それでも条件は揃う
翌日、希夢は、いつもより少し早く学校に着いた。
体調は、悪くない。
視界も、昨日ほど揺れていない。
完全に戻ったわけではないが、
落ち着いた状態ではある。
だからこそ、
油断していた。
昇降口の掲示板の前で、
足が止まる。
紙が一枚、
新しく貼られている。
理科棟・設備点検のお知らせ。
内容は、
ありふれたものだった。
点検日時。
対象教室。
注意事項。
だが、
希夢の目は、
その中の一行に引っかかる。
放課後/天候が安定している日を選定。
「……選定?」
小さく呟く。
偶然だ。
そう思おうとする。
だが、
昨日までに、
“条件”という言葉に
慣れすぎてしまった。
選ばれる日。
揃っている日。
それは、
人為的でありながら、
自然条件に依存している。
教室に入ると、
雛乃が、
同じ紙を手にしていた。
視線が合う。
「あ、これ見た?」
「うん」
短いやり取り。
それだけで、
互いに同じ箇所を
読んだことが分かる。
昼休み、
三人が揃う。
話題は、
自然とそこに行き着いた。
「設備点検、
今日らしいな」
裕也が、
スマートフォンを見ながら言う。
「放課後」
「理科棟」
雛乃が、
淡々と補足する。
希夢は、
何も言わなかった。
言えば、
意味づけてしまう。
「……行かなくていいよな」
裕也が、
確認するように言う。
「うん」
雛乃は、即答する。
「部活、
早めに切り上げるって決めたし」
希夢も、
その流れに頷く。
行かない。
関わらない。
それで、
問題はないはずだった。
放課後。
廊下が、
少しだけ騒がしい。
業者の声。
工具の音。
理科棟の方から、
断続的に響いてくる。
希夢は、
部室でノートを閉じながら、
その音を聞いていた。
音のリズムが、
一定だ。
不規則ではない。
作業に必要な、
最小限の反復。
「……今日は、
来るね」
雛乃が、
ぽつりと言う。
「誰が?」
裕也が聞く。
「人」
希夢は、
その一言で理解した。
第三者。
昨日とは、違う形の。
意図はない。
観測でもない。
ただ、
条件を満たす存在。
ドアの外を、
人影が通る。
足音。
会話。
普段なら、
気にも留めない。
だが、
今日は違う。
条件が、
内側ではなく、
外側から揃っていく。
希夢は、
自分の身体を確かめる。
視界は、安定している。
頭も、痛くない。
それでも、
胸の奥が、
わずかに締まる。
戻すという選択が、
世界を止めるわけではない
と、
はっきり分かる。
「……続けてないのに」
裕也が、
低く言う。
「うん」
雛乃は、
視線を逸らさず答える。
「条件だけ、
来る」
希夢は、
その言葉を、
静かに受け取る。
再現は、
まだ、していない。
だが、
選ばない自由は、
外側から削られていく。
Part D は、
ここから本格的に動き出す。
揃うのは、
人の意図ではない。
予定。
作業。
偶然の連なり。
それらが、
再現の舞台を、
静かに整えていく。
第三章は、
その事実を、
否定できない段階に入った。
最初に変わったのは、
空気の流れだった。
部室の窓は閉まっているのに、
廊下側から、
微かに金属の匂いが混じる。
工具油。
新品のケーブル。
掃除では消えない、
作業の匂い。
希夢は、
ペンを置いた。
「……来るね」
雛乃が、
小さく言う。
その直後、
ノックがあった。
強くも弱くもない。
用件だけを伝える、
事務的な音。
「失礼します。
設備点検で、
一部確認させてください」
声は、落ち着いている。
拒否する理由は、
どこにもない。
ドアが開く。
作業着の男性が二人。
名札。
チェックリスト。
視線は、
人ではなく、
壁と天井を追っている。
観測ではない。
ただの確認。
それでも、
空間が変わる。
「この部屋、
電源系統、
触ってます?」
裕也が、
首を振る。
「基本、
既存のままです」
「そうですか。
念のため、
一度落としますね」
ブレーカーの話。
専門用語。
手順。
希夢は、
その会話を、
半分だけ聞いていた。
残りの半分は、
身体の反応に使われる。
電源が落ちる。
ファンの音が止まり、
部室が、
一段静かになる。
静かすぎる。
希夢は、
息を整える。
視界が、
わずかに遠のく。
昨日ほどではない。
だが、
確実に起きている。
「……希夢?」
雛乃の声。
「大丈夫」
即答だった。
嘘ではない。
倒れるほどでもない。
逃げ出すほどでもない。
ただ、
触れてしまった。
電源が切り替わる瞬間。
空間の状態が、
一斉に変わる。
それを、
身体が受け取った。
作業員の一人が、
天井を見上げる。
「この位置、
カメラありましたよね」
「あります」
雛乃が答える。
「今は、
仮停止です」
その一言で、
希夢の胸が、
少しだけ締まる。
見られていない。
記録されていない。
それでも、
配置は変わった。
裕也が、
希夢の方を見る。
視線が合う。
言葉はない。
だが、
「触れたな」
という確認だけが、
確かに共有される。
作業は、
数分で終わる。
「ありがとうございました。
復旧します」
スイッチが入る。
音が戻る。
ファンが回り、
端末が息をする。
その瞬間、
希夢は、
はっきりと感じた。
昨日より、近い。
距離が、
縮んでいる。
作業員が出ていく。
ドアが閉まる。
部室は、
元の形に戻った。
見た目は。
だが、
誰も、
すぐには動かなかった。
「……行かないって、
決めてたよね」
雛乃が、
静かに言う。
「うん」
希夢は頷く。
「触らないって」
裕也も、
確認する。
全員、
同じ認識だ。
それでも、
結果は違う。
「でも」
希夢は、
自分の胸に手を当てる。
「条件の方が、
来た」
否定する余地は、
なかった。
避けた。
離れた。
選ばなかった。
それでも、
接触は成立した。
Part D-2 は、
ここで閉じる。
それは、
失敗ではない。
強行でもない。
ただ、
世界の側が、
条件を整えただけだ。
再現は、
まだ始まっていない。
だが、
触れてしまった以上、
次は「どう扱うか」の段階に入る。
誰も、すぐには口を開かなかった。
部室の中は、
作業前と同じ配置に戻っている。
机。
椅子。
端末のランプ。
違いは、
どこにも見当たらない。
それでも、
希夢は、
触れてしまった後の空間を
確かに感じ取っていた。
「……じゃあ」
最初に言葉を出したのは、
裕也だった。
「今日は、
もう何もしない?」
提案は、
穏当だった。
触れた。
だから、
これ以上触れない。
理屈としては、
正しい。
「うん」
雛乃は、
すぐに頷く。
「扱わない、
って決めるなら、
今が一番いい」
希夢も、
同じ考えだった。
進まない。
確かめない。
再現しない。
触れた事実だけを、
そのまま放置する。
希夢は、
椅子に座り直す。
いつもの位置。
いつもの距離。
だが、
手が、
自然に机の端を探す。
触れないように、
と思った瞬間に、
すでに触れている。
指先が、
わずかに震えた。
「……無意識だね」
雛乃が、
ぽつりと言う。
「触ろうとしてないのに、
触っちゃう」
希夢は、
苦笑する。
「扱わない、
ってさ」
「うん」
「考えない
って意味じゃ、
ないみたい」
裕也は、
端末の電源を見つめる。
手は伸ばさない。
だが、
視線だけが、
そこに留まる。
「放置って、
結構、
エネルギー使うな」
「分かる」
雛乃が、
静かに同意する。
何もしないために、
常に意識し続ける。
それは、
選択というより、
持続的な負荷だ。
希夢の中で、
ひとつの理解が、
静かに固まる。
触れた後は、
扱わないという選択も、
行為のひとつになる。
放置は、
中立ではない。
何もしないために、
常に判断し続ける。
「……続けるより、
疲れるかも」
希夢が言うと、
裕也は、
少しだけ笑った。
「ある意味、
一番難しい」
「だね」
雛乃も、
視線を逸らさず答える。
時計を見る。
針は、
ゆっくり進んでいる。
時間は、
止まらない。
扱わないと決めても、
条件は、
空間に残り続ける。
誰かが、
意図しなくても。
「……今日は、
本当に帰ろう」
雛乃が言う。
「これ以上、
判断増やしたくない」
希夢は、
強く頷いた。
今日は、
選ばない日だ。
それ以上でも、
それ以下でもない。
部室の灯りを消す。
鍵を掛ける。
その一連の動作が、
やけに意識的になる。
触れないための動作が、
増えていく。
廊下に出ると、
音が戻る。
人の声。
足音。
希夢は、
少しだけ息を吐いた。
身体は、
完全には戻らない。
だが、
これ以上近づいてはいない。
Part D-3 は、
ここで閉じる。
扱わないという選択は、
可能だ。
ただし、
それは中立ではない。
触れてしまった以上、
何もしないことも、
継続的な判断になる。
次に来るのは、
外部ではなく、
内側からの問いだ。
――
それでも、
扱わないままでいられるのか。
帰り道、
希夢は、
何度も足を止めそうになった。
立ち止まる理由は、
特にない。
転びそうでも、
息切れしているわけでもない。
ただ、
考えが、先に進まない。
家に着き、
靴を脱ぎ、
部屋に入る。
いつもの動作。
それなのに、
ひとつひとつが、
確認作業のように重い。
鍵を閉めたか。
電気は点けたか。
身体が、
自分の位置を
確かめ続けている。
机に向かう。
ノートを開く。
白いページ。
何も書かれていない。
希夢は、
ペンを持ったまま、
しばらく動かなかった。
扱わないと決めた。
今日は、
それ以上考えないと。
だが、
書かれていないはずのページに、
自然と視線が集まる。
何もないからこそ、
頭の中の配置が、
浮かび上がる。
机の位置。
部室の天井。
端末のファン音。
再現しようとしているわけではない。
ただ、
整理されていく。
「……違う」
希夢は、
小さく呟く。
これは、
進もうとしている感覚ではない。
止まった状態を、
保とうとしているだけだ。
だが、
止まり続けるために、
考え続けている。
ベッドに座り、
深く息を吸う。
目を閉じる。
すると、
一日の出来事が、
順序を持って並ぶ。
点検の紙。
ノックの音。
電源が落ちる瞬間。
再現しなくても、
記憶は自動で並ぶ。
希夢は、
そこで初めて理解する。
扱わない理由は、
恐れだった。
壊れるかもしれない。
戻れなくなるかもしれない。
だから、
触れない。
だが、
もう一つの理由が、
静かに顔を出す。
分からないままにしておく不安。
「……どっちも、
同じだ」
避けることと、
分からないこと。
どちらも、
希夢の中では、
重さを持ち始めている。
扱わない理由が、
少しずつ、
説得力を失っていく。
スマートフォンが、
震える。
雛乃からのメッセージ。
今日、無理しなくていいよ
でも
もし考えちゃうなら
一人で抱えなくていい
短い文。
希夢は、
それを読み返す。
扱わない、
という選択は、
一人で続ける前提だった。
共有した瞬間に、
選択の形が変わる。
裕也からも、
少し遅れて通知が来る。
明日、
何もしない前提で
一回だけ
状態整理しない?
再現ではない。
実験でもない。
整理。
その言葉が、
胸に残る。
希夢は、
スマートフォンを置き、
天井を見る。
暗闇の中で、
輪郭が、
ゆっくり固定される。
身体は、
完全には戻らない。
だが、
止まり続けるための理由も、
崩れ始めている。
Part D-4 は、
ここで閉じる。
扱わないという選択は、
まだ可能だ。
だが、
それを選び続ける理由は、
内側から弱くなっている。
再現は、
まだ始まっていない。
それでも、
次に来るのは、
「扱うかどうか」ではない。
――
どう扱うか、だ。




