第3話:火とツッコミと爆発と
犬養悠真は、自分の人生がこんなにも濃いキャラに囲まれるとは想像していなかった。
配属2日目。朝から九条の「出動だ」という一言で連れ出され、気がつけば東京本部から関東某県へ。目的地は、地元でも有名な心霊スポット・旧稲狭トンネル。過去に何件もの事故が起き、今では“通ると不幸になる”と噂される場所だ。
車で山を登るにつれ、車内の空気はどんどんにぎやかになっていった。陽菜が、例によって騒がしい。
「いや〜、やっぱり現場はいいですね!空気が違いますよ、悠真くん!」
「それ……気圧の話じゃないですか?」
隣でカップ焼きそばをもぐもぐしている迅が苦笑する。
「ま、現場に来たら腹ごしらえが基本やからな。空気の違いなんて、うまいかどうかで決まるやろ」
陽菜がふくれっ面で「も〜、もっと真面目にやってくださいよ!」と怒る。が、怒りながらも火の粉がちょろちょろと手元に集まっているあたりが怖い。
「陽菜さん、それ、いつも無意識で出てますけど……ちょっと危ないですよ?」
「えっ!?あっ、ご、ごめん!クセで……!」
助手席で静かに窓の外を見つめるのは九条。銀縁眼鏡の奥の瞳は、どこか別の場所を見ているようだった。無言。いつものことだ。だがその沈黙が、不思議とチーム全体に緊張を走らせる。彼が黙っているときは、何かを“視て”いるときだ。
一方で、後部座席のもうひとり――芹沢澪はすでにテンションが天井を突き抜けていた。
「ふふふ、ついに来ましたね……旧稲狭トンネル!ネットで噂になってた“霊災スポット”、現地調査できるなんて!白蛇ちゃん、撮影準備はバッチリですよ〜!」
肩に巻きついた白蛇の式神が、ちろりと舌を出す。ちなみに、喋らないが表情は豊かだ。たぶん驚いている。
現場に到着する直前、犬養はふとスマートフォンを確認した。
昨晩のブリーフィングで共有されたニュースの見出しが、脳裏によぎる。
【沖縄県で失踪者急増。県知事が政府に協力要請】
内容自体は特別チームに通達済みであり、九条からも簡単な報告があった。
だが、具体的な調査指示はまだ下りていない。現時点では、別部署が動いているとのことだった。
「沖縄の件、まだこっちには回ってこないんですね」
犬養がぽつりとつぶやくと、陽菜が首をかしげた。
「え?何かあったんですか?」
「昨日、失踪事件の話が……まあ、別件らしいですけど」
「ふーん。失踪か……。でもそっちはそっちで大変そうですね。こっちは“現れちゃってる系”ですけど」
陽菜が軽く笑って手元の霊火を操る。
犬養はスマホを伏せ、胸の奥にうっすらとした不安を残しながら視線を前に戻した。
東京とは別の場所で起きている異変――それは、彼の“視える力”にも、まだ繋がりのない領域だった。
現場に到着すると、既に警察と自治体の対策員たちが待機していた。立ち入り禁止テープが張られ、現地は封鎖されている。
トンネルはまるで口を開けた獣のように、黒々とした内部を覗かせていた。周囲の木々は静まり返り、風すら通らない。鳥の声も聞こえず、草木も何かを避けるようにトンネルを囲っていた。
空気は澱み、足元の土すら重たく感じる。湿った匂いと、微かに金属のような冷たさを帯びた霊気が肌を刺した。
トンネル前での挨拶もそこそこに、九条がひとことだけ呟いた。
「――入る」
「出た、即決っ!」と迅がツッコみ、澪が「九条さんの“入る”には“命の保証はない”って意味が含まれてる気がするんですよね」と楽しげに言った。
だがその言葉に続くように、澪の目が一瞬だけ真剣になる。
「……でも、本当に濃い。白蛇が小さく震えてる……」
陽菜は手をかざして、霊気の流れを探るように目を閉じた。
「いますね……これは完全に霊災系です。濃度が異常です。トンネル奥が……まるで沈んでるみたい……」
全員の空気が、じりと緊張に染まりはじめた。
迅は拳を鳴らしながら前に出て、犬養に小声で言う。
「おい、何かあったらすぐ下がれよ。霊災は、生きてる人間の念が一番やっかいなんや」
「……はい」
そのときだった。
「これはもう、燃やすしかないッ!!」
陽菜が叫ぶ。手元の霊火がぶわっと広がり、風圧で犬養の前髪が揺れる。
「ちょっ、待って!?燃やさないという選択肢もありますよね!?っていうか、何も始まってないですよね!?」
犬養のツッコミも空しく、陽菜の炎術が発動寸前になる。
その瞬間、犬養の《視ノ眼・地獄鏡》が反応した。
冷たいものが背中を走り、視界がにじむ。
音が消え、色が抜け、まるで世界が一枚の古い白黒写真に変わったような感覚。
トンネルの奥。
黒く濁った、渦巻く霊気。
怒り、悲しみ、恨み、絶望。
それらが複雑に絡まり合い、異様な“呪いの塊”として蠢いていた。
――これ、やばい。犬養は直感する。陽菜の霊火を当てたら、逆に何かが“目覚める”可能性すらある。
「やめたほうがいい……!」
口に出す前に、陽菜が叫んだ。
「来ないなら──こっちから行きます!」
――バゴォォォォォン!!!
轟音。光。トンネル入口が火柱に包まれる。
「ぎゃあああ!?ちょっと!?誰か火消してえええええっ!!」
迅の悲鳴が木霊し、白蛇がしっぽをぶんぶん振りながら澪の肩から逃げようとする。
犬養は呆然としながら思った。
……このチーム、大丈夫なのか、本当に。
煙の向こうで、九条が無言で結界を展開し始めていた。
火柱が消えた後、トンネル前はしばらく沈黙していた。
白煙の向こう、陽菜が両手を突き出したまま硬直している。足元の地面が、爆風の余波で黒く焦げていた。
「……やっちゃった?」
陽菜が恐る恐る口を開く。
「やっちゃったどころか、崩れかけてるやないか!」
迅が爆風で乱れた前髪をかき上げながら叫ぶ。
「ちょっと!ちゃんと火力調整してっていつも言ってるよね!?あとで整備班に怒られるのこっちなんだからね!?」
澪は白蛇を抱えながら半泣きで訴えていた。白蛇は無言で陽菜をじっと見ている。なんとなく責めているような気がした。
「え、えーと……いやでも、勢いっていうか、正義の炎というか……っ」
陽菜はしどろもどろになりながら、手のひらをそっと隠す。
そんな騒ぎの中、犬養はまだ“視て”いた。
視界の端で渦巻く黒い霊気は、さっきの爆発を受けて活性化していた。暴力的な感情の塊が、今まさに意識を持とうとしているように感じる。
ごう、と音がした。風ではない、空気そのものが歪むような感覚。
「来る……!」
犬養の警告と同時に、トンネルの奥から、ずるりと何かが這い出してきた。
形を成さない、黒い人型の影。目も口もないが、明らかに“こちらを見ている”気配があった。
「で、出たー!?なんかいるーっ!!」
陽菜が叫ぶが、霊火を再度放つにはチャージが間に合わない。
迅が前に出ようとするが、黒い影から伸びた腕のようなものが、地面を這いながら這い寄ってくる。
「これ、ただの怨霊ってレベルちゃうな……」
犬養の《視ノ眼・地獄鏡》が再び開く。
色が消える世界の中で、黒い影の中に、何かの記憶が渦巻いていた。
――家族の事故死。残された者の後悔。
無責任な噂。踏み荒らされた供物。
やがて、ただ“忘れられた”という悲しみ。
それらが何十年も積み重なって、この存在が生まれたのだ。
人間の感情の層が、時間をかけて変質し、形になった“呪い”だ。
「……そうか、おまえ……」
犬養は一歩前に出る。
「誰にも、気づいてもらえなかったんだな」
黒い影が、ほんの少しだけ揺れた。
まるで、その言葉に反応したかのように。
「な、何言ってるの悠真くん!?危ないって!」
陽菜が声を上げるが、犬養は前へ進む。
影は、微動だにしない。
ただ、わずかに震えていた。まるで、戸惑っているかのように。
「オレにも、何かが“視える”だけで、できることなんてないのかもしれない。でも……それでも、おまえのこと、ここにいるって分かってるやつがいるって、伝えたい」
影の輪郭が、少しずつ崩れていく。
その時だった。静かに、一歩、足音が響く。
九条が、犬養の隣に立っていた。
彼は無言で腕を組み、視線を黒い影に向けた。
そして、片手をかざす。そこに、淡く白い光が集まり始めた。
《封霊結界・無明》
術式も呪文もない。ただ、静かな光。
その光が、黒い影をそっと包み込む。
影は、一瞬抵抗したように身をくねらせたが、それも長くは続かなかった。
やがて、静かに、霧のように溶けていった。
風が吹く。重かった空気が、ふと軽くなる。
「……終わった、のか?」
犬養が問いかけるように言う。
九条はゆっくりと振り返り、
「……任務、完了だ」とだけ答えた。
その瞬間、トンネル周辺に張られていた霊的な圧が一気に消失した。
警戒していた地元の対策班も、ほっと息をつく。
陽菜はその場にへたり込み、「あああ、またやらかしたぁ……!」と頭を抱える。
「報告書……どうしよう……今回も燃やしたって書かないといけないのかな……」
澪は白蛇をなでながら、早くも憂鬱な顔をしている。
「せめて次回は爆発しない任務にしてほしい……」
迅が呟き、立ち上がった犬養に軽く肩を叩いた。
「ナイスやったな、坊主。オレの出番、いらんかったな」
「……いえ、あれは、たまたまです」
犬養はただ静かに空を見上げていた。
灰色だった空が、少しだけ青みを帯びている気がした。
(誰も気づかなくても、視えてしまった自分には、忘れられない)
“視る”ということの意味を、彼は少しだけ理解しはじめていた。