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禊(みそぎ)

私は16歳、井上沙織。


ごく普通の女子高。


正確には、女子高生だった——。


どうやら私は死んでしまったらしいのです。


え?どうしてそんなことがわかるのかって?


それは、自分のお葬式を見たからです。あまり思い出したくないので、その時の詳細は省かせてください。


あまりにも悲しかったから——。


生きることに強い執着心はなかったと思います。


それでも、お父さんとお母さんが号泣している姿を見た時——。その胸が張り裂けそうになる光景を目の当たりにした瞬間に、私は初めて強く感じました。


“もっと生きたい”と。


大切な人たちを悲しませることが、こんなにも苦しいなんて……。


気がつけば、私は浮遊霊になっていたようです。


浮遊霊って、簡単に言うと肉体を持たず、意識だけが存在している状態です。私はみんなのことを見たり聞いたりできるけど、みんなからは私の姿は見えない。


簡単に言うと透明人間みたいな感じです。


でも、まだ成仏できていないのか、いつまでこの状態が続くのかは全くわかりません。


どうして死んでしまったのか…。


それを説明しなきゃいけませんね。


あれは、いつものように自転車で登校していた時のこと。


車道から歩道に移る際に、少しの段差にタイヤが引っかかって、そのまま転倒。呆気なく、そのまま後続車に轢かれてしまいました。


その瞬間、車の運転手と目が合ってしまったんです。まだ若い女性でした。彼女がどれだけ驚いたか、その時の表情が忘れられません。


きっと彼女も一生のトラウマになる事でしょう。


どう考えても、私はまだ死ぬわけにはいかないのです…。


そんな状況で思いつくのは、神頼みしかありませんでした。


いつも初詣に行っている、近くの烏住神社へ足を運びました。


すっかり夜も更け、社殿は静かに佇んでいます。誰もいません。


私は普段、神様を信じるタチではなかったけれど、この時だけは心から祈りました。


「神様…。どうか…今日だけは私の願いを聞いてもらえないでしょうか…」


すると、どこからともなく、低く響く声が聞こえました。


「あなたは…残念ながら、すでに死んだのだ」


もう、この様な現象にもそれほど驚かなくなっていました。ここまで来ると、何が起きてもおかしくない。そんな心境になっていました。


「過去に戻りたいのか?」


「はい」


「10年後、そなたは“禊”を受けることになる。それでも良いのか?」


「はい、謹んでお受けいたします」


「よかろう…。そなたの願いは受け入れたぞ」



——————



気がつくと、私の周りにはいつもの光景が広がっていました。


そこは事故が起こる前の朝の風景でした。


朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の中を柔らかく照らしています。


リビングからは、母のまな板をトントンと軽やかに叩く音が聞こえてきます。朝ごはんの準備でしょう。野菜を切るリズムに合わせて、台所にはラジオの音が静かに流れていました。


「午前中は晴れますが、午後にはところによりにわか雨…」


穏やかなアナウンサーの声が、いつもの朝をさらに心地よく包んでいます。


父は、リビングで新聞を広げて読んでいます。テーブルには温かい湯気を立てたコーヒーが香りを立て、時折、新聞をめくる音が部屋に響くています。


その表情は落ち着いていて、まるで何事もなかったかのような普通の朝でした。


この光景が何よりも愛おしかったのです。


私がふと、台所へ向かうと、母が振り向いて優しく微笑みました。


いつもの朝ですが、今日だけは家から出るわけにはいきません。


「お母さん、おはよう!お腹が痛いよ…。今日学校休でいい?」


「沙織、お腹大丈夫?無理しないで、学校休んでいいのよ」


「うん、休むね。ありがとう、お母さん」


いつも真面目に登校しているので簡単に休むことができそうでした。


今日は絶対家から出ないつもりです。


この普通のやりとりさえも、胸にじんわりとした温かさが広がっていきます。


お母さんがいつものように優しく接してくれる。

それがどれほど尊いことか、今でははっきりとわかります。


父が新聞から顔を上げて、私を見ました。


「お腹痛いんだって?無理せず休めよ。そういう日も必要だから…」


父の言葉はいつも変わらりません。厳しいところもありますが、愛情を込めてくれる、その一言一言が今はありがく心に染み渡ります。


リビングに漂う朝の匂い、まな板を叩く音、新聞の紙をめくる音、ラジオの声。これが、私にとっての「日常」であり、今この瞬間がどれほど貴重でかけがえのないものか、本当に強く感じました。


家では録画しておいたドラマを見ながら過ごすことにしました。何が起こるかとても不安でしたが、その日は結局何も起きなかったのです。



——10年後———



私は無事に日常を過ごし続け、あの日の記憶も次第に薄れていき、やがて完全に消え去っていきました。


高校を卒業し、大学へ進学。そして、数年後、地元から数キロ離れた繊維メーカーに就職しました。


そこでは、毎日工場まで車で通勤していました。


この日の朝も、いつも通りの道を車で走っていました。気分は上々、ラジオから流れる軽快な音楽に耳を傾けながら、穏やかな日常が続いていることに感謝していました。


そんな中、視界にふと入ってきたのは、一人の女子高生。


彼女は車道を自転車で走っていました。


女子高生も車の気配を感じ取ったようで、ゆっくりと歩道に移動しようとしているのが見えました。


すべてが順調に進むはずでした。


しかし、その瞬間、予想外のことが起こったのです。


女子高生が転んだのです。


しかも車道側に。


私は咄嗟に急ブレーキを踏みましたが、この距離では絶対に間に合いません。


その時、目が合ったのです——その女子高生と。


全てがスローモーションに進んでいきます。


その目が見つめ返してきた時、私は息を呑みました。


なんとその顔は、16歳の私自身だったのです。


その瞬間、私の記憶の底から、あの日のことがまざまざと蘇ってきました。


あの日、神社で願ったこと。


過去に戻ったこと。


そして10年後に「必ず報いを受ける」と神様に告げられた言葉が…。


すべてが繋がり、恐怖と混乱が一気に襲いかかってきた。


「嘘…これは、夢?それとも現実?」


心の中で叫びましたが、現実は冷酷でした。


急ブレーキは間に合いませんでした。


私は、轢いてしまった。


そう思いました。


しかし、車が完全に止まった時、何の衝撃もなく、目の前に何もなかったのです。


呆然としながらハンドルを握りしめ、目を見開いたまま、信じられない思いで前方を見つめました。


「さっきまで、いたはずなのに…」


狐につままれたような感覚。


恐る恐る車を降りて周囲を見渡してみましたが、やはり何もない。


転んでいたはずの女子高生——16歳の私の姿も、跡形もなく消えていました。


その瞬間、私はすべてを思い出しました。あの日のことを——。


私は女子高生の頃、自転車で危険な転び方をし、あの事故を引き起こした。自分がその時の事故を招いたこと、運転手に迷惑をかけたこと、そして命を救ってもらったことを、今鮮明に思い出しました。


そして今日、私はまた不注意な行動を取ってしまったのです。自転車としっかり間隔をあけなかったうえ、予測が甘く急ブレーキをかけたことで、あの様な状況になったてしまいました。


私は漫然と日々を過ごし、人に迷惑をかけることが多かったのです。自分の行動に対する配慮が足りなかったのだと、痛感しました。


今日、私は「禊」を受けたのです。


その日の仕事が終わると、すぐにあの神社へ向かいました。10年前に願いをかけた、あの烏住神社。


薄暗い夕暮れの中、社殿に足を運び、心から感謝の祈りを捧げました。


「神様、私を生かしてくださってありがとうございました。今日、私は禊を受けました。これからは、もっと周りに気を配り、感謝して生きていきます」


静かに手を合わせ、心の中で何度も繰り返し感謝の気持ちを伝えました。


すると、あの時と同じように、再びあの声がどこからともなく響いてきました。


「そなたは、生かされた選ばれし者。これからはしっかり生きなさい」


その声が、まるで私の心を優しく包み込むように響きました。


「はい!」


私は力強く答えました。


その瞬間、心地よい風が神社の境内を吹き抜け、私の頬をそっと撫でていきました。


まるで、神様が私を励ましてくれているかのような温かい風でした。


私は目を閉じ、深く息を吸い込みました。


これからは、もっと気を配り、周りの人たちに感謝しながら生きていきます。


そう、心から強く決意しました。

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