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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
音が遅れて届く朝
1/14

静かな部室、ずれないはずの午後

 放課後の科学部室は、いつもと同じ匂いがした。

 金属と紙、それから微かに残る薬品の甘さ。窓から差し込む午後の光が、実験台の上に置かれたビーカーの縁を淡く縁取っている。


 希夢は窓際の席に座り、ノートを開いたまま、しばらく文字を書かずにいた。

 ページの上には、午前中に書いた数式と、その横に引かれた意味のない線が残っている。消しゴムをかけるほどでもなく、かといって続きを書く気にもなれない。中途半端な状態が、そのまま部室の空気と重なっていた。


 外では、校舎裏の木々が風に揺れている。

 その動きを眺めながら、希夢は深く息を吸った。肺に入ってくる空気は冷たく、少しだけ乾いている。

 ――普通だ。

 そう思う。少なくとも、この部室の中は。


 棚には、先輩たちが残した実験器具が整然と並んでいる。ラベルの剥がれたケース、手書きのメモ、使われなくなった望遠鏡の部品。どれも時間の積み重ねを感じさせるものばかりで、希夢はそれらを見るたび、ここが「続いてきた場所」なのだと実感する。


 椅子を引く音がして、雛乃が部室に入ってきた。

 肩にかかる髪が、光を含んで揺れる。彼女は鞄を置き、窓の外を一度だけ見てから、希夢の向かいの席に座った。


「今日は、静かですね」


 雛乃の声は小さく、部室の空気に溶け込むようだった。

 希夢は頷く。


「裕也、まだ来てないみたい」


「そうですね」


 それだけのやり取り。

 沈黙が不自然に感じられないのは、この部室が元々、そういう場所だからだ。実験の合間、考え事の途中、言葉にしない時間が許される。


 希夢は、もう一度ノートに視線を落とした。

 ペンを持ち、数式の続きを書こうとする。

 その瞬間、指先に触れる紙の感触が、ほんのわずかに遅れて伝わった。


 気のせいだ、とすぐに思う。

 放課後で集中力が落ちているだけ。

 そう結論づけ、希夢はそのままペンを走らせた。


 窓の外で、風が強くなり、木の葉が擦れる音が聞こえる。

 その音は、はっきりと、遅れずに耳へ届いた。


 ――やっぱり、普通だ。

 希夢は心の中でそう繰り返しながら、部室の静けさに身を委ねた。


 この午後が、いつもと違う意味を持ち始めていることに、

 まだ、誰も気づいていなかった。


部室の時計が、かすかな音を立てて秒を刻んでいた。

 その音は規則正しく、いつもと変わらないはずなのに、希夢はなぜか意識を向けてしまう。耳を澄ませていると、音が空間の奥から浮かび上がってくるような錯覚があった。


 雛乃は、机の上に鞄を置いたまま、しばらく何もせずに座っていた。

 視線は窓の外。午後の光が、校舎裏の木々を斜めに照らしている。葉の一枚一枚が輝き、重なり合う影が床に落ちていた。


「……あの」


 雛乃が、ためらうように口を開いた。

 希夢は顔を上げる。


「なに?」


「昨日の夜、少しだけ星を見たんです」


 その言い方は、報告というよりも、確認に近かった。

 希夢はペンを置き、雛乃の方を向く。


「部屋から?」


「はい。ベランダから」


 雛乃は、自分の指先を見つめながら話を続けた。


「いつもなら、すぐに分かるんです。あれは木星だとか、今日は月が明るいな、とか。でも……」


 言葉が途切れる。

 雛乃は、小さく息を吸った。


「昨日は、星が……揺れて見えました」


「揺れて?」


 希夢は、すぐに聞き返していた。


「瞬いてる、とは違うんです。もっと、こう……動いてる感じ。位置が、少しずつずれていくみたいな」


 雛乃は、空中に指で線を描いた。

 円を描くようで、完全には閉じない、歪んだ軌跡。


「風のせいじゃなくて?」


「……最初は、そう思いました。でも、雲は出てなかったし、空も澄んでいて」


 雛乃の声は落ち着いていたが、その奥に、微かな不安が滲んでいる。

 希夢は、胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。


「望遠鏡は?」


「使ってません。裸眼で見ただけです」


 それを聞いて、希夢は一瞬、安心しかけた。

 裸眼なら、見間違いはいくらでも起こる。

 そう思った矢先、雛乃は続けた。


「……でも、目を逸らしても、揺れは残っていました」


 言い切るような口調だった。

 希夢は言葉を探す。


「疲れてたんじゃない?」


「かもしれません」


 雛乃は、素直に頷いた。


「だから、誰にも言わなかったんです。ただの錯覚かもしれないし……」


 彼女は、そこで一度、言葉を切った。

 そして、希夢を見た。


「でも、今日の午後の光も……少し変に見えて」


 希夢は、反射的に窓の外を見る。

 午後の光は、先ほどと同じように、穏やかに校舎を照らしている。

 何もおかしなところはない。


「どこが?」


「説明しづらいです。輪郭が、はっきりしないというか……」


 雛乃は、困ったように笑った。


「音楽のピッチが、ほんの少しずれてる時みたいな感じです」


 その比喩は、妙に的確だった。

 希夢は、午前中の違和感を思い出す。音が遅れて届く感覚。触覚のわずかなズレ。


「……それ、いつから?」


「昨日の夜からです」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちる。

 部室の外で、誰かが走り去る音がした。廊下の喧騒は、いつも通りだ。


「気にしすぎ、かもしれないけど」


 雛乃はそう前置きしてから、言った。


「もし、また揺れて見えたら……一緒に確認してもらえますか?」


 そのお願いは、小さく、けれど真剣だった。

 希夢は、即答できなかった。

 自分の中にも、同じ違和感が芽生えていることを、認めたくなかったからだ。


「……うん」


 しばらくして、希夢は頷いた。


「いいよ。気になるし」


 雛乃は、ほっとしたように息を吐いた。

 その瞬間、窓の外で、光がほんの一瞬だけ強く揺れた気がした。


 希夢は、目を凝らす。

 けれど次の瞬間には、いつもの午後の景色に戻っている。


 ――今のは、見間違い。

 そう思おうとした。


 だが、胸の奥に残ったざらつきは、消えなかった。

 雛乃の“観測”は、偶然ではない。


 世界はまだ壊れていない。

 けれど、確実に、ずれ始めている。


 希夢は、そのことを、言葉にしないまま、胸に留めた。


 部室の扉が、勢いよく開いた。

 金属がぶつかる乾いた音が響き、空気が一瞬だけ揺れる。


「おーっす。今日、部室静かすぎじゃない?」


 裕也だった。

 片手で鞄を振り回し、もう片方の手で髪をかき上げる。いつも通りの動作。声の張りも、足取りも、何ひとつ変わらない――はずだった。


 希夢は、視線を上げた瞬間、わずかな違和感を覚えた。

 裕也の姿が、ほんの一瞬だけ二重に見えた気がしたのだ。

 次の瞬間には、もちろん一人分の輪郭に戻っている。


「……どうした?」


 裕也が首を傾げる。


「いや、なんでもない」


 希夢はそう答えた。

 雛乃も、小さく首を振る。


「静かだと、落ち着きますよね」


「えー? 俺は落ち着かないわ。静かすぎると、なんか考え事しちゃうし」


 裕也は笑いながら椅子を引き、勢いよく腰を下ろした。

 椅子が床を擦る音が、少しだけ遅れて耳に届いた気がする。

 希夢は、そのズレを“見なかったこと”にした。


「今日さ」


 裕也は、机に肘をつき、二人を交互に見た。


「朝から変じゃなかった?」


 その問いかけは、あまりにも自然で、あまりにも不用意だった。

 希夢の胸が、きゅっと縮む。


「変、って?」


 雛乃が、慎重に聞き返す。


「なんていうか……全部?」


 裕也は苦笑した。


「音とか、光とか。俺、朝からずっと気持ち悪いんだよね」


 雛乃が、希夢を見る。

 希夢は、視線を外した。


「寝不足じゃない?」


「それもあるけどさ」


 裕也は、冗談めかした口調を保ちながら、続ける。


「でもさ、俺、夢も見たんだよ」


 その言葉に、雛乃の肩がわずかに跳ねた。


「……どんな?」


「覚えてるのは、ほとんどない。ただ……光があって」


 裕也は、言葉を探すように天井を見上げた。


「眩しいとかじゃなくて、もっとこう……近い感じ。目の前じゃなくて、頭の中にあるみたいな」


 希夢は、無意識に自分のこめかみに触れていた。

 午前中に感じた、微かな頭痛が蘇る。


「でさ」


 裕也は、少しだけ声を落とした。


「その光の中で、誰かが呼んでた気がするんだ」


 部室の空気が、静まり返る。

 時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。


「名前は?」


 雛乃が、震える声で尋ねる。


「……分からない」


 裕也は首を振った。


「声だけ。男か女かも、はっきりしない。ただ……知ってる気がした」


 希夢は、胸の奥で何かが反応するのを感じた。

 言葉にならない記憶の欠片が、静かに浮かび上がる。


「気持ち悪い夢だね」


 そう言いながら、希夢は自分が嘘をついていると分かっていた。


「だろ?」


 裕也は、いつもの調子で笑おうとした。

 けれど、その笑顔は途中で止まり、曖昧な形のまま消えた。


「なあ……この前の夜さ」


 裕也は、声をさらに落とした。


「観測室、入っただろ。三人で」


 雛乃が、小さく頷く。

 希夢は、否定も肯定もしなかった。


「あそこで……何か、あったよな?」


 その問いは、確認ではなく、共有を求めるものだった。


「何も……」


 希夢は言いかけて、言葉を切った。

 “何もなかった”と断言するには、あまりにも多くの違和感を抱えていた。


「分かんない。でも……」


 裕也は、机の上に置いた自分の手を見つめる。


「俺、あの時から、ずっと変なんだ。現実が、俺の反応を待ってくれない感じ」


 その表現は、雛乃が使った比喩と、どこか似ていた。


 部室の外で、風が強く吹いた。

 窓ガラスが小さく鳴り、光が揺れる。


 希夢は、はっきりと見た。

 ビーカーの縁に映る光が、わずかに遅れて歪むのを。


「……見た?」


 裕也が、低い声で言った。


 雛乃は、唇を噛み、頷いた。


「……はい」


 三人の間に、逃げ場のない沈黙が落ちる。

 冗談で済ませるには、遅すぎた。


「なあ」


 裕也は、笑おうとして、結局やめた。


「これさ、俺たちだけの問題じゃないよな」


 希夢は、ゆっくりと息を吸った。

 そして、初めてはっきりと答えた。


「……うん。たぶん」


 その瞬間、部室の奥で、何かが応えた気がした。

 音ではない。光でもない。

 ただ、“観測された”という感覚。


 裕也の“明るい雑音”は、

 いつの間にか、確かな警告音へと変わっていた。


 部室の空気は、先ほどまでと何も変わらないはずだった。

 机の配置も、棚の並びも、窓から差し込む光の角度も。すべて、いつもの放課後の延長にある。


 けれど希夢には、それがもう「同じ」には感じられなかった。


 雛乃と裕也が、言葉少なに視線を交わす。

 どちらも、何かを言いかけて、やめている。その沈黙の質が、今までと違う。気遣いでも、遠慮でもない。共有されてしまった後の沈黙だった。


 希夢は、ノートを閉じた。

 紙の音が、思ったよりも大きく聞こえる。

 その音が、ほんのわずかに遅れて耳に届いた気がして、思わず眉をひそめる。


 ――やっぱり。


 確信が、静かに形を持ち始める。

 これは錯覚ではない。

 少なくとも、自分ひとりの問題ではない。


 午前中から続いている、音の遅れ。

 雛乃が見た、揺れる星。

 裕也が語った、光の夢。


 それらは、別々の出来事のはずだった。

 けれど今は、同じ一本の線の上に並んでいるように見える。


 希夢は、胸の奥に残る感覚を探った。

 恐怖、と呼ぶには弱すぎる。

 不安、と言うには、どこか冷静すぎる。


 それはむしろ、理解してしまった時の静けさに近かった。


 自分は、気づいてしまう側なのだ。

 見えてはいけないものを、見てしまう。

 世界の輪郭がずれた瞬間を、認識してしまう。


 その事実が、ゆっくりと沈んでいく。


 視線を上げると、棚の奥に置かれた古い機材が目に入った。

 先輩たちが使っていたもの。

 鹿島先輩が、最後に触れていたかもしれないもの。


 名前を思い浮かべただけで、胸の奥が微かに疼く。

 理由は分からない。

 思い出そうとすると、そこだけ記憶が霧に覆われる。


 ――忘れているのではない。

 思い出せないように、なっている。


 そんな感覚が、確信に変わる。


 裕也が、わざとらしく咳払いをした。


「……今日は、この辺にしとく?」


 雛乃が、静かに頷く。


「はい。少し……疲れました」


 希夢も、同意した。

 これ以上、この部室に留まるべきではない。

 理由は説明できないが、直感がそう告げていた。


 鞄を持ち、立ち上がる。

 床に足をつけた瞬間、希夢は微かな違和感を覚えた。

 重心が、ほんの少しだけ、ずれたような感覚。


 けれど倒れることはない。

 世界はまだ、崩れてはいない。


 ただ――

 観測されてしまっただけだ。


 希夢は、その事実を胸にしまい込む。

 誰かに話すことも、否定することもせず、ただ、受け取る。


 部室を出る直前、ふと窓の外を見る。

 午後の光は、穏やかで、静かで、何も変わっていないように見えた。


 それでも希夢は、確信していた。


 この午後は、もう「ずれないはずの午後」ではない。

 ここから、何かが始まる。


 ――観測は、すでに始まっている。



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