第5話:呼ばれぬ者たち
東京・国家異能対策機関SPEC本部――朝からざわついていた。
沖縄で発生中の大規模霊災に対応すべく、政府が“特別異能対策班”を急遽編成したのだ。
情報が飛び交い、各課のメンバーが次々と南方派遣の準備に追われている。
……が。
「なんで!なんでうちだけ!!」
白鷺陽菜が、応接室のテーブルをばんばん叩いていた。火花が散りそうなくらいの怒り顔である。
「うちはこの前!トンネルの霊災止めたばっかりですよ!?しらたまもめちゃくちゃ頑張ったし!なあ澪!」
「う、うん……頑張ったよね、しらたま……」
芹沢澪は肩に乗った式神・しらたまを撫でながら、しょんぼり頷く。
ちなみに、しらたまはキョトンとしている。状況を理解しているのかしていないのか。
宗像迅はというと、近くの椅子でカップそばをすする手を止めずに言う。
「そりゃ、うちらが“呼ばれへん枠”やからやろ。いつも勝手に巻き込まれて、勝手に処理してるからな」
「そういうの、公式に評価されるべきだと思いますっ!」
犬養悠真は静かにスマホを伏せた。
SNSで“沖縄派遣任命”と喜ぶ他課の投稿を見てしまったからだ。別に嫉妬とかじゃない。いや、ちょっとはあるけど。
(俺は、行かなくて済むならそれでいい)
(あっちの霊災、でかい。……視たくない)
彼の《視ノ眼・地獄鏡》は、異常な霊的現象に引き寄せられる。いや、正確には“向こうが視せにくる”。
そして、部屋の奥。
九条明鏡は、一切会話に入らず、ただ結界符を並べていた。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、書類ではなく空気の流れを見ているようで――
「……そういうことだ」
ぽつりと、ひとことだけ言った。
その言葉の意味は、誰もが察していた。
“本部は動かせない”
“我々は、まだ呼ばれていない”
だが九条班の誰一人、それで終わるとは思っていなかった。
むしろ、これからが始まりだということを、全員が直感していた。
* * *
その日の午後、九条班は都内某所の神社跡地で起きた“低レベル霊障”の調査に出向いていた。
「ったく、低レベル言うても油断したら燃えるしなあ……」
迅が半笑いで護符を胸元にしまいながら呟く。
「いや、燃やすのは主に陽菜だから」
「むぐっ!それは言いすぎですぅ!」
澪はしらたまを放ち、敷地内を旋回させる。
「うーん……この霊圧、すごく湿ってる。重たくて、混ざりものがある感じ……」
そのときだった。犬養の視界がぐにゃりと歪む。
(……またか)
世界の色が静かに褪せていく。
見慣れたはずの神社跡が、灰色の膜に包まれる。
《視ノ眼・地獄鏡》が、強制的に開いていた。
かつてここに“誰か”がいた。確かに、生きていた。
だが今は、名前も記録も失われ、残っているのは“記憶の残骸”だけ。
犬養の耳元で、誰かの声がささやいた気がした。
「……向こうで、もう始まっている」
直後、霊波が跳ねた。
澪のしらたまが激しく尾を振る。
「……この波形……!」
「おいおい、どうした澪。何か来たか?」
迅が護符を構えながら振り返る。
「これ、沖縄で記録された未分類霊波と……一致してる」
澪の声が震えていた。
この“異物”は、東京だけの問題ではない。
それは、南方から確実に“こちら”へ届いていた。
* * *
本部に戻った九条班は、先ほどの霊波データを記録課へ提出した。
澪の手には、未分類霊波との一致を示す解析ログがしっかり残っている。
……だが、返ってきたのは「関連性なし」との一文だった。
「なっ……は? これ見てまだ関係ないって言えるの!? 逆にすごくないですか!?本部、目腐ってます!?」 陽菜が叫びながら、再び机をバンッと叩いた。今度は焦げなかった。進歩だ。
「ふーん……これはもう、“見なかったことにしたい案件”やな」
迅が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「情報部の中にも何か、あるのかも……」
澪が呟くが、そこに返答はなかった。
しらたまは、静かに九条の肩へ移動していた。
「……九条さん」
犬養が恐る恐る声をかける。
「命令がないのに、動いていいんですか……?」
その問いに、九条は微動だにせず――やがて、結界符を一枚、淡く光らせた。
「……準備を」
それだけだった。
空気が、張り詰める。
陽菜が、いの一番に拳を握る。 「了解っ! もう、勝手に行きましょう! ていうか行かせてください!」
「なんやかんや言うて、一番乗り気やなお前……」 迅が呆れたように笑いながらも、すでに腰の符束を調整し始めている。
「私、飛行機苦手なんだけど……しらたまは元気そうだし、行くしかないよね……」 澪も観測データをまとめながら、しらたまとアイコンタクトを取る。
そして、犬養は――
(……視たくない)
(でも、俺が視なきゃ、誰が視るんだ)
静かにうなずいた。
その背後で、九条がそっと一言を零す。
「……向こうには、“影”がある」
それは命令ではなく、ただの観測結果。
だが、それを聞いた瞬間、九条班の誰もが「行く理由」として十分だと感じていた。
* * *
その夜。
九条班の面々は、それぞれのタイミングで出動準備を整えていた。
公式には“追加調査のための資料収集出張”という建前だが、中身は限りなく任務に近い。
澪はしらたまの霊圧バランスを調整しつつ、沖縄地域における未分類霊波の変異傾向を確認していた。
「うーん、やっぱりこっちと霊場構造が違うんだよね……重さが違うっていうか、ね、しらたま」
しらたまは、珍しく自ら霊波を探るように鼻先を振った。
次の瞬間、その尾がぴくりと跳ねる。
「……しらたま?」
その反応は澪だけでなく、部屋の空気までも変えた。
霊波というより、“音”に近いものが、空気を震わせた。
それは電子音のようでいて、誰かの声のようでもあった。
──きこえるか
陽菜が、隣の部屋から顔を出した。
「なんか今、声みたいなの聞こえなかった?」
迅も資料を手にして現れた。
「こっちにも届いた。これ……向こうからの“干渉”やろ」
犬養は、部屋の隅で静かに座っていた。
開いていないはずの視界の中で、何かが“こちら”を覗いている気がした。
(……まただ。見られてる。視られてる)
彼の枕元には、見覚えのない呪符が一枚置かれていた。
だがそれは、九条が朝になってから何も言わず、ただ一瞥しただけで懐にしまい込んだ。
朝。
九条は最後に一言だけを口にした。
「……出発だ」
誰も疑問を挟まなかった。
飛行機の中、窓の外に広がる雲の海。
その先には、未だ霧に包まれた“島”がある。
そこは、彼らが呼ばれることのなかった場所。
だが、誰よりも強く──彼らが踏み込むべき場所だった。