第1話:見えすぎ高校生、国家機密と出会う
――東京都・杉並区、午後十時三十二分。
住宅街の一角に、パトカーの赤色灯がぼんやりと回っていた。
「……また、“誰もいない部屋から声がした”って通報か」
現場に到着した警官の一人が、ため息まじりにメモをめくる。
これで今週だけで三件目。同じマンション、同じ時間帯、同じ“誰もいないはずの部屋”。
チャイムを鳴らしても反応なし。管理人の立ち会いでドアを開ける。
中には誰もいない。ただ、そこには何かが“いた痕跡”だけが残されていた。
——部屋の空気が、不自然なほど冷たい。
——食器棚の一枚だけ、皿がずれている。
——絨毯に、誰かが立っていたような窪み。
「なんだろな……風? 地震?」
「……いや、お前、今、聞こえなかったか?」
「聞こえるわけ——」
そのときだった。
“――ねえ、どうして、来ちゃったの?”
声が、確かにした。
女の子のような、だがどこか不自然に歪んだ、こだまのような声が。
警官二人は同時に息を飲んだ。背中に、ありえないほど冷たい汗が流れる。
だが——次の瞬間には何もなかった。
声も、気配も、ただの幻聴のように消えた。
「…………なあ、これって、もうウチの管轄じゃないんじゃねぇか?」
「……ああ。俺たち、そういう“係”じゃねぇもんな……」
その夜の報告書は、「異常なし」の三文字で締めくくられた。
そして、都庁の奥深く——一般人には決して届かない、ある機関へと連絡が入る。
《SPEC》——Sacred Phenomena Evaluation and Control
霊的事象の監察と、異能の制御を任務とする、政府直属の極秘機関。
長机に並ぶ資料の山。壁に貼られた“非公開案件”の地図。
その中央に立つ、銀縁眼鏡の男が、静かに呟いた。
「……また、“声だけの現象”か」
「《観ノ目》で視た限り、残留していた霊的履歴は……“無意識下の呼び声”。」
報告を終えたメンバーたちは息をのむ。
男は、ひとつ頷き——そして、呟くように言った。
「作戦コードを発令。“第二級未明事象”。現地に向かうぞ」
無言で動き出す黒スーツの集団。
その背後の壁に、赤い文字で浮かぶコードネーム——
《幽声現象》
対応機関:《SPEC》現場班、出動開始。
静かなる始まりは、すでに日常を侵食していた。
* * *
春の風が、無機質な校舎の隙間を吹き抜ける。
東京都立南練高等学校(とうきょうとりつ なんれんこうとうがっこう)。
登校時間を知らせるチャイムが鳴り響く中、犬養 悠真は教室の窓際の席で、ぼんやりと空を眺めていた。
左目に巻かれた黒い眼帯。
それが理由で距離を取られている……わけでは、たぶんない。
彼自身が、他人と距離を置いていた。いや、置かざるを得なかった。
──見えるからだ。
他の誰にも見えない、終わった存在が。
「……また見てる。変なヤツ」
前の席の女子が、ボソッと呟く声が聞こえる。
悠真は、何も返さない。ただ、視線を外す。いつものことだ。
(わかってるよ。俺が変なのは。俺自身が、一番わかってる)
時折、彼の左目が疼くことがあった。
そして、その疼きの先には、決まって黒い影がいる。
まるで人の形をした煤のようなもの。
学校の廊下、電車の車内、交差点の向こう側。
人々の生活の隙間に、それは確かにいる。
でも誰も気づかない。誰も反応しない。
まるで、世界がそれを「存在していないこと」にしているかのように。
それでも、今日まではまだ「見てるだけ」で済んでいた。
……その日までは。
* * *
「ねえ、聞いた? あのアパートでさ、また“変な声”がしたんだって」
昼休み、教室の一角。女子たちが話していた。
「誰もいない部屋から、女の子の声がしたとか……。昨日まで住んでた人、失踪したんでしょ?」
その言葉に、悠真はわずかに眉を動かす。
(……またか。あの場所、俺の家からそんなに遠くない)
ふと、そのときだった。
廊下の向こうで、誰かの悲鳴が上がる。
「○○! 大丈夫!? しっかりして!」
名前を呼ばれたのは、悠真のクラスメイトだった男子。
朝から、どこか様子がおかしいと思っていた生徒だった。
担任が慌てて駆けつける。廊下はざわめきに包まれた。
──だが、悠真だけは、違うものを見ていた。
倒れた男子の後ろ、蛍光灯の陰。
誰にも気づかれず、悠真の左目だけが捉える何か。
黒い影。人の形をしている。だが人ではない。
それは悠真に気づいたように、かすかに顔を向けた。
目が合った。
その瞬間、視界の奥に、ズンッとした重さが落ちた。
血の気が引く。呼吸がうまくできない。
「……視ノ眼が、反応してる……?」
小さく、息を呟く。
そして彼は、確信する。
これはもう、見えるだけでは済まされない。
午後の授業。
社会科教師の声が単調に響く教室で、犬養 悠真は、再び左目の疼きを感じていた。
教室の空気が、さっきから微妙に“変”だった。
何かがじわじわと近づいているような、そんな感覚。
(……また来る。今度は、教室に)
そのときだった。
バンッ!
教室のドアが、勢いよく開かれた。
静寂。教師が言葉を失い、生徒たちが一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、黒いスーツの男女数名。
全員がただ者ではない空気をまとい、しかも明らかに生徒ではない。
その中心にいたのは、銀縁の眼鏡をかけ、白髪交じりのポニーテールを結んだ男。
冷たい視線で悠真を見据え、こう告げた。
「犬養 悠真。君は、国家管理対象に指定された。同行を要請する」
は?
教室中が凍りついた。
「……な、なにこれ、ドッキリ? ドラマの撮影?」
「“国家管理”って、犯罪者かなんか!?」
「いや待って、悠真って実はスパイだったり!?」
クラスメイトたちのざわめきを無視し、男は一歩、悠真に近づく。
「拒否は認めない。君の“視ノ眼”が、既に発動段階にあることは確認済みだ」
(……なんで、それを……!?)
驚愕する悠真の背後で、黒スーツたちが一斉に動いた。
一人は笑顔で教室の後ろの窓を開け、もう一人はなぜか床を指でコンコンと叩いている。
「ちょ、ちょっとアンタたち! なに勝手に……!」
教師が抗議しようとした瞬間、別の人物が悠真の机の上に“どんっ”と足を乗せてきた。
法衣ジャケット、上裸、筋肉。
にやりと笑うその男が、低く言う。
「まーまー先生。俺たち、正真正銘の国のお役人なんで。ちょーっと、コイツ借りますね♪」
宗像 迅だった。
さらに窓の外から、身軽な動きで飛び込んでくる少女。
炎のようなポニーテールに、巫女風の制服。そして、明らかに火薬臭。
「おっせーぞ、九条さん! ほら早く保護しないと、また遅れちゃうでしょ!」
白鷺 陽菜、感情フルスロットルの突撃少女。
「ちょっと! 教室で炎術使う気じゃないでしょうね!?」
窓の外から慌てて声を上げたのは、三つ編みにメカ耳ヘッドセットをつけたコート姿の女性。
その肩には、小さな白蛇がちょこんと乗っている。
芹沢 澪、式神オタクの情報解析担当。
騒然とする教室。もう誰も授業どころではない。
悠真は、夢でも見ているのかと思った。
「……これは、なんなんだよ」
力なく呟く悠真に、最初に現れた銀縁の男──**九条 明鏡**が、淡々と告げる。
「君の能力は、“非公開指定霊的資質”に分類されている。国家異能対策機関《SPEC》の管理下に置く」
「ようこそ、非日常へ」
その言葉とともに、悠真の平穏だった日常は、静かに幕を下ろした。
──強制終了。
「ここが……現場?」
街灯もまばらな郊外のアパート前。
深夜、立入禁止の黄色テープを越えて、犬養 悠真は黒スーツたちに囲まれて立っていた。
「え、ちょっと、俺なんで連れてこられてんの? てか、ここって……」
「通報のあった“誰もいないのに声がする部屋”だよ」
隣で気軽に説明する白鷺 陽菜が、すでに制服の袖をたくし上げていた。
その手のひらには、赤く燃えるような霊符が浮かび上がっている。
「じゃあ、陽菜。火力抑えめでいって」
九条 明鏡がそう指示を出した直後。
「はいっ、《陽焔ノ術》!」
陽菜が霊符を空中に跳ね上げ、両手を十字に構えた。
火のエフェクトが舞い上がる。
赤く光る紋様が空中に展開し、それが一瞬で“扉”のように燃え上がった。
「燃えちゃえッ!」
ぼんっ!
派手な音と共に、アパートの一室のドアが“燃えずに”吹き飛ぶ。
炎が霊的結界を焼き切ったのだ。
「はい開場〜。さ、迅さん出番!」
「やれやれ、陽菜ちゃん、火ぃ強ぇって」
筋肉男・宗像 迅が前へ出る。
巨大な掌をかざし、背後の気を圧縮して一点に集中。
「断撃掌ッ!」
ドンッ!
一瞬で空気が爆ぜ、部屋の中に潜んでいた“何か”が姿を見せる。
黒く染まった、歪んだ女の影。
髪が逆立ち、口は裂け、声は無音。
だがその存在は、悠真の視ノ眼にははっきりと映っていた。
(……見える。はっきり……!)
だがそのとき、悠真は気づいた。
その霊の背後――いや、もっと奥に、“別のモノ”がある。
まるで、霊を通じて“どこか”とつながっているかのような……
視界の底で、空間がほんのわずかに揺れた。
(なんだ……? あれ……割れて……る?)
地面が裂けているような、けれど違う。
見えないはずの何かが、悠真の視界にだけ“存在”している。
「悠真くん! 下がって!」
芹沢 澪が手を振る。
その指先から飛び出したのは、小さな白蛇。彼女の式神だった。
「《白蛇》、陽菜ちゃんに合わせて!」
白蛇がぴょんと跳ね、陽菜の手元に巻きつく。霊的エネルギーの流れが増幅される。
「第二段! 《陽焔ノ術・連弾》!」
陽菜が叫び、両手から放たれた火球が、歪んだ霊を直撃。
霊が金切り声をあげるように消滅する。
……だが、終わっていなかった。
悠真は見ていた。
霊が消えたあとも、空間の“裂け目”はそこにある。
地獄のように深く、冷たく、じっと彼を覗いている“穴”。
(あれは……誰にも見えてないのか?)
「……なにが……開いてるんだよ、あれ」
ぽつりと漏らしたその声に、九条明鏡の目だけが、かすかに動いた。
「見えているのか、犬養悠真」
「お前の目が視たものは……放置できない現象だ」
夜風が裂け目をなぞるように吹き抜ける。
その一瞬、確かに聞こえた気がした。
──いぬかい ゆうま──
誰かが、裂け目の向こうから彼を呼んでいた。
悠真は息を呑み、目を見開く。
(……なんだよ、今の声……)
その瞬間、空間のヒビはふっと消えた。
だが胸の奥に残った寒気だけが、現実だと告げていた。