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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
再現が始まる前
11/14

先に壊れるもの

 最初は、気のせいだと思った。


 黒板の文字が、

 ほんの一瞬だけ、二重に見えた。


 すぐ戻る。

 瞬きすれば、問題ない。


 だから、

 希夢は、そのまま授業を聞き続けた。


 ノートを取る手は、止まっていない。

 内容も、理解できている。


 なのに、

 視線を動かすたび、

 世界の輪郭が、遅れて追いつく。


 文字を見てから、

 意味が来るまで、

 ほんの僅かな間が空く。


 今まで、

 そんなことはなかった。


 昼休み。

 廊下の明るさが、

 やけに強く感じられる。


 白が、白すぎる。


 希夢は、

 無意識に目を細めた。


「……大丈夫?」


 声をかけられて、

 初めて立ち止まった。


 雛乃だった。


「うん」


 そう答えながら、

 希夢は、

 自分の声が少し遅れて出た気がした。


 返事を考えたわけではない。

 出そうとした声が、

 一拍、遅れた。


 部室に入ると、

 空気が、少し落ち着く。


 照度は、いつも通り。

 ブラインドも、

 動かしていない。


 それでも、

 希夢は、

 共有端末の画面を、

 正面から見られなかった。


 画面の中央より、

 端の方が、楽に見える。


 焦点を合わせると、

 頭の奥が、

 軽く締め付けられる。


「……見ない方がいい?」


 裕也が、

 希夢の様子に気づいて言う。


「うん」


 即答だった。


「今は、

 ちょっと、きつい」


 雛乃は、

 すぐに端末の前から離れる。


「じゃあ、今日はやめとこ」


 理由は聞かない。

 確認もしない。


 その対応が、

 逆に、

 希夢にはありがたかった。


 椅子に座ると、

 視界の端が、

 わずかに揺れる。


 めまいとは違う。

 上下も、回転もない。


 ただ、

 奥行きの感覚が、薄くなる。


 遠いものと、近いものが、

 同じ距離に見える。


 希夢は、

 机の縁に指を置き、

 その感触を確かめる。


 触れると、

 世界が、少し戻る。


「……これ」


 希夢は、

 自分でも驚くほど、

 小さな声で言った。


「昨日から?」


「ううん」


 少し考えて、


「今日の、

 朝から」


 雛乃は、

 その答えを聞いて、

 何も言わなかった。


 裕也も、

 冗談で流さない。


 三人とも、

 時間の位置を、

 正確に受け取っていた。


 頭痛は、ない。

 吐き気も、ない。


 だから、

 体調不良とは言い切れない。


 けれど、

 感覚が、以前の配置に戻らない。


 希夢は、

 その事実を、

 はっきり理解していた。


 これは、

 疲れではない。


 そして、

 偶然とも、

 言い切れない。


 部室の中で、

 誰も、再現の話をしない。


 条件も、

 ログも、

 今日は口にしない。


 それでも、

 希夢の身体は、

 先に反応している。


 触れていないのに。

 再生していないのに。


 知ってしまった状態に、

 身体だけが、追いつこうとしている。


 Part C は、

 ここから始まる。


 壊れたわけではない。

 だが、

 元の位置には戻らない。


 再現が始まる前に、

 最初にずれたのは、

 希夢の焦点だった。


 痛みは、なかった。


 頭痛も、

 吐き気も、

 眩暈も。


 医務室に行くほどの理由は、

 どこにも見当たらない。


 それでも、

 希夢は、

 自分の身体が

 いつもと同じ配置に戻っていない

 ことを、はっきりと自覚していた。


 教室の椅子に座ると、

 床が、少しだけ遠い。


 足は、確かに床についている。

 力も、入る。


 なのに、

 体重のかかり方が、

 どこか不均一だ。


 重心を探すたび、

 身体が、

 半拍遅れて応答する。


 希夢は、

 無意識に、

 深く息を吸っていた。


「……今日さ」


 昼休み、

 雛乃が、

 いつもより静かな声で言う。


「無理、しないで」


「してない」


 即答だった。


 そして、

 それが嘘ではないことも、

 希夢は分かっている。


 無理は、していない。


 ただ、

 以前と同じことが、同じ負荷でできない。


 視界の揺れは、

 一定ではなかった。


 動くと強くなるわけでもない。

 止まると治るわけでもない。


 ただ、

 集中しようとした瞬間に、

 輪郭が薄れる。


 黒板の文字。

 ノートの行。


 意味を追おうとすると、

 世界が、

 少しだけ後ろに引く。


 部室で、

 共有端末の電源が入っているのを、

 希夢は、視界の端で捉えた。


 正面からは、見ない。


 それでも、

 存在だけは、避けられない。


 端末のファンの音が、

 やけに大きく聞こえる。


 一定の回転数。

 一定の間隔。


 その規則性が、

 身体の中に、

 微妙なズレを生む。


「……頭、痛い?」


 裕也が、

 慎重に聞く。


「ううん」


 希夢は、首を振る。


「痛くは、ない」


 その答えに、

 裕也は、

 少し困った顔をした。


 痛みがない。

 だから、

 止める理由も、

 説明も、難しい。


 雛乃は、

 希夢の手元を見る。


 指先が、

 机の縁を、

 何度もなぞっている。


 無意識の動き。


「……触ってると、楽?」


「うん」


 希夢は、

 正直に答える。


「輪郭が、戻る」


 雛乃は、

 それ以上、何も言わなかった。


 言えば、

 原因を探す話になる。


 今は、

 兆候として受け取る段階だ。


 希夢は、

 はっきりと理解していた。


 これは、

 警告ではない。


 止まれ、という合図でもない。


 もっと、

 曖昧で、

 逃げ場のないもの。


 「ここにいる」という身体からの通知。


 見ていなくても、

 触れていなくても。


 条件を知った時点で、

 身体は、

 その影響圏に入ってしまう。


 放課後、

 部室を出る前。


 希夢は、

 一度だけ、

 天井を見上げた。


 防犯カメラの位置。


 赤いランプは、

 いつも通り点灯している。


 見られている感覚は、ない。

 評価されている感じも、ない。


 それでも、

 身体のズレだけは、消えない。


 Part C-2 は、

 そこで閉じる。


 痛みは、ない。

 異常とも、言えない。


 だが、

 身体は、

 すでに反応している。


 再現が始まる前に、

 最初に壊れたのは、

 判断ではなく、

 感覚の余裕だった。


 それに気づいたのは、

 希夢自身ではなかった。


「……ちょっと、歩幅変わってない?」


 裕也の言葉は、

 何気ない確認の形をしていた。


 放課後の廊下。

 三人で並んで歩いているときだった。


「そう?」


 希夢は、

 立ち止まってから答える。


 自分では、

 変わっていないつもりだった。


「うん」


 裕也は、

 足元を見て言う。


「一歩が、

 少し短い」


 希夢は、

 その場で一歩、踏み出す。


 床に、確かに足がつく。

 力も、入る。


 けれど、

 裕也の言葉を聞いたあと、

 距離を測り直している自分に気づく。


「……言われると」


 希夢は、

 少しだけ考える。


「近くを、

 確認してるかも」


「確認?」


 雛乃が、

 首を傾げる。


「うん」


 希夢は、

 言葉を探しながら答える。


「遠くより、

 近いところを」


 雛乃は、

 希夢の横顔を、

 注意深く見る。


 表情に、

 痛みはない。


 疲労の色も、

 強くは出ていない。


 それでも、

 視線の動きが、

 以前と違う。


「……目線、低いね」


 雛乃の指摘は、

 静かだった。


「下を、

 見てる時間が長い」


 希夢は、

 その場で、

 廊下の先を見る。


 見える。

 問題ない。


 だが、

 意識しないと上がらない。


 部室に戻ると、

 その違和感は、

 さらに分かりやすくなる。


 希夢は、

 椅子に座る前、

 必ず机に手を置いた。


 触れてから、

 腰を下ろす。


 雛乃は、

 その動作を、

 見逃さなかった。


「……触らないと、落ち着かない?」


「うん」


 希夢は、

 正直に頷く。


「触れると、

 距離が戻る」


 雛乃は、

 その言葉を、

 頭の中で繰り返す。


 距離が、戻る。


 身体の中の、

 基準点が、

 揺れている。


 裕也は、

 希夢の正面に立つ。


「ちょっと、

 俺の指見て」


 人差し指を、

 ゆっくり動かす。


 希夢の視線が、

 わずかに遅れて追う。


「……今の」


 裕也は、

 すぐに手を下ろす。


「検査じゃないから」


 冗談めいた口調だったが、

 目は、真剣だった。


「遅れてる?」


 希夢が聞く。


「ほんの、

 一瞬だけ」


 雛乃が、

 静かに補足する。


「気づかない人は、

 気づかない程度」


 その瞬間、

 希夢の中で、

 何かがはっきりする。


 これは、

 自分だけの感覚ではない。


 見れば、分かるズレだ。


 雛乃も、

 裕也も、

 同じものを見ている。


 共有されてしまった。


「……ごめん」


 希夢は、

 思わずそう言った。


「何で?」


 雛乃が、

 すぐに返す。


「悪いこと、

 してない」


 裕也も、

 首を振る。


「誰も、

 責めてない」


 希夢は、

 その言葉に、

 少しだけ救われる。


 だが、

 同時に理解する。


 もう隠せない段階に来た。


 共有されると、

 次に来るのは、

 判断だ。


 止めるのか。

 進むのか。

 距離を保つのか。


 その話題は、

 まだ出ない。


 だが、

 空気は、

 確実に変わった。


 Part C-3 は、

 そこで閉じる。


 希夢の違和感は、

 三人の共有事項になった。


 再現は、

 まだ、していない。


 それでも、

 身体の変化が、行動の前に可視化された。


 次に揺れるのは、

 選択だ。


 「一回、距離置こっか」


 最初にそう言ったのは、

 雛乃だった。


 提案というより、

 確認に近い声だった。


「部室、今日は早めに切り上げるとか」


 希夢は、

 すぐに頷いた。


「うん。

 それでいいと思う」


 裕也も、

 異論はない。


 止める。

 離れる。

 戻す。


 選択肢としては、

 一番分かりやすい。


 鍵を掛け、

 部室を出る。


 廊下の空気は、

 いつもより少し冷たい。


 希夢は、

 その温度差に、

 わずかに安心した。


 環境が変わる。

 条件が、崩れる。


 それで、

 戻るはずだ。


 少なくとも、

 理屈の上では。


 校舎を出て、

 外に出る。


 夕方の空気。

 街の音。


 車の走る音が、

 遠くで重なる。


 希夢は、

 歩きながら、

 自分の視界を確かめる。


 遠くの信号。

 看板の文字。


 見える。

 問題ない。


 だが、

 楽になった感じは、しない。


「……どう?」


 裕也が、

 横から聞く。


「分かんない」


 希夢は、

 正直に答える。


「悪くは、ならない」


「良くも、ならない?」


「うん」


 そのやり取りに、

 雛乃は、少し考える。


「距離、

 取れてるはずなのにね」


 希夢は、

 自分の手を見下ろす。


 指先は、

 いつも通り動く。


 力も入る。


 それでも、

 “戻った”という感覚がない。


 完全に壊れたわけではない。

 けれど、

 元の位置が、

 どこだったのか分からなくなっている。


「……戻す、ってさ」


 希夢は、

 歩きながら言う。


「全部、

 元に戻すって意味じゃないのかも」


 雛乃は、

 その言葉を受け止める。


「じゃあ、何?」


「……」


 一瞬、

 言葉に詰まる。


「これ以上、ずらさない」


 裕也は、

 その答えに、

 静かに頷いた。


「それなら、

 できそうだな」


 止めた。

 離れた。

 触れていない。


 それでも、

 身体のズレは、残る。


 それは、

 失敗の証拠ではない。


 知ってしまった結果だ。


 条件を知り、

 境界を意識し、

 越えなかった。


 その時点で、

 身体は、

 もう元の配置ではいられない。


 雛乃は、

 立ち止まり、

 二人を見る。


「……続けるかどうかは、

 まだ決めなくていいよね」


「うん」


 希夢は、

 すぐに答える。


「今は、

 戻そうとしたって事実だけでいい」


 裕也も、

 軽く肩をすくめる。


「戻らなかった、

 ってことも含めて」


 夕方の空は、

 徐々に暗くなる。


 街灯が点き、

 世界の輪郭が、

 少しずつ固定されていく。


 希夢は、

 その変化を見ながら、

 はっきりと理解していた。


 戻すという選択は、

 問題を消すためのものではない。


 これ以上、

 踏み込まないための、

 一時的な姿勢だ。


 Part C は、

 ここで閉じる。


 身体は、

 元には戻らなかった。


 だが、

 これ以上壊れない位置に、

 一度、立ち直した。


 再現は、

 まだ、始まっていない。


 それでも、

 次に選ぶ行動は、

 もう「知らなかった」では済まされない。


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