七
清涼殿昼御座。
王としてここに居るのも少しは慣れただろうか。
そんなことを思いながら、榠樝は堅香子に水を所望した。
「そろそろ削り氷が恋しい季節となって参りましたね」
碗を差し出し、堅香子が微笑む。
「季節が巡るのは、早いな。次から次へと年中行事が目白押しだ」
そして、その行事に五雲国の大使玄石斛らを招くという重大事も今年から増えた。
虹霓国朝廷からの文も定期的にあちらに送らねばならないし、五雲国に置いた遣外使節団よりの文も山と届く。
そして時候の挨拶と共に届く、五雲国王玄秋霜より求婚の文。
ぺらり、と恋文を持ち上げて榠樝は溜め息を吐く。
わかってやっているのだろうし、飽きて貰っては困るのだが。
「そろそろ面倒臭くなって来たな」
堅香子が苦笑する。無理もない。
「だが、止めるわけにもいかぬ」
秋霜も秋霜で后妃の座は榠樝の為に開けてあるものの、側妾を持てと急き立てられているという。
「王を辞して、そなたと二人で過ごしたいな。誰も知らない地へ、二人で行かないか?」
先日夢でそんなことを囁かれた。
無論速攻断った榠樝である。
何度口説いても靡かない榠樝に、秋霜は若干心が折れかけてきているようだ。
少しばかり甘やかさねばならないだろうか。
「堅香子、悪女というのは難しいな……」
ぼそりと呟く榠樝に、堅香子はますます苦笑を深くする。
「これから十年、悪女を続けていかれるのでしょう」
「そうだ。自分で決めたことだ。遣り遂げなければ」
ひとりではない。
共に立ってくれる者がいる。
待っていてくれている者もいる。
ならば、榠樝だけがひとり先に舞台を降りる訳にはいかない。
「それでもなあ、万寿麿。やはり王というのは、中々大変だな」
御帳台の中、万寿麿はごろんと寝転び腹を出した。
わしわしと撫でてやりながら、榠樝は頭の中で予定をひとつひとつ組み立てていく。
積み木のように組んでいくそれは、ひとつズレが生じれば一気に崩れかねない。
天秤をゆらしつつ、片方に傾かないように。
慎重に、ゆっくりと。
揺れる天秤の上に積み重ねる木片は、形も大きさもひとつひとつ違う。
見極めて、重ねて、時々抜いて。
十年以内に組み上げなければならない。
揺ぎ無き虹霓国。
大国である五雲国と対等に、或いはそれ以上に権勢を誇る国でなければならない。
「父上もこのようなことをずっとやっておられたのだな」
不意に肌にざらりとした感触が走り、榠樝は眉を顰めた。
「そのまま返すぞ」
ふっと細く息を吐き、呪詛の気配を追い遣る。
五雲国から齎されるものが求婚の文だけではないことは、もう気付いている。
秋霜が最初から言っていた。
五雲国は王の、秋霜の思い通りに動く国では無いのだと。
ぱたぱたと足音が響く。
「主上」
「起きている」
御帳台の帳から外を窺えば、微かに息の上がった朱鷺賢木が控えていて。
「呪詛の気配を感じました」
「うん。返した、と思う」
この遣り取りも何度目だろう。
王とはこんなにも方々から敵意を向けられるものなのか。
女東宮の時とは比較にならない。
「結界を張り直します。そして護符を新しいものに交換します」
「頼む」
目印がより目立つようになったのだから当然か。
女東宮よりも女王の方が、ずっと光が強い。
呪詛の標的にするに、目立ってより遣り易くなったのだろう。
そしてその分守り易くもなった、と賢木は言う。
頻度は高くなったけれど、防御の結界を張り易くもなった。
王となった榠樝は常に輝いていて、どこに居ても目立つのだそうだ。
だからこそ、引き付けておかねばと強く思う。
守る対象がひとつならば易い。多くなるほどに難い。
「守り切らなくては、な」
榠樝の呟きはそっと闇に溶けて消えた。
霧のような乳白色。空は鈍い灰青色。
星は無く、少し風がある。
いつもと同じ夢の中。
「榠樝」
抱き寄せようと伸ばされた秋霜の腕を邪険に押し退け、榠樝は溜め息を吐く。
「そなたはいつもいつもひっつきたがるのはどうにかならんのか。甘ったれめ」
「恋しい女に触れたくない男が居るか」
拗ねたように膝を抱えて蹲る秋霜の隣に腰を下ろし、榠樝は溜め息を吐きつつも頭を撫でてやる。
「私が惚れるような素晴らしい王になるのではなかったか?」
秋霜は俯いたまま、何やらごにょごにょと唸っている。
「そなたも大変なのは知っている。だが頑張ってくれ」
「褒美が欲しい」
「王が褒美を強請るのか」
榠樝が笑って秋霜の頭を小突く。
「王だって頑張ったら褒美が欲しい。そなただってそうだろう?」
小さな子供のような発言に、榠樝は思わず笑ってしまった。
「まあ、そうだな。あったら嬉しいな」
「王であるからには、人より優れていなくてはならない。良い結果を出すのが当然のこととされる」
「その為の努力もまた当然。我らは責を担っているのだ」
榠樝の肩に、秋霜がこつんと頭を乗せた。
「だが、愚痴くらい零してもいいだろう。夢の中だ」
「うん。夢の中でくらい、本音を言っても罰は当たるまいよ」
「そなたは言わないけどな。愚痴も本音も」
榠樝は曖昧に笑う。
秋霜は半分味方で半分敵だ。
話せないことも多々ある。
だが、同じ王という立場の者であるからこそ、理解できることも多い。
「何度だって言うが」
秋霜が凭れた肩が温かい。
夢の中であっても、体温も感触もある。
「私はそなたと添い遂げたい。五雲国の后妃に相応しいのはそなたのような女人なのだ。器量もあって度胸もある。並の男では到底敵わない女傑で」
「それはありがとう」
「その上容色も際立って美しいし、可愛いし」
「照れるな」
「全然照れてないだろう。言い過ぎたか。聞き慣れたか」
「慣れたのは慣れたな。確かに。それと何度も言うが、私は虹霓国女王として既に立った。そなたの后にはなれん」
秋霜は深々と溜息を吐く。
「私が王を辞して虹霓国に婿入りするのも駄目なのだろう?」
「駄目だな」
榠樝はスッパリと切り捨てる。
「言っただろう。そなたが王であることが肝要なのだと」
秋霜は切なげに顔を歪めた。泣きそうだった。
榠樝には見えないが、声が微かに震えているのが伝わって。
それでも気付かない振りをする。
非道い女だ。
自嘲の笑みが唇を歪める。
「榠樝」
「なんだ」
「私が……五雲国が虹霓国を侵すと言ったら、そなたどうする?」
「最初に戻るだけだな。龍神の加護を以て打ち払う」
秋霜は深く吐息した。
「そうだな。その身を賭してもそなたはそうする。わかっている。だからやらない。絶対に、させはしない」
「そなたの厚意に甘えているのはわかっているが、譲れぬ一線だからな。私も必死だ」
それから長い沈黙が満ちて。
夢が白み始めるころ、秋霜がぽつりと呟いた。
「そなたに逢いたい」
榠樝は応えなかった。




