第9話:激突の久高島
霧の合間から差し込む薄い陽光が、岩肌を鈍く照らし出す。久高島の外れ、荒れた岩場に迅は立っていた。相対するのは筋肉の鎧をまとったような巨体の男、豪。黒いジャケットの下から浮かび上がる紋様が、不気味に脈打つ。
「なるほどね、そいつがお前の切り札か?」
迅は口元に軽く笑みを浮かべながら、拳を握り締めた。
「試してみるか?」
豪が踏み込んだ瞬間、地面が砕け散った。疾風のように迅へ迫ると同時に、豪の拳が唸りを上げる。
「速ぇな――だが、見切れる!」
迅は身を屈め、豪の拳をギリギリでかわすと、流れるように相手の懐に潜り込んだ。
「こっちの番だ。《断撃掌》!」
両手を合わせ、豪の胸元に叩き込む。衝撃波が鋭く炸裂し、豪の身体がわずかに揺らぐ。
「効いたか?」
しかし豪の表情に動揺はない。黒い紋様が淡く光り、迅の霊力を吸収していくように見えた。
「ふん、そう簡単に効くかよ」
次の瞬間、紋様が瞬間的に輝きを放ち、迅の身体が後方へ弾き飛ばされた。
「――ッ!?」
咄嗟に地面を掴んで体勢を立て直す迅に、豪は悠然と歩み寄った。
「オレの『呪装反射』は霊力を吸収し、倍返しにして撃ち返す。殴れば殴るほど、お前がダメージを受ける仕組みだ」
豪の目には冷徹な自信が浮かぶ。一方、迅は状況を見極めるために間合いを取りながら、紋様の流れをじっと見つめた。
(どこかに反射できない部分があるはずだ……)
――その頃、鬱蒼とした林の中。
陽菜は神経を研ぎ澄ませていた。相手の女、朱音の姿は霧に紛れてはっきりしない。
「隠れてないで出てきなさいよ!」
苛立ちを隠せない陽菜は、掌を空に向け叫んだ。
「《陽焔ノ術》!」
指先から放たれた紅蓮の火焔が渦を巻き、霧の中を真っ直ぐ駆け抜ける。炎が直撃したかに見えたが、その瞬間、女の姿は霧散した。
「残念、ハズレよ」
朱音の声がどこからか響き渡る。
(幻影……!?)
陽菜が周囲を見回すと、背後から声がした。
「見えるものをすべて信じちゃダメ。陽菜ちゃんは、少し素直すぎるのよ」
朱音の指が空中をなぞった。すると空間が歪み、瞳のような奇妙な紋様が浮かび上がる。
「これは――?」
陽菜の視界がぼやけた瞬間、脳裏に過去の記憶が鮮烈に蘇った。
――燃え盛る家屋。悲鳴を上げる人々。陽菜の炎が暴走した日。
「やめて……!」
その様子を封印地点から遠隔で解析していた澪が、通信越しに焦った声を上げる。
「陽菜!相手の紋様は精神系幻術!その目を直視しちゃダメ!」
しかし陽菜の動きは鈍り、炎の勢いも急激に弱まっていた。
「迅!陽菜がまずい!早く決着つけて応援に行って!」
澪の通信に、迅は鋭く息を吐きながら答える。
「簡単に言うなよ。こっちも余裕ねぇんだ」
豪は無表情のまま腕を組み、じっと迅を見据える。
「そろそろ本気で来いよ。じゃねえと、こっちから終わらせるぞ」
迅は拳を握り直し、笑った。
「仕方ねぇな。ならこっちも少し、頭を使ってやるよ」
* * *
霧が薄れ、岩場に到達した迅は豪と正面から向き合った。お互いが黙ったまま、空気がピリピリと張り詰める。
「手加減ナシで行くぜ」
迅は不敵に笑いながら拳を握りしめた。
豪は無表情のまま腕を交差して構える。筋肉が盛り上がり、黒い紋様が静かに光った。
「好きにしろ。どうせ全部返してやる」
迅が地面を蹴り、一気に豪に迫った。鋭く踏み込むと腰を捻り、掌底を豪の胸元に勢いよく叩き込む。
「《断撃掌》!」
衝撃波が空気を切り裂き、岩場の小石が砕け散った。豪の体を覆う紋様が眩しく光り、衝撃を吸収した。
(またこれかよ!)
迅は素早く後ろに跳び退き、豪の紋様をじっと観察する。豪の体には攻撃を吸収し、反射する仕掛けがある。だが、それにも限界はあるはずだった。
同じ頃、林の中で陽菜は炎を両手に集め、幻影の中で混乱していた。
「やめて……もう、これ以上見せないで……!」
朱音が描いた紋様が、陽菜の意識を深く捉えて離さない。過去の火事の光景が陽菜の視界を支配し、足元がふらつき、炎が力なく消えかかっていた。
一方、封印地点で澪は白蛇を通じて状況を解析し、迅と陽菜に向かって焦った声で叫んだ。
「迅!豪の術は無敵じゃない!一度に吸収できる量には限界があるはず!そこを狙って!」
「陽菜、その紋様を直視しちゃダメ!幻術を引き起こすトリガーだよ!目を逸らして!」
だが陽菜の意識は完全に過去に囚われていた。
岩場では、迅が澪の声を聞きながら豪を睨みつけた。
(一気に叩き込めば、吸収が追いつかないかもな!)
迅の全身が霊力を帯び、勢いよく豪に突っ込んだ。
「耐えられるか試してやるよ!《連撃・断掌乱舞》!」
迅の掌底が豪の体に連続で叩き込まれるたび、衝撃波が豪を襲う。豪の紋様が次々と衝撃を吸い込み、徐々に光が限界を超えて強烈に輝き出す。
「甘いな!」
豪が吠えた瞬間、吸収した衝撃波が強烈に反射され、迅を襲った。迅は間一髪でかわし、素早く豪の背後に回り込んだ。
(背中は紋様が薄い……狙い目だ!)
迅は全力で豪の背に掌を打ち込んだ。
「これでどうだ、《断撃掌・一点穿破》!」
掌が触れた瞬間、豪の体が激しく揺れ、苦悶の叫びが漏れた。背中の筋肉が激しく痙攣し、口元から鮮血が飛び散った。豪は片膝をつき、苦痛に顔を歪める。
「ちっ……やってくれるぜ……!」
豪は筋肉をさらに膨らませ、紋様が再び力強く光り出した。迅は歯を食いしばり、息を整える。
(まだ、終われない……!)
* * *
岩場では迅が豪の猛攻を受け止めながら、冷静に紋様の動きを観察していた。豪が攻撃を吸収・反射する力は絶大だが、その吸収範囲には明らかにムラがある。
(右肩から胸元にかけては吸収が弱い……狙うならそこだ!)
迅はさらに速度を上げて豪の周囲を回り込み、隙を伺う。
「逃げ回るだけか?」
豪が苛立ちを隠さず挑発する。
「戦術ってもんがあるんだよ!」
迅は叫びながら豪の右肩めがけて飛び込み、《断撃掌》を連続で叩き込む。豪の体が初めて大きく揺れ、口元から血が滲んだ。
(やっぱり効いてる!)
しかし、豪はすぐに体勢を立て直し、怒りに任せて拳を振り下ろす。迅は間一髪で避けるが、その衝撃で地面が砕け散り、飛び散った岩片が迅の頬をかすめ、血が滴り落ちた。
一方、林の中では陽菜が朱音の幻術に完全に囚われていた。彼女の脳裏には、幼い頃の光景が鮮明に蘇っていた。
――火に包まれた家、煙に咳き込む声、逃げ惑う人々。
「私じゃない……私がやったんじゃない!」
幼い陽菜は炎の中で泣き叫んでいた。掌から無意識に漏れ出す炎が、家をさらに激しく燃やしていく。
「誰か……助けて!」
だが、炎は無情に広がり続け、周囲の景色を焼き尽くしていった。倒壊する家屋、焼け焦げる木々、その中でひとり震える幼い陽菜。
(違う……これは現実じゃない……!)
陽菜の意識が現実と幻覚の間で揺れ動く。だがそのとき、記憶の中で優しく抱きしめてくれた祖母の姿が蘇った。
「陽菜、大丈夫。火はお前の力だ。恐れず受け入れなさい。お前は決してひとりじゃない」
祖母の温かい言葉が、心の奥深くに眠っていた陽菜の勇気を目覚めさせる。
封印地点では、澪が焦りながら白蛇を通じて陽菜の状態を把握していた。
「陽菜、これはただの記憶だよ!目を覚まして!」
陽菜の意識は薄れていくかのようだったが、徐々に彼女の炎が再び熱を帯び始める。
(陽菜が立ち直り始めてる……!)
澪は焦燥感に苛まれつつも、迅へのサポートも続ける。
「迅、豪の右肩から胸元が弱点だよ!そこを集中的に攻めて!」
迅はその声を聞き、再び豪に向かって猛攻を仕掛ける。豪もその弱点を守ろうと激しく応戦し、互いの攻防はさらに激しさを増していった。
陽菜は幻影の中で祖母の言葉を繰り返しながら、震える体を必死に支え立ち上がった。
「私は……もう、逃げない……!」
その時、朱音が冷ややかに笑いながら姿を現した。
「弱いわね、陽菜ちゃん。でも安心して、そのまま眠っていいわよ……永遠に」
朱音の言葉に陽菜の心が再び揺れかけるが、祖母の言葉が彼女を強く支えた。
「もう二度と……あんな悲劇は繰り返さない!」
陽菜は強く決意を固め、再び炎を力強く手に集め始めた。
「まだ……終わらない……!」
* * *
岩場では迅と豪の攻防がさらに激しくなっていた。迅は豪の弱点である右肩から胸元を狙い、再び高速で飛び込む。
「これで決める!」
迅は豪の腕をぎりぎりでかわし、《断撃掌》を一点に集中させる。掌底が豪の胸元に炸裂すると、霊力が凝縮され衝撃波が豪を大きく弾き飛ばした。豪の体が岩場を激しく転がり、地面に深く溝を刻み、岩片が激しく飛び散った。
豪は肩で息を荒くしながらゆっくりと起き上がり、口元から鮮血が滴り落ち、右肩が微かに震えている。
「いい拳だ。久々に効いたぜ……でもまだ終わりじゃない!」
豪が再び立ち上がると、その体を覆う紋様がさらに強く輝き始め、周囲の空気が熱く震え始める。
一方、林の中では陽菜が幻影の中で祖母の言葉に励まされ、再び力を取り戻していた。目の前で嘲笑を浮かべる朱音に、鋭い視線を向ける。
「おばあちゃんが教えてくれたの。炎は怖がるものじゃない。守るために使うものだって!」
陽菜の手に再び炎が勢いよく燃え上がり、周囲の空気が一気に熱を帯びた。
朱音は表情をわずかに歪ませながらも冷静に空中に新たな紋様を描き、その紋様から闇が溢れ出して陽菜の視界が再び歪み始める。
「あなたの過去は消えないわ。炎は再びすべてを飲み込むのよ」
陽菜は一瞬動揺するが、すぐに頭を強く振り払う。
「もう騙されない!炎は……私自身なんだから!」
彼女の叫びと共に巨大な火球が炸裂し、幻影ごと周囲を飲み込んだ。朱音は衝撃で後方へ弾かれ、腕に焦げ跡と鮮血が滲み、息を荒くしながらも笑みを浮かべて立ち上がった。
「なかなかやるじゃない……けどまだ終わりじゃないわよ!」
朱音が指を高く掲げると、闇色の紋様が空間全体に不気味に広がった。木々や岩肌が歪み、現実そのものが崩れ始めるようだった。
陽菜が目を擦ると、四方八方から幽かな声が囁く。
「こっちよ……私が本物よ……」
朱音自身が数十体に増え、森の奥深くから手招きしている。視界は幻影で占拠され、自分の立ち位置さえわからない。足元の木の根は蛇のようにうねり、遠くの岩場が目の前まで迫っているように見える。
パニックで息が荒くなる陽菜の背後で、朱音の声が冷たく響いた。
「見るものすべてが幻影。信じたものが裏切る――それが私の世界」
陽菜が必死に炎を握り締めるも、火は周囲の幻影に吸い込まれ、攻撃対象を見失っている。
「やめて……こんなの……!」
次の瞬間、朱音の幻影が一斉に崩れ、実体の朱音だけが鮮明に浮かび上がったが、その背後には無数の影がうごめいている。
「幻を破るかどうかは、あなた次第――でも簡単にはいかないわ」
朱音が再び微笑むと、闇色の紋様が地面から湧き上がった。