしまうことが、正解とは限らない。


 雛乃が、静かに言う。


「今は……答えを出さなくていいと思います」


 二人が、彼女を見る。


「今日分かったのは、ひとつだけです」


 雛乃は、言葉を選びながら続ける。


「私たちは、同じものを見ている。

 同じ違和感を、共有している」


 希夢は、胸の奥で頷いた。

 それだけで、十分だった。


 鹿島先輩が、どうなったのか。

 どこへ行ったのか。

 なぜ、記憶から抜け落ちているのか。


 どれも、今は答えを持たない問いだ。


 けれど、問いが存在すること自体が、重要だった。


 希夢は、夜空を見上げた。

 星は、もう揺れていない。

 少なくとも、肉眼では。


 それでも彼女は、確信していた。


 揺らぎは、消えたのではない。

 観測されるのを、待っているだけだ。


「……また、天文台に行くことになると思う」


 希夢は、独り言のように言った。


 裕也が、即座に反応する。


「だろうな。

 なんとなく、そんな気してた」


 雛乃も、小さく頷く。


「はい。

 今度は……もう少し、準備して」


 三人は、視線を交わす。

 そこに、約束はない。

 計画も、決意も、言葉にされない。


 それでも、進む方向は一致していた。


 鹿島先輩の話は、ここで終わる。

 いや、終わらせている。


 未完了のまま。

 未確定のまま。


 それは逃避ではない。

 観測者としての、正しい距離だった。


 希夢は、歩き出しながら思う。


 今日起きたことは、まだ「事件」ではない。

 ただ、世界が揺れうることを知った日だ。


 そしてその揺れは、

 いずれ、名前を持つ。


 そのときまで、

 彼女たちは、見続ける。


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