十
南天が遣外館まで秋霜、いや玄薄雪を送り届けると請け合って。
宴の松原に暫しの静寂が戻った。
紫雲英は掛ける言葉に困り視線を泳がせる。
榠樝は沈黙したまま俯いている。
動かぬ二人を案じてか、賢木がゆっくりと近付いてきた。
「人目につく前に内裏に戻らないと」
「そう、だな」
榠樝は顔を上げ、微笑む。
「戻るか」
空は深く青い。
そこに真白な雲がもくもくと湧いていて。
じーわじーわと蝉が鳴いている。
夏だ。
夏至は最も日照時間が長く、太陽の勢いが強い日である。
つまり翌日から日が短くなる日。
虹霓国においては厄払い、邪気払いをすべき日であった。
よって、魔除けと疫病除けの祭祀が行われる。
「同じ季節に二度も同じような行事を行うのは何故なのでございましょうね?」
粽を運んで来た堅香子が、今更のように小首を傾げる。
五月五日の端午の節会の方が、疫病除けを担う祭祀としては重要視されている気がする。
「夏場は疫病の流行る時期だから、魔除けも疫病除けも、何度あっても良いのだろう。おそらく古き方々もそう思われたのではないか?」
同じく粽も食べる。
端午節会は細長い御所粽、夏至は三角の角黍で多少の違いはあるが似たようなものだ。
「薬玉の遣り取りのある端午節会の方がわたくしは好きですけれど」
薬玉は端午の節会に贈り合った縁起物である。古代においては続命縲とも呼ばれた。
麝香、沈香、丁子などの香料を袋に入れ、菖蒲と蓬とを編んで玉状にし、五色の糸を長く垂らしたものだ。
芳香により邪気や不浄を祓うとされる。
節会の騎射や競馬、雅楽寮による舞楽などが行われた後に王より下賜されるほか、貴族同士で贈り合ったりもした。
「端午には騎射も早瓜もあるしな」
早瓜とは正式には内膳司献早瓜という。そのままの意味で早生の瓜を農園から内膳司に献上させる儀式だ。
「わたくし熟瓜の方が好きですわ」
目を輝かせて堅香子が言い、榠樝は苦笑する。
よく熟れた瓜は蔕つまり「ほぞ」が取れることからほぞおち、転じてほぞち、となったらしい。
閑話休題。
「甘いのは私も好きだが、食べ物ばかりだな」
「五雲国の菓子も美味しいですわね」
「そうだな」
遣外館が置かれて後、献上される菓子などの種類も大いに増えた。
また、遣外館の厨で作られた珍しいものが度々献上されるため、甘いものが好きな女房を始めとして貴族たちからも熱い視線を送られている。
ふっと榠樝が遠くを見た。
秋霜、もとい玄薄雪ら一行の帰国は間近である。
紫雲英を介してお守りを渡した。魔除け、海難除け。
以前紫雲英に渡した国宝級のものとは違い、ささやかな加護しか無いけれど、やはり榠樝が手ずから祈りを込めたものだ。
秋霜には無事に帰ってもらわねば困る。
何しろ大切な相棒だ。
その愛に応えることはできないけれど。
玄秋霜は、五雲国王の想いは、どうしても手放せないもののひとつである。
非道い女。
昨今流行りの教えでは、死後すべての人間は裁判を司る十王という十の尊格の審判を受けるそうだ。
最も罪の重いものは黄泉の国には行けず、地獄という場所に落とされるという。そこで厳しい責め苦を受けるのだそうだ。
いずれ、己が行くのも地獄だろうか。
多くの者の心を弄び、操り、国を守る。
それは果たして神仏から見て善だろうか、悪だろうか。
人たる身にはわからない。
ただ精一杯やり抜くだけだ。
「此度の使節に託すものはすべて揃っていたかな。抜けが無いか確認しただろうか」
独り言のように呟いて。榠樝は立ち上がり、御簾を押し上げる。
気持ちの良い風が袖を揺らしていった。
榠樝はすん、と鼻を鳴らす。
独特の香りと気配がした。
「雨が来るな」
堅香子が隣に来て、空を仰ぐ。
「こんなに晴れておりますのに。でも良い御湿りですわね」
目を細めた榠樝の横顔は透き通って美しい。
頬の丸い輪郭を陽光が縁取って、眩く輝く。
まるで人ではないかのようにすら。
龍神の加護が関係あるのか無いのか。榠樝は特に雨の気配に敏感だ。
雨乞いに関しては歴代の王の中でも屈指の力を持つのではないだろうか。
逆に雨が降り過ぎた時に行われる日乞いの儀式でも、その力は凄まじい。
天に向かって祈れば、天は榠樝の声を聞き届ける。
瀧のように降り注ぐ雨が、布を払うように引いていくあの様は実に神さびて見えた。
丁度良く五雲国の者たちの目に触れたのは特に素晴らしかったと堅香子は思う。
これでまたひとつ、虹霓国の神威が五雲国に伝わるだろう。
王の祈りによって、旱魃も洪水も起こらない国。
理想郷。
無論そのように単純なものでは無いのだけれど。
殊更にそう見せることが肝要だ。
今以て人知の及ばぬ神さびた国。
迂闊に手を出せば、噛まれるだけでは済まぬのだと思って貰わねばならない。
ひとつひとつ。
小さな積み重ねでも。塵も積もれば山となる。
けれど、と堅香子は思う。
積み重ねれば積み重ねる程、榠樝の負う荷は重くなる。
分かち合う相手が居ればいいのに。
早く伴侶が決まればいいのに。
勿論、紫雲英も山桜桃も榠樝を支えているが、立場が違う。
王ではない榠樝を包み込んで癒せる相手が必要だと、堅香子は強く思った。




