Jamaica Vu (ジャメヴュ)
ジャメヴュとはデジャヴの逆 未視感の事です。
つまり、日常的な事を初めての様に感じる事です。
Jamais Vu (ジャメヴュ)
金曜の夜、仕事終わりのビールが身体に染みる。
佐藤美知(33)はいつもの同僚たちと居酒屋で愚痴を吐き出してきた。営業のノルマのこと、理不尽な上司のこと、無神経な後輩のこと。グラスを傾けるたびに、胸の中にたまった鬱憤が少しずつ軽くなった気がする。けれど、帰り道に一人になると、結局その空虚さがまた押し寄せてきた。
「はあ…何やってるんだろう、私」
ほろ酔いの身体を引きずるように駅から歩き出したが、いつの間にか知らない路地に迷い込んでいた。薄暗い街灯が遠くにぼんやり灯っている。周囲には人気がなく、どこか生温かい風が吹いている。
美知はスマホの地図を確認しようとポケットを探るが、酔いのせいで動きが鈍い。やれやれとため息をつきながら顔を上げた瞬間、目の前に一台の自販機が現れた。
「…こんなところに?」
その自販機は異様だった。古びてはいるが妙にピカピカと輝き、置かれている場所も不自然だ。道の行き止まりに鎮座するその存在が、周囲の薄暗い風景から浮いて見える。
美知は少し近づき、目を凝らした。並べられているのは見たこともないドリンクばかり。その中でもひときわ目を引いたのは、黒いラベルに金色の文字で「Jamais Vu」と書かれた瓶のボトルだ。
「何て読むのかな?」
気になってスマホで調べてみる。
jamais vuとは、見慣れた光景や物事が未体験の事柄であるかのように感じられる「未視感」を意味します。
ジャメブの由来はフランス語の「jamais vu」で、日常的な事柄が初めてのように感じられることを意味します。
ジャメブと似た反対の言葉に「デジャヴュ(déjà vu)」があり、これは初めての経験を既にどこかで体験しているかのような感覚に陥る「既視感」を意味します。
「ふうん、変な名前。でも、ちょっとおしゃれかも」
値段は800円。高いな、と一瞬ためらったが、酔った勢いも手伝って美知は財布を取り出した。
「まあ、試しに飲んでみるか」
チャリンと硬貨を入れる音が響く。瓶が取り出し口に落ちてきた。手に取ると、冷たく、どこか不気味なほど滑らかな感触がした。
「いただきます」
何の迷いもなく、美知はキャップをひねり、口に含んだ。甘すぎず、かすかな酸味が後を引く、不思議な味。美知はゴクリと一口で飲み干した。辺りを見回してもゴミ箱がなかったので空き瓶をバックの中に入れた。
土曜日の朝、美知は、目覚まし時計の音ではなく、小鳥のさえずりで目を覚ました。ぼんやりとした頭で枕元を見回しながら、これまでにない爽やかさを感じる。
「こんなに気持ちよく目覚めるのは、いつぶりだろう…?」
カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、部屋全体を柔らかく包み込んでいる。ゆっくりと布団を抜け出し、窓に近づいてカーテンを開けると、目の前に広がる風景に言葉を失った。
いつもの住宅街。何も変わらないはずなのに、まるで絵画の中にいるような感覚だった。空はどこまでも青く、新緑の木々がそよ風に揺れ、葉の一枚一枚がきらきらと光を反射している。庭先には色とりどりの花々が咲き誇っている。
「こんなに美しい場所だったんだ…?」
窓を開けると、爽やかな5月の風が吹き込んでくる。肌をそっと撫でる心地よさに、美知は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに広がる清々しい空気が、心までも洗い流していくようだった。
足元では、飼い猫のメアリーがのんびりと近づいてくる。その丸い瞳が、これまでに見たどの宝石よりも美しく輝いているように感じられる。毛並みは陽の光を受けて柔らかな金色に見え、触れると暖かさとふわふわの感触が伝わってくる。
「メアリー、どうしてこんなにかわいいの…?」
いつもは当たり前のように感じていた猫との日常が、たまらなく愛おしいものに思えた。その瞬間、気がつけば美知の頬には涙が伝い落ちていた。
「私、こんなふうに世界を見たことがなかった…」
ふいに、昨日の自販機と「Jamais Vu」のドリンクのことを思い出す。あのドリンクを飲んだせいなのだろうか。何かが変わったのか。それとも、ただ自分の心が開かれただけなのか。
美知は、窓辺に佇んだまま、しばらくその感動を噛みしめていた。
土曜日の朝はホットケーキを焼くのが小さな日課であり、大して楽しいわけでもないが、なんとなく続けている習慣だった。
キッチンでボウルに小麦粉を入れ、卵と牛乳を加える。混ぜるたびに生地の表面が滑らかに整い、フライパンに流し込むと、小さな泡がぽつぽつと浮き上がる。
リビングに戻ると、プレイリストからお気に入りのジャズピアノを流す。流れ始めたメロディは、昔何度も聴いた曲だった。心地よくはあるものの、最近はどこか飽きてしまったように感じていた。
しかし、今日は違った。音が流れ出した瞬間、美知の心がざわめいた。音一つひとつが鮮やかで、生きているように聞こえる。ピアノの旋律が部屋の空気を満たし、肌の表面をやさしく撫でていく。
「こんなに素敵な曲だった…?」
不思議と涙が込み上げてきた。初めてこの曲を聴いた時のことを鮮明に思い出す。大学時代、友人に教えてもらって感動した瞬間が蘇り、その記憶と今の音楽が繋がっていくようだった。
その間にホットケーキが焼き上がった。少し焦げた部分にバターをのせ、たっぷりのシロップを垂らす。それを一口頬張ると、思わず声が漏れた。
「美味しい…!」
これまでに何度も食べたはずのホットケーキが、まるで別物のように感じられる。小麦粉の香ばしさ、バターのコク、甘いシロップが完璧なバランスで口の中に広がり、思わず幸せなため息をついた。
「これも…『Jamais Vu』の効果なの?」
昨日飲んだドリンクの名前が頭に浮かぶ。普段見慣れた、聴き慣れた、食べ慣れたものが、初めてのように美しい。美知は震える手でフォークを置き、しばらくその奇妙な幸福感に浸った。
次に美知は、本棚から一冊の本を手に取った。お気に入りの「星屑の詩集」だ。過去に何度も繰り返し読んだこの本は、すっかりボロボロになっている。背表紙の色は薄れ、ページの端には折り目がついている。それを手にした瞬間、かすかに感じた紙の匂いが、懐かしい記憶を呼び起こした。
「最後に読んだのは…何年前だろう」
美知はしばらくの間、その表紙を見つめたまま思い出に浸る。けれど、ふと顔をしかめる。この本に何度も感動したはずなのに、いつからか手に取る気もなくなっていた。すべてのページが頭に焼き付いてしまい、もう読む必要すら感じなくなっていたのだ。
「でも、今ならきっと…」
心の中に小さな期待が芽生える。昨日のドリンク「Jamais Vu」が、あらゆるものを新しい目で見せてくれていることを思い出した。この詩集もきっと、初めて触れるような感覚を与えてくれるはず。
美知はそっと表紙をめくり、1ページ目を開いた。目に飛び込んできたのは、星空の下で囁くような詩だった。
夜空は無数の記憶を編み込んだ刺繍のようなもの。私たちはその一部に過ぎない。
その言葉を読んだ瞬間、美知の中で何かが弾けた。まるで文字一つひとつが命を持ち、心に語りかけてくるようだった。言葉の響きが鮮明で、深く、胸に刺さる。美知はページをめくる手を止められなくなった。
「ああ…こんなに美しい本だったなんて…」
次々と浮かび上がる詩が、かつての記憶と今の感覚を結びつけていく。星屑のようにきらめく文章が、夜空を見上げた幼い日の自分や、過去の恋、そして失われた何かを思い出させる。
気がつけば、美知の目からは止めどなく涙が溢れていた。泣いている理由もわからない。ただ、胸の奥底に眠っていた感情が溶け出していくようだった。
「これが…未視感…Jamais Vu」
本を抱きしめるように閉じ、美知は深く息を吸い込んだ。今、確かに彼女の世界は変わっている。どんな本も、どんな時間も、新しい。
土曜日の感動がそのまま続くように、美知は日曜日もいつもとは違う心で過ごした。朝、近所の県立公園へ出かけた。青空の下、満開のツツジが公園の小道を鮮やかに彩っていた。赤やピンク、白の花が一面に咲き誇り、風に揺れるたびに甘い香りが漂ってくる。その光景に思わず足を止め、写真を撮るのも忘れて見入ってしまった。
その後、ふらりと入ったカフェでは、普段飲むラテの味さえ格別に思えた。クリーミーな泡が舌の上でとろけ、ほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐる。隣のテーブルの会話も、店内の小さな音楽も心地よく響いた。
家に帰ると、飼い猫のメアリーが玄関で出迎えてくれた。メアリーの小さな肉球が廊下をトコトコと歩く音さえ愛おしく感じる。猫じゃらしを振ると、メアリーが目を輝かせて飛びついてくる。その仕草があまりに可愛く、美知は声を上げて笑った。
「こんな日々が続いたら…」
美知はそうつぶやきながら窓辺で紅茶を飲み、夕日が沈むのを眺めた。いつもなら日曜日の夜は憂鬱でたまらないが、今日は違う。胸の中に希望があった。
「明日は仕事か。でも、新しい気持ちで頑張れそう!」
美知はそう思いながらベッドに入り、静かに目を閉じた。枕元の小さな明かりが消えると、部屋はしんと静まり返った。
もし、この感覚が一生続くのなら、間違いなく「天国」だ。そんな思いを胸に抱きながら、美知は幸せな気分で眠りについた。
目が覚めた瞬間、美知は胸の中に広がる重い不安に気づいた。昨日までの幸福感は跡形もなく消え去り、代わりに得体の知れない不安が押し寄せてくる。
「なんで…こんな気分なんだろう」
昨日の夜、確かに「新鮮な気持ちで出勤しよう」と思っていたはずなのに。このまま布団の中で眠り続けていたいという衝動が強くなる。
その正体に気づいたのは、しばらくしてからだった。
——未視感。普段慣れているはずのものが、初めてのように感じられる現象。
それが美知を蝕んでいたのだ。これは、初めて会社に出勤したときの不安だった。いや、それとは比にならない程の不安だ。胸の中に渦巻く恐怖感が、まるで心臓をぎゅっと握り締めるように痛みを伴う。
「未視感って、こんなふうに作用するものだったの…?」
美知はようやく理解した。未視感とはただの「新鮮さ」ではなく、「諸刃の剣」だったのだ。慣れているものをすべて奪われる感覚は、日常を根底から覆してしまう。
仕方なく布団を蹴り上げ、ベッドから起き上がった。だが、全身が鉛のように重く、呼吸が浅くなる。動悸がひどくなり、手がかすかに震える。
そのとき、飼い猫のメアリーが足元に近づいてきた。いつもなら癒しそのものの存在が、今日は鬱陶しくてたまらない。美知はうっとうしそうに足を引っ込めるが、メアリーはそんなことお構いなしにまとわりついてくる。
「もう…やめてよ」
自分の声が驚くほど冷たく響いた。その瞬間、昨日感じていた幸福感が幻だったかのように思えてくる。現実が目の前に迫っている。それが耐えられない。
朝食の準備をしたものの、美知は食事が喉を通らなかった。湧き上がる不安が胃を締めつけ、何かを口に入れる気になれない。せめてエネルギー補給だけでも、と冷蔵庫から牛乳を取り出し、一口だけ飲んで家を出た。
駅に向かう足取りは重く、電車に乗り込むとその不安はさらに増大した。ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で身動きの取れない状態が、普段なら「慣れ」でなんとか耐えられるものの、今日は全く違った。今にも膝から崩れ落ちそうな程だ。
「今日は朝から大事なプレゼンがあるのだ…」
その事を思い出した瞬間、美知の心臓がさらに激しく脈打った。背中にじっとりと汗がにじむ。プレゼンのことを考えるたびに、頭の中が真っ白になり、膝が震えた。
「これ、いつまで続くの?早く土曜日にならないかな…」
美知は窓の外に目を向けながら、心の中でそうつぶやいた。楽しかった週末の記憶がよみがえり、その対比がさらに今の苦痛を際立たせる。
この感覚がもし一生続くのなら、それは間違いなく「地獄」だ。
電車を降りるとき、ふと美知は自分のバッグの中を探った。そこに入れていたものを思い出したからだ。捨てようとして、ゴミ箱が見つからずにそのままになっていた「Jamais Vu」の空き瓶。
バッグの底から瓶を取り出し、じっと見つめた。
ラベルには、小さな文字が記されている。美知はそれを目で追った。
「効能:未視感 一生保証」