見知らぬ駅
広田純一(50)は、妻と中学生の娘を持つごく普通のサラリーマンだ。郊外の閑静な住宅街に一軒家を構え、毎朝6時に起床するのが日課である。
彼の生活は規則正しく、特別な刺激もなく、ただ淡々と流れていく日々だった。妻が用意してくれた朝食を食べ、娘に「行ってきます」と声をかけて家を出る。
通勤に使う路線も、長年乗り続けているおなじみの路線だ。家から最寄り駅まで徒歩10分、少しだけ汗ばむ季節になると、電車に乗り込む頃にはネクタイを緩めるのが広田の習慣だった。
毎朝、車窓から見える風景は変わらない。駅ビル、商業施設、そして次第に高層ビル群が現れ、都心に近づくにつれて、車内も徐々に混雑してくる。通勤ラッシュを避けるため、広田は早めに家を出ていたが、それでも満員電車に揺られる日々だった。
そんなある日、広田が乗り慣れた電車は、いつも通りの速度で進んでいた。
車内アナウンスが流れた。
「次は、『籠の宮』です」
広田は一瞬耳を疑った。全く聞いたこともない駅名だ。
長年この路線を使ってきた彼にとって、馴染みのない駅など存在するはずがない。何かの間違いだろうか、と思いつつも、妙に気になった。「籠の宮」という響きに、どこか引き寄せられるような感覚を覚えたのだ。
電車が駅に停車すると、広田は少し迷ったものの、今日は時間に余裕があると自分に言い聞かせてホームに降り立った。駅名の表示を見上げると、確かに「籠の宮」と書かれている。
改札を抜けて外に出ると、街並みは真新しく、清潔感が漂っていた。無機質な感じもしないではないが、最近流行りのデザインなのだろう。
駅に戻ろうとした広田は、さらに驚くことになる。駅の入口は鋼鉄のシャッターで硬く閉ざされていたからだ。不安になりながらも、近くにいた駅員に声をかけた。
「すみません、電車に乗りたいのですが?」
駅員は真顔でこう答えた。
「電車はもう来ませんよ」
その言葉に、広田は混乱しつつも、なぜか納得していた。むしろ、心の中に穏やかな安堵感が広がっていた。
「今日は会社を休んでもいいかもしれない」
広田は自然とそう思うようになっていた。
街を歩き始めると、繁華街を抜けると住宅街にたどり着いた。ここもまた、どこにでもあるようなニュータウンだ。真新しい一軒家が整然と並んでいる。
花壇が綺麗な公園も発見した。
しばらく歩くと、森が見えてきた。広田は導かれるように、森の奥へ足を踏み入れてみた。
森の中には細い小道が続いており、鳥のさえずりと、木々の間を抜ける風の音が心地よい。
しかし、10分ほど歩くと、急に道が途切れ、高さ10メートルはありそうなコンクリートの壁が目の前に現れた。その壁は左右にどこまでも続いているように見え、これ以上先には進めないようだった。
広田は少し考え込んだが、特に抵抗することもなく引き返すことにした。
そして、道中に見つけた公園のベンチに座り、青空を見上げる。どこか現実離れした空間にいるような気がするが、それでも心は平穏そのものだ。
広田は公園でしばらく空を見上げ、ただひたすら風景を眺めていた。青空に漂う雲はどこまでも穏やかで、鳥たちのさえずりが遠くで響いている。
ここにいると、まるで時間の流れが止まっているような感覚に陥る。こんな穏やかな気分になったのはいつ以来だろう。
しかし、ふと胸に手をやると、広田はスマホがあることを思い出した。家族に連絡を取って、現状を伝えるべきだと思い、スマホを取り出した。電波があるのかどうか不安だったが、圏外だった。
「まぁ、仕方ないか」と独り言を呟きながら、広田は再び歩き始めた。気がつけば、街中を散策していた。繁華街では、どこにでもあるチェーン店が並んでおり、街は穏やかな雰囲気で満ちている。店員や住民たちは皆笑顔を浮かべ、互いに挨拶を交わしている。その光景は、とても美しく感じられた。
広田は不動産屋の前を通り過ぎる時、ふと「アパートを借りる」というアイデアが浮かんだ。
どうやらこの街にしばらく滞在することになりそうだ。普通ならそんな事は考えないはずだが、この街ではなぜか違和感なく思えた。
不動産屋に入ると、新しい机に座った若い女性が、にこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、住まいをお探しですか?」
広田は無意識のうちに頷いた。店主は地図を広げ、いくつかの物件を紹介してくれた。広田は、その中から1つのアパートを選び、契約を済ませた。特に手続きに時間はかからなかった。
その後、役所に向かい、住民登録も済ませることにした。役所の職員たちも、皆穏やかで親切だ。手続きはスムーズに進み、広田は新しい住民票を手に入れた。
これで、この街に暮らす準備は整った。広田は不思議と満足感を覚えた。何もかもが穏やかに、スムーズに進んでいく――それが、この街の特徴なのかもしれない。
新しいアパートに着くと、広田は部屋を見渡した。シンプルな家具が揃っており、窓からは先程歩いたと思われる森が見渡せる。広田はベッドに腰を下ろし、しばらくぼんやりと窓の外を見ていた。
「森の緑が綺麗だな…。ここでの生活も悪くない…」
そう呟きながら、広田はしばしの安息を感じていた。
だが、気になることがあった。この街には子供の姿が一人も見当たらないのだ。学校も見当たらないし、遊ぶ子供たちの声も聞こえない。
街のどこを歩いても、大人ばかりが暮らしている。広田はその事実に一瞬疑問を抱いたが、それもすぐに頭の片隅へと追いやられた。
「まぁ、静かでいいか…子供はそんなに好きじゃないしな…」
広田は自分にそう言い聞かせ、再び窓の外を眺めた。外では夕日が沈みかけ、部屋にオレンジ色の光が差し込んでいた。
夕日が完全に沈む頃、街の明かりがぽつぽつと灯り始めた。広田は窓の外の景色を眺めながら、ゆっくりと立ち上がった。軽くストレッチをしながら、思ったよりもこの街に馴染んでいる自分に気づく。
ここでの生活は静かで穏やかだ。妻や娘がいる自宅に戻れないことへの不安も、なぜかどうでもよくなっていた。
その夜、広田は夜の街を散歩していた。
街の広場には大きな噴水があり、広田はその中の一つのベンチに腰掛けた。夜の静けさに噴水の水音が溶けていく感覚が心地よい。
ふと、近くにいた中年の男性が広田に声をかけてきた。
「最近引っ越してきたんですか?」
広田は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「ええ、つい先日ですね。まだこの街のことはよく知らないんですが…緑が多くて綺麗な街ですね」
「この街はとても穏やかで、何の不自由もありませんよ。住民は親切だし、街も清潔ですからね。何も心配することはありませんよ」
広田はその言葉に安心感を覚えた。実際、ここでの生活は何も問題なく進んでいる。静かで美しい街並み、親切な住民たち――これ以上何を望む必要があるのかと思えるほどだ。
しかし、会話を進めるうちに、広田は一つの疑問を口にした。
「一つ気になるんですが、この街には子供が全くいませんね。学校もないようですし…それが少し不思議で」
男性は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「ええ、それはそうですね。ここには子供はいないんですよ。まあ、理由は私たちもよく分かりません。静かでいいじゃないですか」
「そうですね。この街は本当に静かで綺麗です」
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時は2040年。時代は大きく変わっていた。
かつて世界中で行われていた死刑制度は、今や完全に撤廃され、刑務所という概念自体が大きく見直されていた。刑務所は犯罪者を罰し、社会から隔離する場所として長らく機能していたが、2040年の世界では、それが「非人道的」として非難の対象になっていた。
犯罪者の人権を尊重すべきだという声が高まり、国際的な圧力のもと、多くの国で刑務所システムが改革されたのだ。
もちろん、この変化に反対する者たちもいた。厳罰主義を唱える者たちは、刑務所の撤廃と死刑廃止に対して強い反発を示した。
しかし、その声は少数派にとどまり、最終的には押し流されてしまった。
北欧の刑務所から始まった、この潮流は徐々に世界中に広がり、日本も例外ではなかった。
新しいシステムでは、犯罪者はもはや刑務所に強制的に収容されるのではなく、最新の技術を駆使して自ら進んで刑務所に入るようにプログラムされる。
このシステムは、国際機関が開発したもので、犯罪者に催眠をかける機械が導入された。この催眠は犯罪者が自ら刑務所に向かうように作用し、さらに、収容後もその効果は続くと言うものだ。
このシステムが適用される施設は「籠の宮」と呼ばれている。犯罪者が収容される場所でありながら、一見すると普通の街のように見える。
しかし、そこに収容された者たちは、催眠によってそこでの生活を自然に受け入れ、何も疑問を抱かなくなる。彼らは自由意志を持っているかのように錯覚しながら、穏やかで従順な生活を送ることになるのだ。
さらに、このシステムのもう一つの特徴は、犯罪者が「籠の宮」での生活を通して、平和で規律正しい生活を学んでいくという点にある。刑期を終えた者は、再び社会に戻されるが、そこでの穏やかな生活に慣れ親しんでいるため、再び犯罪に手を染めることなく、社会に順応して生きていくという。
但し未成年は「籠の宮」に入る事は絶対になかった。また別のプログラムが用意されているからだ。子供がいないのはそのためだ。
広田もまた、刑罰として「籠の宮」に収容されていた。彼はかつて、連続強盗殺人を犯し、15人もの命を奪った凶悪な犯罪者だった。彼の手によって奪われた命の重さは、計り知れない。
しかし、表向きの姿はいたって普通の会社員で、郊外に家族とともに住む中年男性だった。
だが、その裏には冷酷な殺人者としての顔があった。彼が犯した罪の重さは、昔であれば無期懲役や死刑が適用されるべきところだったが、死刑制度が廃止された今、このシステムが適用された。
広田は「籠の宮」に送り込まれ、催眠によってその生活に疑問を持つことなく順応していた。彼の罪深い過去も忘れ去られ、彼自身がその穏やかな生活を享受していた。
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朝起きると、カーテンを開け、外の緑を眺めながら苦めのブラックコーヒーを飲むのが日課だ。
いつものように軽く伸びをした後、服を整えようとスーツのポケットに手を入れた。
すると、指先に触れる違和感があった。ポケットから取り出したのは、透明な小さな袋に入った錠剤だった。
「これ、なんだ…?」
広田はその錠剤をしばらく見つめた。どうしてこんなものが自分のポケットに入っているのか思い出せない。
しかし、不思議なことに、そのまま飲んでみることにした。特に深く考えることもなく、無意識のうちにその行動を取ったのだ。ここでの生活はそういうものだ。
錠剤を飲んでから10分ほど経った頃、広田は急に頭の中に鮮明な記憶が蘇ってきた。忘れていたはずの事実が次々と脳裏に浮かび上がる。
広田は自分がかつて犯罪組織に所属し、連続強盗殺人を犯していたことを思い出した。
犯罪組織が開発した、催眠を解く為の錠剤の効き目はてきめんだった。
「ひひひひっ」
広田は下卑た笑い声をあげると、犯罪グループの仲間達が大勢「籠の宮」にやってくる事も思い出したのであった。